8-3
集落の見張り台から木製の太鼓を打ち付ける音があたりに響いた。五度打ち付け、二度打ち付けるのは火災を意味する報せだ。
「ツェレン様、集落の者と避難をしてください」
「ファーリアイ、あなたは?」
「私は現場の指揮をしなくては。距離や風向きからここまで火が来ることはないでしょうが……念の為、村の者達と避難を」
ツェレンは返事の代わりに頷いて見せた。その様子を見て、ファーリアイはその場を立ち去った。彼女はあっという間に駆け、木々の向こう側へと消えていく。その颯爽とした走り姿に思わず惚れ惚れとする。
「ツェレン様、行きましょう?」
トゥアナに言われツェレンも動き出した。
集落に残ったのは老人や女子供ばかりで、皆を集め、集落の外れにある高原へ避難を促す。途中、ルフィンは家に残したセダや弟妹達を迎えに行くと言い、ツェレン達のそばを離れて行った。
足の不自由な老人に手を貸しながら、ツェレンは避難場所へ向かった。その最中、疑問に思ったことをトゥアナに問いかけた。
「山火事なんて、よくあることなの?」
ツェレンが聞くと、トゥアナがわずかに目を見開いて首を振った。
「まさか! そりゃ、無いわけじゃないでしょうけど……この時期の山火事は、ほとんどが火の不始末によるものです」
熱によって火災が発生した話を聞いたことがあるが、それは荒地の話で、クルムズの北の山では考えづらい。つまり、この山火事は他者によるものだ。じゃあ一体誰が起こしたものか。最初に見つけた煙はここから三カラト(約三キロメートル)ほど先から立ち上っていた。そんなところで誰が火を起こす必要があるのだろう。
その時、先を歩いていた女達の悲鳴声が聞こえた。手を貸していた老人をトゥアナに任せ、先頭へ向かう。悲鳴は戸惑いになり、皆前を見て足を止めている。ツェレンが先頭に辿り着くと、体を射抜かれたように足を止め、目を見開いた。
立ち塞がるように数人の狼獣人が武器を携えて待ち構えていた。威嚇するように剣先をこちらに向け、これ以上進むことを妨げている。
「あんた達、何のつもり!?」
「そこをどきなさい!」
気の強い女達が怒鳴った。それでも、彼らはその場所から動かない。
狼獣人の女は血の気が多い。痺れを切らした女のうちの一人が短剣を片手に振るった。しかし、数人の男達相手では太刀打ちできず、短剣を振り払われ、女は拘束されてしまった。
「やめて!」
ツェレンが声を上げ、前に出た。誰かが「ツェレン様!」と止めるように名前を呼んだ。その声が誰だったか、ツェレンは思い出すほど余裕がなかった。男達に見覚えがあった。しかし、集落に住む男達ではない。
「あなた達……」
「女を離せ」
男達の背後から声がかかった。男達の間からトルガが姿を表した。集落の人々の息を呑む音がツェレンに聞こえた。トルガの命令に従い、男達は女を解放し、背中を強く押した。女が前のめりによろめいて、ツェレンと何人かの女達で慌てて受け止めた。他の女達に介抱を任せ、ツェレンはトルガと向き合った。
「斬って斬られてってのは望んじゃいない。そちらもそうだろう?」
挑発するような笑みを浮かべていうトルガに、何人かが反応して短剣や武器に手をかける金属の音が聞こえた。ツェレンは彼らを振り返った。
「やめて。これ以上怪我人を増やしたくないの」
「ですが……」
「お願い」
強くツェレンは言った。人数だけならこちらの方が有利だ。しかし、老人や子供だっている。もし、争うことになれば怪我人や最悪死人が出る恐れがある。それだけは避けたかった。
震えそうな体を全身に力を込めて耐えながら、トルガに向き合う。ゆっくりと諭すように言葉にした。
「あの火は、あなた達が放ったものなの?」
「疑われて悲しいよ。たとえそうだとしても、その証拠はないだろう?」
トルガが飄々と言えば、ツェレンの後ろで「この悪党!」と野次が飛んできた。それでもトルガは表情を変えることはない。
「目的は何? この集落を乗っ取りにきたの?」
「まさか! こんなチンケな田舎集落なんざ、もういらねぇよ。クルムズの族長なんてものもう執着しちゃあいない」
トルガは大袈裟に両手を広げて語り出す。
「この世は広い。こんな小さな山を牛耳るよりも、広い目で物事を見なくちゃな。もうこの大陸は力の強いものが全てを得る時代に突入している。弱い一族は強い一族に狩られる。しかし、個人の強さよりも組織数で強さを競う世の中だ。広い目で見れば、クルムズなんて多少力の強い獣人がいるだけの少数一族だ。もう恐れられるような一族ではない」
「だったら尚更、何が目的なの」
ツェレンは苛立ちを隠すように聞く。トルガはツェレンの苛立ちに気づいているようだ。ますます愉快そうに笑う。
「そう目的。ただこの集落を略奪しに来たわけでも、復讐しに来たわけでもない。取引にきた」
「取引ですって?」
「単刀直入に言わせてもらおう。俺たちはサル族と手を組んだ。どういうわけか、ハカン殿はお前に酷く執着されているようでな。お前を連れて来いとご所望なんだ」
ツェレンの全身にまるで痛みのような寒気が走った。一瞬意識が遠のきそうになりながら、トルガの口から発されたその名前を頭の中で繰り返す。──ハカンが、私を?
背後でそれに反論を示す声があちこちから起きた。すると、トルガの仲間達が剣で黙らせようとこちらへにじり寄ってきた。それをトルガが手を払う動作をして止めた。
「おいおいおい、やめてくれよ。今クルムズの奥方殿と交渉中なんだ」
「……どうして、私を?」
「さぁな、そこまでは聞いちゃいない。さて、どうする? このままお前が俺たちに着いてくるというのなら、このまま俺たちは手を引く。誰一人、手を出さないと約束しよう」
「断ったら?」
「一人ずつ殺す。まずは老人、その次は女、子供だ」
ツェレンは黙った。このまま彼らに着いていけば、自分がどうなるか分かったものではない。しかし、被害を出すより彼らに着いていくことは正しい気がしていた。
「母さん!」
そこに、悲鳴に似た呼び声が聞こえた。セダがツェレンの前にかけてきて、トルガの前に立った。走ってきたのか彼女は息を荒くさせている。それを追いかけるようにルフィンもやってくる。
「ああ、トルガ……」
セダは再会した懐かしい彼の名前を呼ぶ。しかし、トルガは目を細め不快そうにセダを睨みつけるだけだ。セダはその場に崩れ倒れるようにその場に膝を折った。ルフィンが彼女に駆け寄り、腕を支える。セダはその体制を崩そうとはしない。
「トルガ、どうかもうやめておくれ。こんな酷いことはもう……」
「……セダ、あんたには育ててもらった恩がある。だが、悪いがあんたの願いを聞くわけにもいかん。これはもう戦なんだ」
トルガが腰元に下げた剣をゆっくりと引き抜いた。ルフィンがハッと顔をあげ、母の前に立つ。トルガはその剣をゆらゆらと揺らしながら、天に向ける。
「何より、俺は気高い狼獣人がそうやって情けなく懇願する姿を見ると悪寒がする」
剣を振り落とされた時、ルフィンが吠え、トルガに向かい素手のまま飛びかかる。トルガの剣奮いは見事だった。腕はほんの僅かしか動いていない。たった一振りで、狼獣人の少年を薙ぎ払った。
ルフィンの体が後ろへ飛び、仰向けのまま倒れ込む。ルフィンの名前を叫びながら、トゥアナが駆け、セダは泣き叫びながら息子の体を支える。ルフィンはぴくりとも動かない。身に纏った服は切れ、そこから血が滲み、あっという間に服や彼の柔らかな毛並を赤く染め上げる。
怒号が響き渡った。集落の子供が切られた。一族が怒るには十分な理由である。老人も女も吠え、今にもトルガ達に飛び掛かる勢いだ。
ツェレンは泣き叫ぶ声や怒号の声が遠くに聞こえた。耳に詰め物をしたように音が遠く、その代わり自分の心臓がトクトクと動いている音がやけに大きく聞こえた。目の前に、ルフィンが青ざめて倒れている姿がある。指先が冷え、うまく力が入らない。先ほどまで耐えていた恐怖が不安が、震えとなって表面に現れだした。
今、私にできることはなんだろう?
このクルムズの山へやってきて、ずっと自分自身に問いかけてきたことだ。今、この状況で何ができるかと考えると、やはり一つしかなかった。
「もう分かったから。あなた達に着いていく。……だから、もうこれ以上クルムズの人たちに酷いことはしないで」
「ツェレン様!」
「ルフィンが斬られたんですよ!」
反論する声が、直接ツェレンにかかる。ツェレンは彼らを振り返った。
「お願い、もうこれ以上誰かが傷ついてほしくないの。……ごめんなさい、でもこうしないと私はクルムズを守れない」
声の震えを抑えるのがやっとだった。気丈に振る舞おうとしているのを、彼らは感じ取ったのかそれ以上ツェレンに何かを言うものはいなかった。ツェレンはゆっくりとセダ達に寄り添い、トゥアナの肩に手を触れた。ルフィンは気を失っているようだったが、まだ胸が上下している。一刻も早く、治療しなくてはいけない。
「早く、ルフィンを手当てしてあげて」
「でも……ツェレン様」
「私は大丈夫。だから、ファーリアイに伝えて。絶対に追って来ないでって」
トゥアナに微笑んで見せると、彼女は啜り泣いて俯いた。彼女の悲痛がツェレンにも痛いほど分かる。泣きたい気持ちを押さえ込んで、必死にそこに立っているのが精一杯だった。
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