7.草原の報せ
7-1
「──そう、そんな感じ。いい感じよ、チム」
「本当?」
狼獣人の少女が布地に針を刺して刺繍をしているのを、ツェレンが見守る。形は歪だが、よくできている。
ツェレンは週に何度かセダの家で刺繍を教えていた。生徒の顔ぶれはその時によって違うが、いつも五人前後の人数が集まって刺繍を習いにやってきていた。
集落外へ出ることをシドゥルグに禁じられてから授業の日にちを増やすことにした。セダに迷惑ではないかと聞いたが、彼女は快く許してくれた。狼獣人はあまり細かな作業を得意としていない。初めはどうなるかと思った刺繍教室だったが、彼女たちは楽しそうに刺繍を習いにやってきた。
トルガが現れ、十日が過ぎた。山の見回りを増員し、警戒を続けていたが、あれからトルガの姿を見たものはいない。
日々、身の回りの雑用や家事をしたり、空いた時間は刺繍をする日々。こうして女たちと刺繍をしていると、ツェレンは懐かしい気持ちになる。マヴィの女性にとって刺繍は重要な仕事だった。嫁ぐ前にたくさん刺繍をしなくてはいけないし、祖母や母に柄を習い、それを次世代へ引き継いでいく。ツェレンもマヴィにいる間はうんざりするくらい刺繍をした。嫌になる時は気を紛らわすために同年代の女の子たちと集まってお喋りしながらこうして刺繍をしていたものだ。
あの頃が懐かしい。ツェレンよりも先に嫁いでしまった子もいたが、彼女たちは元気にしているだろうかと、思い馳せた。
「ところで、チム。イルマクはどうしたの? この間も来てなかったけど」
刺繍を習いに来ていた一人がチムに聞いた。イルマクはチムの幼馴染で、彼女と共に刺繍を習いにやってきていた。イルマクは狼獣人でも細かな作業が得意らしく、すぐに上達した生徒だった。こういうの好きなんですと、はにかみながらイルマクが言っていたのをツェレンは思い出した。
聞かれたチムは、きゅっと口を閉じ、目を伏せた。
「その……今日も来る前に誘ったんですけど、行かないって」
「何か、あったの? 私、気に障ることでも……」
「違うんです! ツェレン様は何も悪くないんです!」
チムは必死に否定した。しかしその後の言葉は言いづらいらしく、また口を閉ざしてしまった。
「……イルマクのお兄さんが」
「ラシードがどうかしたかえ?」
「イルマクが刺繍を習うことを禁じたんです。……それは異種族の文化で、自分たちは戦士の一族なんだからそんなものは必要ないって」
チムの言葉に、その場がシンと静まり返った。こういうことはこれが初めてではない。
ツェレンのことを好意的に思ってくれている人たちは多い。しかし、ツェレンをというより“人”を好ましく思っていない狼獣人は少しなからずクルムズにいた。ラシードもそのうちの一人だろう。
シドゥルグから“血の穢れ”の話を聞いて以来、ツェレンはその嫌意的な態度や目線がはっきり分かるようになってきた。セダの家へ向かう道中も、刺すように睨みつける目でツェレンを見る者もいる。
「はぁ、バカバカしい」
その重い空気を払うように言い切ったのはセダだった。彼女は絞ってきたヤギの乳の入ったバケツを違う容器に移し替えている。
「ラシードは、自分たちのことしか見えていないのですよ。この世はこの山だけではない、山の麓にもその先にも、世界が広がっていることを知らないのです」
「そうですよ、放っておけばいいんです」
「次はイルマクをこっそり連れてきますよ」
女たちはセダに同意するように言った。ツェレンは頷いて「ありがとうございます」とだけ答えた。
しかし、内心穏やかではなかった。未だ、この一族に受け入れられていないことに、悲しみやもどかしさを感じていた。母から教えられたその刺繍の柄は、母の故郷で代々伝えられたものだ。刺繍に血や種族は関係ない。母から子へ、受け継いでいくものだと、自分の母から教わった。ツェレンの覚えた刺繍は、祖母、そしてその母や祖母たちがずっと紡いできたものだった。
それを、受け入れられないと拒まれることは悲しいことだった。
***
泥のようにまとわりつく悲しみを振り払うように針を進めていると、戸口から軽快な足音が聞こえた。顔を上げてみれば、ファーリアイの姿があった。ツェレンがどうかしたのかと聞く前に彼女は口を開いた。
「ツェレン様、急ぎ屋敷にお戻りください」
「何かあったの?」
「マヴィの草原から、使いの者がやってまいりました」
突然の故郷の名前に、ツェレンは胸騒ぎがした。この数ヶ月間、マヴィから何か報せが来たことはない。マヴィに何か良くないことがあったのだろうか。
針と縫っていたものをその場に置いて、急いで屋敷に戻った。ファーリアイにどんな報せか聞いたが、彼女も知らずにツェレンの迎えに来たのだと言う。
集落をつっきって、屋敷に戻ると、ファーリアイが屋敷の前でツェレンを待つよう言った。彼女が先に屋敷の中へ入り、シドゥルグにツェレンを中に通して良いかを聞きに行く。ファーリアイはすぐにツェレンを呼びにやってきて、中に入った。
「……エリゲ?」
「ツェレン、久しぶりだな!」
応接間に快活な青年の声が響く。ツェレンの耳にその声が懐かしく響いた。
シドゥルグと対面して座るその男の姿を見て、それが自分と同い年の幼馴染、エリゲだと気づいた。紺色の髪をターバンで巻き、旅装姿をしていた。
「久しぶりエリゲ! ……また背が伸びた?」
「親父にもそう言われた。でもあまり実感がなくてさ。お前は変わってなさそうだな。安心したよ」
エリゲの軽口に反論しようとしたが、夫であるシドゥルグの前だ。出かかった言葉をぐっと飲みこみ、別の言葉を口にした。
「それで、どうしてクルムズに? マヴィに何かあったの?」
ツェレンは慎重に伺った。エリゲは息を呑むように一瞬黙り、そして笑顔を見せた。
「大丈夫、何もないって! 長に言われたんだよ。お前がちゃんとやってるかどうか見てきてくれって。お前の母さんの方が心配してたぞ」
「……なぁんだ。もう、心配しなくてもこれでもちゃんとやれてるわ」
「本当かぁ? どうせ何かヘマしたんじゃないか?」
「失礼ね!」
「エリゲ殿」
二人のやりとりを遮るようにシドゥルグがマヴィの青年の名前を呼んだ。エリゲははっとして姿勢を正した。幼馴染とはいえ、人の妻と馴れ馴れしく話してしまったことを悔いている様子だった。
表情が分かりやすいエリゲとは正反対に、シドゥルグの表情はいつもと変わらない。怒りも何も表さない無表情でその鋭い翡翠の目をエリゲに向けている。
「今宵はこの屋敷に泊まっていただきたい。大したもてなしもできませんが、妻に故郷の話をしてやってくれないか」
「はい、お気遣い感謝いたします」
エリゲは恭しく頭を下げ、礼をした。二人のやりとりに、ツェレンは言いようのない小さな違和感を感じた。
***
その日、ツェレンはエリゲを加えて小さな歓迎のご馳走を振る舞った。その料理に舌鼓を打ちながらエリゲに故郷の話を聞いた。両親や弟妹たちは変わりなく元気にやっているということにツェレンはほっと胸を撫で下ろした。
エリゲはツェレンと関わりの深かった近隣の人たちの近況も話してくれた。実家裏のおじいさんが軽く体操をしようとしたらぎっくり腰になってしまった話や、近所の悪ガキが狐を狼と見間違え大人を巻き込む大騒ぎをしてしまった話を面白おかしく語ってくれた。ツェレンはその話に腹を抱えて笑ったが、感じていた違和感は消えなかった。エリゲは何か隠し事をしている。ツェレンが心配だからというだけの理由でわざわざこのクルムズまで訪ねてくるだろうか。それに、ファーリアイがやって来た時も、彼女は急ぎ戻るようにとツェレンに言ったのだ。そんな理由で急がせることはあまり考えられない。
何か早急にシドゥルグに伝えることがあって、エリゲはやって来たのではないかとツェレンは考えていた。
……確かめよう。
ツェレンは真実を知らないまま放っておくことはしないたちだった。
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