8-2
夜明け前。普段より早い時間にツェレンは起きて身支度を整える。シドゥルグの戦支度を手伝うためいつもより簡単にすませた。ツェレンがシドゥルグの寝室を訪れた時には彼はすでに起きていて、着替えは済んでいた。ツェレンは挨拶の言葉を短く言い、支度を手伝った。皮の鎧を持ち、籠手の止め紐を結ぶ。二人はほとんど言葉を交わさなかった。ツェレンは何を言葉にしたらいいのか迷っていた。
ご武運をお祈りしています──ただそう言えばいいことは分かっている。しかし、もっと気の利いた言葉が言えないのかと考えていると何も言えなかった。
無言のまま支度を終え、二人は屋敷を出た。集落の広場にはすでにほとんどの戦士達が武装姿で揃い、シドゥルグの姿を見つけると姿勢を正した。
「揃っているか、ジハン」
「ええ、もう出発できます」
「よし──出発するぞ!」
シドゥルグが号令をかければ、それに答えるように彼らは遠吠えをする。狼の遠吠えが幾十にも重なると、轟音のような音に変わる。
「ツェレン」
その遠吠えの中でシドゥルグがツェレンの名前を呼ぶ。ハッとして顔を上げた。
「集落を頼んだ」
その言葉に、一瞬呆けた。彼は、今私に言ったのだ。集落を頼むと。
「はい! シドゥルグ様も、どうかご無事で!」
頬が熱くなる。それは、シドゥルグに認められたと感じたためだろうか。しかし、シドゥルグが微かに笑む表情を見た時、わずかに心が高揚とした。その笑みを見せたのはほんの僅かな間だけで、その場を離れていく。戦士達もシドゥルグを先頭に去る。足音が滝の水が落ちるような音のように響くが、やがてその響きは森林の向こうへと去って行った。シンと辺りが静かになると、心寂しさや不安がツェレンの胸に広がった。
***
「──いたっ!」
ツェレンの人差し指に痛みが走り、思わず痛んだ指を見る。どうやら誤って針で刺してしまったようだ。指先に小さな赤い玉ができている。
「大丈夫ですか?」
「はい……針で指を刺してしまって」
ツェレンはセダに苦笑して言う。シドゥルグ達が集落を出て行ってからツェレンはセダの家で過ごすことが増えた。ファーリアイは出払った戦士達の仕事をするため、巡回や狩りの仕事をするようになり、日中はほとんど集落を出払っている。彼女が留守の間はセダの家で刺繍をしたり、料理を習ったりして過ごすようにしていた。
刺した指を口に運びながら、なんとなしに外を見た。外は晴れていて、長閑な丘が見える。
「気になりますか?」
セダの言葉に、指を下ろした。彼女が何を指して言っているのか分かっていた。
「はい、私の村のことですから。……ハカンは私たちにとって一番の脅威でした。いずれ、戦になるだろうと思っていたのですが、まさかこんなに早く戦いになるなんて思ってもいなくて」
目線は自然と下へと下がってしまう。それを励ますようにセダはツェレンの肩に手をおいた。
「大丈夫。私たちは強い。それを我々は知っています。どうか、ご自分の一族を信じて」
「私の?」
セダの言う一族が、クルムズのことか、マヴィのことか分からずツェレンはきょとんと聞き返す。セダは頷く。
「もうあなたは我々の大切な一族の一人。シドゥルグ様の奥方様です。あの子を信じてください」
「……はい」
ツェレンははにかんで頷いた。その様子にセダも嬉しそうに笑った。彼女の目線は自然とツェレンの手元へと移った。
「もうすぐできあがりそうですね」
「はい。……喜んでくれるか分からないですけど。あの人の喜ぶ顔って想像つかなくて」
「きっと喜びますよ。あの子の母親代わりだった私が保証します」
「ありがとうございます」
二人は微笑みあった。セダの家の中は穏やかな時が流れていた。
***
クルムズの戦士たちが出立し、しばらく経った。少し前まではファーリアイがそばにいることが常だったが、それがセダに変わり、日々穏やかに集落の中で過ごしていた。シドゥルグの言いつけを守り、狩りには長い間出ていない。そこでルフィンとトゥアナを誘い、広場で弓の練習をすることにした。二人は初めこそ弓を引くことに苦戦していたが、少しずつ的に当たるようになった。狼獣人は弓矢を使うことはあまりないと聞いていたが、根っからの戦士の一族だからか、武器に慣れるのは早いのかもしれない。
二人に教えるのはもちろん、自分の腕が鈍らないようにツェレン自身も的当てに参加した。弓をくっと引き、呼吸を整えて的にしている木の板に当てる。炭で簡単に書いた二重円のうち、内側の円からわずかにそれた。すると、後ろから拍手音が聞こえた。
「お見事ですね」
「ファーリアイ?」
「姉さん!」
巡回の途中らしきファーリアイがいつの間にか背後にいた。弟妹たちはファーリアイに駆け寄る。
「おかえりなさい。巡回お疲れ様」
「ありがとうございます。ツェレン様はいかがですか?」
ファーリアイに聞かれて、ツェレンはちらりと先ほど自分の当てた的を振り返った。
「まぁまぁかな。セダさんも二人もいるし、退屈はしてないけれど……やっぱり、狩りをしている頃が恋しい」
「族長はいないんだからこっそり行っちゃえば?」
「黙りなさいルフィン。お前の謹慎もまだ明けていないというのに」
ファーリアイが呆れたように言うと、ルフィンは肩をすくめて、広場に転がっていた木の枝を拾い上げた。双子たちはそっと二人から離れて軽く打ち合いを始めた。
「お気持ちは分かりますが、シドゥルグ様が留守の今、あなたに何かあるとただではすみません。どうかもうしばらく辛抱をしてください」
「うん、分かってる。ルフィンに唆されて抜け出すなんてことは無いから安心して」
ツェレンがいたずらっ子のように笑えば、ファーリアイもクスクスと笑った。
「早く帰ってきますよ」
「え?」
「シドゥルグ様です。帰ってきたら、共に狩りへ行きましょう。もう暖かいですし、遠出をしてもいいかもしれませんね」
ファーリアイの言葉に、ツェレンはそっと頭の中で想像した。以前のようにシドゥルグと共に山を駆け、狩りをし、自分のまだ行ったことのないところへ共に出かける──。その空想が実現する日が待ち遠しい。
すると、ファーリアイがツェレンの顔の前で手を振った。ハッとして彼女を見上げると、ファーリアイはなんとも言えない、笑いを堪えるような表情を見せた。
「想像されていましたね?」
「か、からかわないでよ!」
思わず赤面し、手を払う素振りをする。ファーリアイは声を出して笑った。ツェレンはそんな彼女を苦々しげに見上げていた。
ふと、彼女が顔を上げた。笑いは失せ、鼻をしきりに動かし、辺りを見渡した。
「どうしたの?」
「姉さん!」
ツェレンの問いかけは双子の声にかき消えた。双子の方を見ると、彼らは何かを指さしている。その指は上を向いていた。ツェレンはその指の先を辿るように目線を上げた。
森の向こうで黒々とした煙が青い空を繋げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます