8.狼煙
8-1
クルムズの集落はにわかに慌ただしくなった。マヴィを援護するため、遠征の用意に必要なものをかき集め用意した。
シドゥルグはクルムズから約百人の戦士を送ることにした。集落の戦士の半分以上の人数がマヴィのため戦うことになる。それに対し、サルは倍以上の人数を用意しているだろうと、シドゥルグは予想をしていた。近年、サル族は周囲の小さな集落を襲い、急激に領土を広げはじめている一族だ。おそらく、二百以上の兵が出る。
ツェレンもその用意を手伝った。大量の兵糧作りをしたり、革を縫って防具や鞘を作った。その間、刺繍の授業は休みになった。黙々とひたすら手を動かした。夢中で作業をしていると、ふと集中が途切れることがある。そうすると、これらは、戦のために使われるのかと思ってしまう。堪えきれないような恐ろしさが込み上げてくるので、どうにか集中しようとまた手を動かすのだった。
戦は怖い。しかし、ツェレンが一番不安だったのは、この戦にシドゥルグも出陣することだった。このクルムズで一番身近なのは夫であるシドゥルグだ。マヴィに産まれてからツェレンは戦というものを経験したことがない。
嫁いだ女が嫁ぎ先で戦になり、住む場所はおろか夫や子供を失って帰ってきた人を知っている。よくある話だ。彼の身に何かあったとしたら。そう思うと、途方も無い不安が込み上げてくる。そういうことを考えないように昼間は無我夢中で手を動かした。
日が沈む頃になればツェレンとシドゥルグは屋敷へ戻る。シドゥルグは朝からずっと訓練で集落を留守にしている。一日でやっと顔を合わせるのがこの夕餉前の頃、というのも珍しく無い日々が続いた。
しかし、夕餉になると必ず二人は顔を合わせることにしている。約束したわけではない。夕餉を二人で取りながら、その日あったことをポツポツと話す。しかし、毎日ほとんど同じことの繰り返しのため、会話はいまいち盛り上がらない。おまけにお互いずっと働いているため疲れている。余計会話は続かず、無言の時間が長かった。
……これでは良くない。確かに疲れているが、それはシドゥルグの方がずっと疲れているだろう。朝からずっと訓練のため働いて、時間が空いたら部下たちと作戦を練って指示をする。その上、族長としての責任もある。彼のために何かをしてやりたいと思うのは日頃から思っていたことだ。
***
ツェレンが嫁いでから、シドゥルグは頑なに寝屋を共にしなかった。今でこそ打ち解けあってきたものの、それでも一度離れてしまったものはどうも直しづらく、今もそのままだ。空いていた小部屋に寝台を運び、簡単な寝屋にしている。
夕餉を終えた後、再び小隊長を集わせ、会議を行い、やっとで寝屋に戻る。すでに夜更け近い時刻だ。寝る用意をすませ、寝台に横になろうとした時、扉を叩く音が聞こえた。小さく控えめな音だ。しかし、その小さな音に、驚いて眠気が覚めた。こんな時間に、ここの扉を叩くのは一人しか考えられない。
「入れ」
「……失礼します、すみません。夜遅くに」
「どうした?」
シドゥルグがそう聞くと、温かく香ばしい匂いが鼻をくすぐった。懐かしい匂いがする。
「あの、今日もお疲れ様でした。作ってみたのですが、いかがですか?」
「シャヒ・チャイか。懐かしいな」
ツェレンがトレイに乗せて持ってきたのは湯気の経つミルク入りのお茶だった。シャヒ・チャイと呼ばれるそれは、香辛料やナッツ類を入れた甘く香ばしいお茶として、この辺りの地域で好まれて飲まれているものだ。ツェレンは笑んで湯呑みを手渡した。
「セダさんが作り方を教えてくれたんです。シドゥルグ様もファーリアイも、小さい頃からこれが好きだったからって。疲れた時、これを飲んで寝れば翌日には元気になれるって」
ツェレンから湯呑みを受け取る。湯呑みは温かく、より一層香ばしい匂いを近くに感じる。
「セダがこれを作る時は大体が冬の寒い時期だったが、他の二人には内緒でよく作ってくれたよ」
「?」
ツェレンも自分に用意した湯呑みを手にし、網椅子に座ると、シドゥルグが昔話をしてくれた。
「どうせ、その様子だとセダからあれこれ聞いてるんだろうが、俺がガキの頃は軟弱の弱虫でな。歳の近い子供間じゃ一番弱い立場にあった」
「……族長の子息でも?」
その問いにシドゥルグが首を振る。
「親の地位は関係ない。クルムズでは己の力によって順位が変わる。だから俺は下っ端だった……トルガや他のガキらにいじめられてたよ。酷い目にあった日、セダは何も言わずこれを作ってくれた。それが嬉しかった」
ツェレンは不思議な心地でいた。あのシドゥルグが素直に「嬉しい」と言葉にしている。静かな夜の空気や、チャイの甘い香りがそうさせているのだろうか。──この部屋に、優しい空気が流れているのを、ツェレンはくすぐったく、心地よく感じた。
シドゥルグがチャイを一口飲み、ツェレンも倣うように飲んだ。確かに美味しいが、香辛料の風味が強く、甘みが少ない気がする。セダに味見させてもらった時はもう少し甘かったはずだ。
「砂糖が少なかったかもしれません」
「これくらいがちょうどいい。セダは子供の舌に合わせて甘くしていたんだろう」
シドゥルグは気遣うように言ってくれたが、きっと本心なのだろう。良かった。と胸を撫で下ろしたが、トルガの名前が出たことで、ツェレンは顔を俯かせた。
「なぜ、トルガを殺さなかったか。疑問に思っただろう?」
ツェレンはハッとしてシドゥルグを見返した。ちょうど疑問に思っていたことを言い当てられたような気がした。それは以前から思っていたことだ。もし、マヴィでも同様のことが起きれば、罪人は処刑されるだろう。追放は甘い罰だ。自分にも他人にも厳しいシドゥルグが、反逆者のトルガをなぜ追放にしたのかは以前から思っていたことだった。しかし、それを聞くには勇気が要った。
「……はい。でも、聞かれても良い気のしないことですし、何かしら事情があったのだろうと思っていました」
「事情か、まぁそうだな」
シドゥルグは目を細める。何かを思い出すように遠くを見つめる。
「相手が誰であれ、殺人は重罪だ。それ相応の処罰となると、処刑が残当だ。しかし、父上が望まなかった」
「……シドゥルグ様のお父上が?」
たとえ、自分に剣を向けた息子とはいえ、前族長はトルガの死を望まなかったということだ。
「事切れる前、俺にそう言ったんだ。トルガを殺さないでくれと。それが最期の言葉だった」
「周囲に反対されなかったのですか?」
「反対されたさ、今でもじじい共はそのことで責め立てる。トルガがこの山に姿を現したからなおさらにな。それでも、当時は父の最期の望みを叶えたかった」
シドゥルグの声が穏やかに、けれど心細そうに響く。ツェレンは思わず立ち上がって、彼の方にゆっくりと近寄った。ツェレンよりもずっと身体の大きな彼だが、今にも泣きそうな少年のように見えたのだ。
「……今思えば、俺は間違っていたな」
「それは、考えようではありませんか?」
シドゥルグがこちらを見上げた。表情は意外そうに目を張っている。
「どういう意味だ?」
「セダさんはたとえ罪人でも、今でもトルガを心配されています。彼女はトルガの母親代わりでしたから、たとえ血が繋がってなくとも、自分の腕に抱いた子はいつになっても可愛いものだと思うのです。でももし、殺されたりでもしたら……彼女はきっと一生悲しみを抱くことになります。きっとあなたも同じことになる。お兄様をもし処罰されたら、その後悔を背負い続けることになる」
「後悔? そんなものを恐れて長が務まるものか。俺の後悔は、奴の留めを刺さなかったことだ」
シドゥルグの声がわずかに荒くなった。しかし、ツェレンは穏やかに彼を見下ろしていた。その様子にシドゥルグは一度込み上げてきた怒気は表面に現れる前に治った。
「……もうお前も休め。明日も早いだろう」
「はい、そうさせてもらいます」
まだわずかな時しか共に過ごしていない二人だが、お互い頑固であることは嫌と言うほど分かっている。これ以上口論を続ければ無駄な体力を使い、貴重な睡眠時間を減らすことになる。これ以上言葉を交わすことはやめることにし、ツェレンはその部屋を後にした。
「ツェレン」
ふと、シドゥルグが部屋を去ろうとするツェレンを呼び止めた。くるりと振り返る。
「俺は、もう後悔するつもりはない」
それが何を指す言葉なのか、ツェレンは分かっていた。シドゥルグは次にトルガに会った時、彼を殺すつもりなのだ。
「……おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
ツェレンはその言葉に何も返さなかった。シドゥルグの決意は堅い。もうツェレンが何を言っても、その決意が揺るぐことはないのだ。
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