7-2

 深夜、ツェレンはそっと寝屋を出た。夜更けの屋敷は不気味なほど静まり返っている。明かりをつけるわけにも行かず、月明かりのみで廊下をそっと渡り、目的地まで向かった。


 向かったのは、客間として使っている部屋だった。その戸をそっと叩いた。やがて、戸の向こうから「はい」と声がかかった。


「エリゲ、私」

「……ツェレン?」


 扉の向こうからエリゲの声が聞こえた。その声は裏返っている。わずかに足音が聞こえ、施錠を外す音の後に扉が開いた。扉の間からエリゲの顔が覗く。彼の表情はあからさまに狼狽えていた。


「どうしたんだよ、こんな時間に」

「良かった起きてて。寝床が変わるとよく眠れないのは、今も変わらないみたいね」


 ツェレンがおかしそうに笑えば、エリゲは恥ずかしそうに頬をかいた。


「お前、何考えてるんだよ、誰かに見られでもしたら……」

「大丈夫。誰にも見られていないわ。あなたに聞きたいことがあるの」


 自分が今とんでもないことをしているのは分かっている。人の妻である自分が、独身者であるエリゲを訪ねるのは、どんな理由であれ不貞を疑われるどころか、場合によっては罰を与えられるかもしれない。それくらい危険なことをしている。ツェレンはそれでも本当のことを知りたかった。


「な、なんだよ」

「ねぇ、エリゲ。あなた、本当は違う理由でここに来たんじゃないの?」


 エリゲは目を少し開き、あからさまに動揺している様子だった。幼い頃はずっと一緒に過ごしていた相手だ。彼が何かを隠していることはもう間違いないことをツェレンは確信した。


「何?」

「だって、様子がおかしいんだもの。私たち、お互い嘘がつけないってことは知ってるでしょう? ねぇ、マヴィに何があったの?」


 エリゲは目線を落とし、しばらく口を閉ざしていた。その表情が、言いづらいことを彼が抱えているのを物語っている。ツェレンがもう一度彼の名前を呼びかけると、ゆっくりとエリゲは口を開いた。


「……襲われたんだ」

「え?」


 その言葉に、ツェレンは血の気が引いた。集落が襲われたの意味だと思ったのだ。それを否定するようにエリゲは言葉を続ける。


「襲われたのは羊飼いの一家だ。オズベックさんのところ。遊牧の季節だからって先月旅立ったんだ。……でも、ボロボロになって帰ってきた。羊も何もかも奪われて、それでもどうにか帰ってくることができた」

「そんな一体、誰がそんなことを?」

「ハカンだ」


 その名にツェレンは嫌な懐かしさを感じた。


「ハカンって、サル族の?」

「そうだ。これは前哨にすぎないって族長が言ってた。奴ら、俺たちの草原に攻め込むつもりだ」


 ハカンは、南東の荒地“人”のサル族の族長の名前だ。近年、周辺集落を襲い、少しずつ領土を広げている一族であった。

 数年前、ハカンはマヴィの族長ヴォルカンに自身の息子の嫁にツェレンを貰いたいと打診した。表面上、穏やかな縁談だったが、その内心のマヴィの土地を得たいという企みが嫌と言うほど滲んだ交渉にツェレンは辟易とした。ツェレンは昔から遠慮を知らない娘だった。ハカンの息子との婚姻を嫌がり、はっきりと父にそのことを告げた。そして、最終的に父はクルムズへ嫁がせることにしたのだ。

 縁談が決まってから、ハカンは何も動かなかった。少しからず、恨みを買い報復を受けるのではと危惧していたが、驚くほど何もなかったのだ。


 それが今になって、動き出した。いや、ヴォルカンはこれを危惧してクルムズと同盟を組んだのだ。いずれはこうなることだった。それでも、ツェレンの内心に罪悪感が生まれた。


「私が、婚姻を断ったから?」

「ツェレン、それは違う。決めたのは族長だろう?」

「だって、もし私がハカンの息子と結婚したら、サル族が攻めてくることなんてなかったはずよ」

「もし、お前がサル族へ嫁いでいたとしても、奴らが武力をちらつかせて言いなりになってただけさ。心配するな。シドゥルグ様は俺たちを守ってくださることを約束してくれた」

「本当?」


 エリゲは微笑んで頷いた。


「俺も話してみて分かった。約束を違わないお方だよ。……勘違いするなよ、あの人はお前を心配させたくなくて、俺に口止めしたんだ。いずれ自分から説明するとおっしゃってたんだ」

「そうだったの……」

「ほら、早く戻れ。夜中に人妻が男に会ってるところなんて見られたら大騒ぎだぞ。俺も面倒ごとはごめんだ」

「わ、分かったわよ」


 促され、ツェレンはその場を離れようとする。エリゲも扉を閉めようとしたが、彼女の背を見て、呼び止めた。


「ツェレン」

「何?」


 ツェレンはくるりと振り返る。エリゲは大きく息を吸ったのか肩が大袈裟なくらい上下しているのが分かる。


「……あの人は、良い人だ。お前は幸せになれるよ」


 エリゲの言葉にツェレンは気恥ずかしそうにはにかんだ。


「うん、ありがとう。……おやすみなさい」

「おやすみ」


 ツェレンは廊下の向こうへ歩き去った。


 ……その背中が夜闇に消えていなくなる。それが見えなくなるまで、エリゲは見守っていた。

 エリゲは先ほどツェレンが振り返った時のことを思い出す。勢いよく振り返るため、彼女の白い着物の裾が翻った。茉莉花が咲くように、一瞬弧を描いたのが目に焼きついたように思い出される。


「じゃあな、ツェレン」


 別れの言葉は誰も聞いていない。夜闇に溶けるように小さく響いた。


***


 翌朝、エリゲは日の出と共に出発することにした。シドゥルグと話したことをマヴィの族長へ早く伝えなくてはいけない。マヴィに着くまで何日もかかるのだから、できるだけ早く帰りたいようだった。それを集落の入り口まで見送りに行った。一人で大丈夫だろうかと不安だったが、途中まで、他の狼獣人が送ってくれるようだ。二人の狼獣人も旅支度を整えエリゲの出発を待った。


 ツェレンはエリゲに日持ちする食事や水を用意した。これ持って行ってと手渡すと、エリゲは苦笑して「多すぎる」と半分返されてしまった。


「……では、俺はこれで失礼いたします。手厚くもてなしていただき、ありがとうございます」


 荷を馬に積み終えたエリゲは改めてシドゥルグに礼を言い、頭を下げた。


「道中気をつけて」

「はい。じゃあ、ツェレンも。元気でやれよ」

「ええ、母さんやみんなによろしく言ってね」


 エリゲは微笑んで頷き、背を向け出発した。彼の背中がゆっくりと小さくなっていくのをじっと見守っていた。


「……一つ、忠告しておく」


 ふいにシドゥルグが言葉を発する。周囲にはツェレンしかいないため、自分に声をかけているのだろうと、彼を見上げた。


「俺たちは鼻だけはなく、耳もいい」

「ええと?」

「お前に密偵は務まらないな」


 シドゥルグがこちらを見下ろし言う。ああ、これはもうバレていると、ツェレンは確信した。


「昨晩……聞いていたのですか?」

「安心しろ、内容まで聞いちゃいねぇ。だが、お前にはそれを説明する義務がある。昨晩、あの小僧と何を話した」


 シドゥルグはツェレンに目線を合わせるように腰を下げて聞く。自然とツェレンの顔を覗き込むような姿勢になる。その声は穏やかだが、ツェレンを覗く目は鋭く、冷ややかだ。ええと、とツェレンは言葉を続ける。


「……マヴィの羊飼いが襲われたと聞きました。それで、シドゥルグ様がマヴィを守ってくださることを約束してくれたと」

「それだけか?」

「はい。あの、誓ってやましいことなんてしていません」


 ツェレンはじっとシドゥルグの目を見て言う。すると、彼はハァと息を吐いて、頭をかいた。


「俺ぁてっきり……」

「てっきり?」

「いや、何でもない。セダのところへ行くのだろう? もう行っていい」

「は、はい。じゃあ、失礼します」


 ツェレンは少し様子のおかしなシドゥルグに気遣いながらも、ぺこりと頭を下げ、その場を去った。


「……良かったですねぇ」


 そんな夫婦のやりとりを黙って聞いていたシドゥルグの直属の部下、ジハンがぼやくように声をかけた。「ああ?」とシドゥルグは怪訝そうに彼を見る。ジハンの表情はどこか愉快そうで、からかうように言葉を続けた。


「奥方様が浮気してなくて。あぁ本当によかった、族長が今すぐあの男を追えって命令したらどうしようって思ってましたから。奥方様に恨まれたかねぇんで。……意外とやきもち焼きなんすね」


 ジハンはにやりと意地の悪い笑みを見せた。イラついたようにシドゥルグが拳を振るった。その大きな拳はシドゥルグも当てるつもりはないらしく、ジハンは軽々と避けた。


「うるせぇぞジハン! 仕事に戻れ!」

「へいへい」


 シドゥルグの怒号が朝の穏やかな空気に響く。しかし、昔馴染みでもあるジハンは彼から怒鳴られて満足そうにニヤつきながらその場を離れて行った。

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