6-3

 日が暮れ、家の明かりを灯した頃にセダや遊びから帰ってきた兄弟たちが外を見た。丘の下がわずかに賑やかになり、音が彼女たちには聞こえたのだろう。セダは帰ってきたようですと、ツェレンに教えてくれた。立ち上がって、外へ出ると薄暗い丘を駆けてこちらへ走ってくる狼獣人の姿が見えた。ファーリアイのようだった。兄弟たちが彼女を呼んで帰りを歓迎する。


「ツェレン様!」

「ファーリアイ、無事?」

「はい、大丈夫です。……奴らは山を降りたようです」


 そこに、セダがおずおずと外へ出てファーリアイに近寄った。彼女は心配するように娘の両腕を掴みさすった。ファーリアイは憂を帯びた笑みを浮かべて母を見下ろした。


「ファーリアイ……」

「大丈夫です、母さん。ひどいことは何一つありませんでしたから」


 その言葉にセダは心底安心し、胸を撫で下ろしたようだった。たとえ罪人であろうと、トルガはセダにとって子のようなものだ。長い間、彼女は心配し続けていたのだろう。


「お母様から話は聞いた。……大変だったのね、あなたも、シドゥルグ様も」

「私にとってもシドゥルグ様にとっても、大切な兄弟でしたから。辛くないといえば、嘘になります」


 ファーリアイは微笑んでいた。しかし、その笑みはスッと消え、彼女は目を鋭く細めた。


「ですが、トルガには族長殺しの罪があります。見逃すわけにはまいりません」


 ツェレンは小さく何かがひっかかった。それが何なのかよく分からないが、ファーリアイの言葉が少しだけ気になった。しかし、それを具体的に指摘するにはあやふやすぎて、違和感はすぐに消えて無くなった。


 小屋の前で会話を続けていると、丘の下から駆けてくる狼獣人の姿が見えた。ツェレンは彼が若い狼獣人であると目でとらえた頃には、彼は口を開いて声を発しながらこちらへやってきた。


「ファーリアイさん! 族長が帰ってきました!」


 その知らせにファーリアイとツェレンは急いで丘を降りた。ファーリアイはツェレンの足に合わせ走ってくれているようで「先に行って!」と言っても彼女はツェレンから離れなかった。


 集落をずっと走り続け、屋敷へと戻ると、門前に何人かが集まって話しているようだった。その中心に旅装姿のままのシドゥルグがいる。門前の篝火の明かりで辺りは明るく、彼らはツェレンたちの駆けてくる姿をすぐに見つけたようだった。


「シドゥルグ様!」


 ファーリアイが先に前へ出て、シドゥルグの前に跪いた。


「話は聞いた。トルガを見たと?」

「はい。申し訳ございません、すぐに後を追ったのですが、もう山を降りたようで」


 ファーリアイの言葉に、シドゥルグの後ろから声がかかった。


「なぜ見逃したファーリアイ! お前ならばその場で息の根を止められたであろう!」

「待って、彼女は悪くない!」


 すかさず、ツェレンが否定した。


「私もその場にいたんです。私を守るために、ファーリアイは見逃すしかなかった」

「本当か?」


 シドゥルグがファーリアイを見下ろしたまま、低い声で聞く。彼女は頷いて「はい」と答えた。その返事を聞きシドゥルグは何か思案してから息を吐いた。


「そうか、ご苦労だったファーリアイ。よく、こいつを守ってくれた」

「お言葉、心に痛み入ります」

「気にするな。こいつがいたのなら仕方ない」


 シドゥルグの声音に緊張する鋭さがなくなり、ファーリアイは顔を上げた。ツェレンも肩に入った力が次第に抜けるのが分かる。


「誰も怪我をしていないことは幸いでした。しかし、以前よりも仲間が増えたようです。何人かクルムズの生まれではない獣人もいましたから」

「あとは俺が引き継ぐ。詳細は明日聞くから今日はもう休め」

「……ありがとうございます」


 ファーリアイは頭を再び下げて立ち上がる。その声音はいつものような威勢はあまりない。トルガを見逃したことを未だに悔いているのだろうか。それをシドゥルグも勘づいたのだろう。再び口を開く。


「あまりこのことを気にするな。あいつに止めを刺し損ねたのはお前じゃない、俺だ。……俺が兄の息の根を止めなくてはならん」


 シドゥルグは低く唸るように言った。その声音に、ツェレンは氷のように身体が固まりぞくりと冷たいものが走った。


 シドゥルグの声は、低く穏やかなものだ。怒鳴り声は雷の轟音のような恐ろしいものだが、ツェレンに語りかける声音は心地よく耳に届くものだということを知っている。しかし、そのいずれでもない初めて聞いたシドゥルグの声が恐ろしかった。シドゥルグが死を指す言葉を口にしたからかもしれない。ツェレンはその場にただ立ち尽くして彼を見ていることしかできなかった。


「皆ご苦労、今日は休んでくれ。ファーリアイも今日は休め」


 先ほどの声と違う、いつもの声でシドゥルグは解散を告げた。部下たちは一礼し、去っていく。ファーリアイも同じようにツェレンの元へやってきた。


「ツェレン様、行きましょう」

「お前にはまだ話がある」


 シドゥルグが短く言い、ツェレンを見下ろす。ファーリアイは少し戸惑うようにツェレンを見た。


「大丈夫。今日はゆっくり休んで」

「はい、ありがとうございます。それでは、おやすみなさい」


 ファーリアイはこちらを気にしているようだったが、食い下がることはなく、その場を離れていく。ツェレンは彼女の後ろ姿を見送った。後ろでシドゥルグが屋敷の中へ入っていくのを感じてツェレンも背中を追った。屋敷の中に入るとシドゥルグは腕の籠手の紐を解きながら椅子に座るところだった。その紐を解くのに苦戦しているようだったので、近くまで近寄り、紐を解いてやった。そのままの体制で、シドゥルグは口を開いた。


「ツェレン、当面の間集落の外へ出ることを禁止する」

「……はい、分かりました」


 ツェレンは素直に了承した。すると、シドゥルグは怪訝そうにこちらを見返した。


「……やけに素直だな。俺はてっきり、ぎゃあぎゃあ反論されると思ったが」

「子供扱いはやめてください! 仕方ありませんよ。悪い人が現れたんだし、反対するつもりはありません」


 またあんな目に遭うのはもうごめんだ。シドゥルグの言葉通り、この集落で大人しくしていた方がいいだろう。

 ツェレンの様子にシドゥルグは頷いて「ならいい」と短く答えた。


「……それに、ファーリアイがいなかったら、私もどうなっていたか」


 ツェレンはトルガの姿を思い出す。腕を取られた時、容赦なく力強く握られた。痛かったし、とても振り解けるものではなかった。きっと、彼にとってあの力はわずかなものだっただろう。ツェレンの腕を折ることなんて、容易いことだ。戦うことに慣れていないツェレンが、戦士の一族と言われている狼獣人に敵うわけがない。


 その時、ツェレンの頭上に影が降った。何だろうと見上げると、座っていたシドゥルグが立ち上がってこちらを見下ろしていた。シドゥルグは目を細め、こちらをじっと睨みつけている。ツェレンは解いた籠手を両手に握りしめポカンと見上げていた。


「……奴に何をされた?」


 低い、腹に響くような音だった。その音にツェレンの腹がぞくぞくと震え上がった。シドゥルグの目は怒っているように見え、怯えた。


「な、何もされていません。ファーリアイが、守ってくれたから」

「そうか」


 ふと、その怒りがなくなり目を閉じる。シドゥルグは自分の思っていることを語ってくれない。ツェレンは彼が何を思っているのか感じ取ろうとじっと見つめていた。


 閉じられた目が少し開いた。ツェレンの目と合い、彼の目が細くなる。そこに、先程の鋭さはなく、何かを慈しむような表情にも見える。


 手を伸ばされた。シドゥルグの大きな手がツェレンの頬に触れる。彼がこうして触れることは初めてのことで、ツェレンはひどく緊張した。心臓の鼓動が少しずつ早く大きくなっていくのが分かる。

 その指でツェレンの頬を少し撫でると、さっと離れて行った。


「……お前も休め。あとは自分でやる」

「あ、は、はい。おやすみなさい」


 ぺこりと頭を下げ、そそくさと部屋を出て広い通路に出た。シドゥルグから離れてもまだ心臓が大きく鳴っていた。


 今のはなんだったの?


 ツェレンはぐるぐると考えるが、混乱していた。優しい目をしていた。手も声も優しく、ツェレンの頭を蕩けさせるような甘さを感じた。あんなこと、シドゥルグはこれまでしたことがなかった。


 今度は顔が熱くなってくる。今になって羞恥心が込み上げてきたのだ。

 ……これまで夫婦らしいことなんて何一つしてこなかった。だからこそ、不意打ちのような言動に戸惑った。


(ああ、もう……まだ顔が熱い……)


 自分の思考や頭を冷やすため、ツェレンはゆっくりと通路を歩いた。今日は眠れるだろうかと思い悩みながら。

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