5-2
「──とまぁ、そういうわけだ。而して落ち度は我らが一族の若造にある。奥方殿ならびにクルムズの子らへの無礼お詫び申し上げる」
イェシル族の族長バハディルはその大きな体を折りたたむように頭を下げた。それでも頭はツェレンの頭上よりうんと上だった。彼の丁寧な謝罪にシドゥルグは頭を振った。
「どうか頭を上げてくだされバハディル殿。先に手を出したのはこちらなのだ。どうだろう、ここはお互い不問にするのは」
「そうしていただければありがたいな」
バハディルは頭を上げ、穏やかに笑った。バハディルはシドゥルグよりも年老いている印象だった。そのためか、感情の起伏は穏やかだ。獣人の歳は“人”のツェレンには分かりづらい。
バハディルが喧嘩を仲裁し、事情を聞いた後ツェレンに丁寧に謝罪した。たしかにあの滝はイェシル族の縄張りだが、誰もが自由に使って構わないことになっている。それを追い出そうとしたイェシルの若者たちに怒鳴りつけ、先に集落へ戻るように命令した。
そして、こうしてクルムズまで送ってくれ、わざわざシドゥルグの屋敷に赴いて事情の説明と謝罪までしたのだ。
「そちらは“冬眠”から目が覚めたばかりなのだろう?」
「うむ、件の若衆はつい先月目を覚ましたばかりでな」
「それならば気は立っていて仕方ないし、縄張りを荒らされるのは腹立たしいだろう」
どうやら、彼らイェシル族は冬眠をするらしい。ツェレンは口にはしなかったが関心してその話を聞いていた。本当なら、どうやって冬眠をするのか、眠っている間の食事や生活ぶりを聞きたかったが、会話を邪魔するのは忍びない。
ツェレンは大人しく二人の話を聞いていた。
シドゥルグの言葉にバハディルは頷いたものの、何か釈然としていないような表情をしていた。
「まぁ、それもあるのだが……実を申すと、最近不審な人影を見たと言うものが何人かいてな」
「人影?」
シドゥルグが聞き返すと彼は頷く。その場の空気がわずかにひりついた。
「外套を被っていたから種族も分からなかったが、確かに見たと言う者がいてな。まだ冬眠明けだから見間違えかもしれんが……それで我々も警戒していたのだよ」
「それを見たのは?」
「五日ほど前のことだ。まぁ大方“はぐれ”だろう」
「はぐれ?」
“はぐれ”という単語が分からず、つい声に漏れ出てしまった。シドゥルグにじろりと睨まれ、しまったと目線を落とす。しかし、バハディルが気を悪くした様子はなかった。
「そうか、奥方殿は“はぐれ”を知らぬか。簡単に申せばどの一族にも属さない獣人のことを指す言葉だ」
「浮浪者のようなものでしょうか?」
「そうだな。獣人の浮浪者と言って間違いないだろう。この辺りの山に“はぐれ”が入り込むことは稀だがないわけではない。奥方殿もお気をつけくだされ」
「はい、ありがとうございます」
ツェレンが頷き礼を言うと、バハディルは穏やかに笑った。
「素直な良い子を嫁にもらったな、シドゥルグ殿」
その言葉に思わずツェレンは赤面した。ここ最近、シドゥルグとの生活も慣れて来たがそれでも夫婦としての自覚が無く接していた節がある。
「……まぁ、少々お転婆なので手を焼きますが」
シドゥルグが言葉を考えながら答えた。不服を訴えるつもりでツェレンが彼を睨み上げたが、シドゥルグは素知らぬ顔をしていた。そんな夫婦の姿にバハディルは密かに笑った。
***
バハディルが村を去り、次にシドゥルグはルフィンとトゥアナを呼び出した。長女であるファーリアイもその場に呼ばれ、ツェレンもそこに留まった。
「──今回はバハディル殿が不問で良いとされたが、お前たちのしたことは誉められたことではない」
「俺たちは何も悪いことはしていません!」
「本当にそうか? 先に殴ったのはルフィン、お前だと聞いているが」
シドゥルグが鋭く指摘すると、ルフィンが言葉を飲み込み黙る。
「どんな理由であれ、他の一族との諍いはならない。それはお前たちも分かっているはずだ」
「ですが、あいつらが……」
「今、話しているのはお前の行動のこと。ルフィン、口を慎みなさい」
姉に諌められ、ルフィンは反抗するように彼女を睨む。
「なぜ殴った? ルフィン」
「あいつらが、ツェレン様にひどいことを言って……」
「私の?」
そうだっただろうか。確かに人間を物珍しそうに話している言葉は聞いたが、あれをひどいとは思わなかった。しかし、トゥアナも賛同するようにシドゥルグを見ている。彼らは耳がいい。ツェレンには聞こえなくとも、彼らには聞こえたのだろう。
「お前はそれを聞いたか?」
「いいえ、多分私には聞こえなかったんだと思います」
シドゥルグに聞かれ、首を振る。
「ルフィン、彼らはなんて言ったの?」
「……言えません。きっと、ツェレン様が悲しむから」
ファーリアイが彼らの後ろで不安そうにツェレンを見た。そんな彼女に大丈夫だと示すように頷いた。
「私は“人”の生活に慣れてしまっているから、獣人の人たちが第一印象で私のことをどう思うのか知りたいの。知らないと、私がどう彼らと接するべきか分からないわ」
もちろん、ここにいる人たちはツェレンを一族の一員として認めてくれているのは分かっている。しかし、初めはクルムズの人々はツェレンを警戒していた。あれが獣人たちの正しい反応なのだろう。彼らのことをきちんと知りたいとツェレンは思った。
トゥアナは今にも泣きそうな表情をしていて、口を固く閉ざしている。ルフィンはしばらく口を閉ざしていたが、重たそうな口をゆっくりと開いた。
「クルムズは血が穢れると」
ツェレンはその誹謗がどのような意味のあるものなのか分からなかった。それでも、酷い言葉だというのが分かったし、シドゥルグやファーリアイの表情が険しくなったのを見るに、きっと彼らにとって酷い蔑称なのだと分かる。
沈黙を打ち消したのはシドゥルグだった。
「……そうか、分かった。当分、集落から出ることを禁ずる。分かったな?」
「はい」
「もう行っていい。ツェレン、お前は残れ」
シドゥルグはツェレンを一瞥し言った。ツェレンが頷くと「待ってください」とルフィンが口を挟んだ。
「ツェレン様は何も悪くありません。全部、俺がいけないんです。説教も罰も俺たちだけでいいはずだ」
「そう言うわけにはいかん。こいつもあの場にいた。ならばお前を止められなかった責任がある。もう行け」
シドゥルグの言葉は怒りを抑え込んだような鋭いものだった。ファーリアイに促され、ルフィンとトゥアナはその場を去った。ルフィンはずっとツェレンを気遣うような目をこちらに向けたまま、部屋を出ていった。そんな様子にシドゥルグは頭を掻いて口を開いた。
「ルフィンは仲間思いだが、どうも手が出やすい。こうでもしないと己の行動を反省しない」
「……?」
「お前がひどく説教されることを心配していた。これであいつも少しは懲りただろう」
つまりは、ルフィンを反省させるためにツェレンをわざと残らせたらしい。そういうことかとツェレンは息をつけば、シドゥルグは険しい表情をする。
「だが、責任がお前にはあることは事実だ。仮にも族長の妻ならば、人の上に立つ身でもある。面倒ごとが起こる前に、自分の村の者の手綱をしっかり持っていろ。いいか?」
「はい、申し訳ありませんでした……あの、シドゥルグ様」
「なんだ?」
「その、血が穢れるというのは、どういう意味ですか?」
それを聞くのは聞き憚られた。しかし、ルフィンから聞いた以上、それがどういう意味なのか知らなくてはいけないと思った。彼らが、獣人の一族が“人”のことをどう思っているのか。ただ無知のままこのクルムズの安寧に身を任せたままでいる気はなかった。
シドゥルグは心底嫌そうだった。ツェレンにそれを説明することを躊躇っているようだった。
「本当に知りたいか?」
「はい、知りたいです。知らないといけないと思いましたから」
「古い考えの一つだ。獣人と“人”の混血によって、その一家からは純粋な獣人は生まれなくなる。それを軽蔑して年寄りどもがよく“血が穢れた”と言う。“人”は獣人と縁づくことを忌み嫌う者がいるが、それは獣人も同じで“人”と交わることを禁じている一族もいる」
そのことをツェレンは初めて知った。“人”の中には、獣人へ嫁ぐことを嫌がる娘がいることは知っていた。しかし、獣人たちも“人”と婚姻を疎うとは、思いもしなかった。
「イェシルも混血を禁じられている。まぁ、バハディル殿はともかくとして、あそこは脳の古く固まった長老がまだ牛耳っているから、それに影響される若者もいるんだろう」
「どうして、そんな風に考えてしまうのですか?」
「獣人には獣人なりの誇りがある。気高く先祖から代々受け継いだ血を己の身に宿し、次の世代に引き継ぐ義務があると考えている。特に、狼獣人のような戦闘獣人はその傾向が強いな。“人”は脆く力も弱い。血が混じることで一族が弱くなると考える者もいる。単純に“人”の血を流すことを忌み嫌う奴もいるな。だが、“人”と交わることは悪いことばかりではない」
ツェレンはシドゥルグの言葉に静かに耳を傾け続けた。
「“人”と獣人の子は混血児と呼ばれる。血のよく混じった混血児は体も強く、病気になりにくくなるとも言われている」
「え、でも、人は弱いからって……」
「要は一族の考え方の違いだ。“人”自体は弱くとも、混血児はそうと限らないと俺は思う。地域によっては特殊な力を宿すという伝説もあるそうだ。……まぁ、だからお前が気にするようなことは何も無い」
シドゥルグがツェレンに言い聞かせるように言うので、ツェレンは頷いて反応を示した。気にすることは無いとシドゥルグの言葉は事実だろう。ツェレンが心配するようなことは何も無い。しかし、それと同時に獣人には“人”を歓迎しない者もいる理由がよく分かった気がする。
クルムズの一族にも少しずつ慣れてきたし、親しくなった者もいる。それでも、未だツェレンを遠巻きに見ている者もいる。きっと、ツェレンが“人”であるのが原因なのだろう。
彼らと分かり合える日は来るのだろうか。ツェレンはわずかに未来を不安に思った。
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