8-4

 幸いなことに、火は広まる前に消すことができた。ファーリアイは後始末を任せ何人かを率いて集落へ戻った。集落に入って異変にすぐに気づいた。戻ってきたファーリアイに集落の人々が気づいた。


「これは……」

「姉さん!」


 トゥアナが遠くから駆けてきてそのままファーリアイの胸元に飛び込んできた。驚いたものの、ファーリアイは妹を受け止めた。彼女が泣いていること、そして顔や腕、服にべったりと血がついていることに気づいた。


「トゥアナ! お前、怪我をしているの?」

「ちがう、私じゃない……ルフィンが」


 トゥアナは言葉を続けようとする。しかし、出て来るのは涙と嗚咽ばかりで言葉が続かない。


「ファーリアイ、ルフィンが斬られたんだ」


 そこへ、何人かの狼獣人がやってきて説明した。ファーリアイは目を見開いた。


「どういうこと!? ルフィンは……」

「まだ生きてる。懸命に手当てしてるがどうなるかわからん。……トルガがやってきたんだ」


 彼らはファーリアイに出来事を説明した。トルガ達がやってきたこと、セダを庇ってルフィンが斬られたこと、ツェレンが村を守るためトルガ達に捕まったこと──。


 それらを教えられ、ファーリアイは思わず頭を抱えた。もっと警戒するべきだった。

 火災は罠だった。せめて、自分だけでも集落に残ればルフィンが斬られることも、ツェレンが連れ去られるようなこともなかったかもしれない。


 そう思考を続けたが被りを振った。結局、結果論だ。どうなっていたかなんて未来のことは分からない。後悔は後で好きなだけすればいい。


「ツェレン様を取り戻す、追うぞ」


 ファーリアイが仲間達に声をかけた。しかし、それを止める者がいた。


「もうよさないか」


 そう声がかかって、ファーリアイが呆気に取られたように彼を見る。集落に残った護衛兵、ツェレンが刺繍を教えていたイルマクの兄ラシードだ。


「俺たちはクルムズの狼獣人で、彼女は“人”だ。これ以上なぜ“人”を手助けしてやらなくてはならない?」


 ファーリアイはあたりを見渡した。何人か、居心地悪げに俯く者がいる。そういう風に仲間が考えていたことに落胆したものの、説得を続ける。


「彼女は族長の妻で、私たちの同胞だ! 狼獣人も“人”ももう関係のないことだろう!」

「だが、我々とは違う。“人”には“人”の世があり、獣人には獣人の世がある。ツェレン様は自分の意思で人の世に帰ったのなら、これ以上我々が血を流す必要はない」

「……血か。そもそも、本当に血を交えて良いものなのか?」

「ルフィンだって、死ぬところだったんだぞ」


 何人かが囁く。ルフィンの名が出てきたことで、ファーリアイの胸に冷たい刃物が突き刺さったような衝撃が走る。弟が疵付けられ、今も生死を彷徨っていることに怒りや不安がよぎる。しかし、今すべきことを改め、その思考を振り払った。


「……時間が惜しい。私だけでも、ツェレン様をお助けに行く」


 これ以上、彼らの言葉を聞いていると、判断が鈍る。彼らの止める声も聞かず、ファーリアイは駆けて行った。それを追うように三人ほどついて走っていく。しかし、ほとんどの者がその場に残った。駆けて去った彼女たちを目で追うだけで、足は縫われたように一歩も動かない。


「何も分かってないわ!」


 そこに、絹を裂くような怒りの声が響いた。


「イルマク?」


 少女は怒りの表情で兄に詰め寄った。懐から何かを取り出し、荒々しく兄の目の前に差し出した。


「これを見て」

「なんだこれは?」


 それは一枚の布地だった。布には色とりどりの糸で刺繍が施されていて、一枚の絵のように鮮やかだ。


「これは、たとえ苦難にあろうとも、無事帰ってくることを祈るための模様。ツェレン様に教わったのよ。兄さんへ贈るために少しずつ作っていたのよ」

「これがなんだって言うんだ」

「兄さんはこんなもの何の役に立つんだって言ってたわよね? ツェレン様にどうして草原の人はこんなに細かなことをするのかって聞いたの。そうしたらこれは、想いを伝えるためだって教えてくれたわ。ツェレン様のお母様、そのまたお母様から代々教えていくんだって、おっしゃっていた。そんな大切なことを異種族の私たちに教えていいのかって聞いたの。そうしたら、ツェレン様、笑っていました。


 一色の色だけでは、この模様を作ることができない。様々な色を組み合わせて美しい模様になる。この模様を好きだと言ってくれた私に、教えない理由はないと言ってくださった。想いを、未来に伝えることに血も何も関係ないって。

 ツェレン様は私達を決して差別することなんてなかった。でも、兄さんも、皆も、分かっていないわ。ツェレン様も、“人”のことも。狼獣人は、狼獣人のことを考えていればそれでいいの? 私たちの誇りとはそんなものだったの?」


 イルマクは自分が涙を流していることに気づいていなかった。少女の怒りに、彼らは決まりが悪そうに立ちすくんでいた。


***


 ツェレンはエルマに乗せられ、トルガ達と下山していた。エルマに乗っているとは言え、ここから逃れることは難しいだろう。ツェレンは馬上で手首を縄で拘束されているし、手綱は他の狼獣人の男が持っている。それに、狼獣人の足の速さはよく知っている。エルマに乗っていても彼らから逃れることは不可能だ。


 心を押し殺し、口を固く閉ざして何一つ言葉を発しなかった。そうやって耐えていないと、今恐怖に勝てないからだ。


 草原の広がる高原を急いで降りていく。エルマはどこか落ち着きがなく、時々足を止めた。その都度、狼獣人が急かすように縄を振るった。ツェレンは彼の背を撫でてやった。大丈夫だからと心の中で繰り返して。


 何度目かエルマが足を止めた時だった。トルガが何かに気づき、これまで歩いてきた道中の方を振り返った。


「やはり来たな」


 トルガのそのぼやきを聞いて、ツェレンが後ろを振り返る。姿は高原の段差で見えないが、何かが近寄ってくる音だ。その足音は、トルガ達を追ってきた狼獣人達によるものだと分かる。


「お前はそいつを連れて先に行け」


 トルガはエルマの手綱を持っていた男に支持した。


「どうするんです?」

「俺たちは残って迎え撃つ」

「待って! 手出ししないと約束したはずよ!」


 ツェレンが必死に口論した。しかし、トルガは剣を鞘から抜き、やめる様子はない。面倒そうにこちらを一瞥した。


「警告した上で追いかけてくるというのなら仕方ないだろう」


 言葉を失った。ツェレンが言葉を返す前に、男がエルマに乗り込んで走らせた。エルマの駆ける動作に、口は閉じる他なかった。エルマが走り、彼らがどんどんと遠のいていく。それでもツェレンは彼らを振り返り見ていた。やがて、トルガ達が何かに向かって走り出した。その姿を最後に、もう見えなくなってしまった。


***


 クルムズの山を降り、草原地帯へ降りてきた。その頃にはすでに日が沈みかけていた。エルマに乗り込んだ男はしばらく走らせ、やがて林のと岩の入り組んだところに入り、そこでエルマを止めた。どうやらそこが待ち合わせていた場所らしい。

 ツェレンを下ろし、野宿の用意をし始める。その間、ツェレンも彼も何一つ言葉を交わさなかった。


 完全に日が沈み、夜が来た。男は焚き火をし、辺りを警戒している。ツェレンは岩場に座り込み、じっと火を見つめていた。クルムズのことばかり考え続けていた。


 ルフィンは、助かっただろうか。どうか無事でいてほしい。ファーリアイは、私がいなくなってどう思っただろう。あの追っての中にファーリアイがいてもおかしくない。彼女ならきっと自分を追ってくるだろう。ファーリアイが無事であることを祈った。


 ふと、狼獣人が立ち上がった。ツェレンは彼を見上げる。彼はじっと夜闇の方を見て警戒しているようだった。ツェレンも彼の見ている方を見た。

 パキリ、と小枝を踏む音がした。足音がする。土を踏む音と共に、火の灯りに照らされて現れたのはトルガだった。


「無事でしたか」

「ああ」


 トルガが短く返答し、火の前に座った。彼の後ろについて仲間達もやってくる。ツェレンの心臓はどくどくと忙しなく打ち続け、不安を煽った。


「追ってきた人は、どうなったの」


 ツェレンの声は震えた。トルガはツェレンを見ようともしない。そのままの体制で返答する。


「死んだよ」


 ああと、ツェレンは声を漏らそうとした。しかし、声にならず息が掠れただけだった。目の前に火があるはずなのに、視界が暗くなる。景色が遠ざかっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る