9-3

 窓の向こうの闇が少しずつ薄くなり、空の根元が白んでいく。夜が明けてもツェレンはその場でじっとして指一本も動かそうとはしなかった。岩が掘られ、壁や床に装飾がされたハカンの屋敷の一室。そこにツェレンは軟禁されていた。目を張るような豪華な家具には背を向けて、寝台の上に体を横たわらせて窓の外をただじっと眺めていた。


 うつらうつらする程度で、熟睡することはできなかった。そのためか、頭の奥で血が脈打っている。それが次第に頭痛へと変わっていくのを感じていた。逃げたくても逃げられない。扉の向こうには見張りがいるし、窓の外は幾人も兵が巡回している。


 ──シドゥルグ様は、クルムズのことをまだ知らないのだろうか。

 考えるのはクルムズのことやシドゥルグのこと。思考は同じところをぐるぐると回り続け、そうしながら一晩を迎えた。


 扉が開く音がした。そちらを見れば、ハカンの姿がそこにあった。彼はいつの間にかそこに狼狽える様子でいた若い女中を手で追い払うようにした。朝が明け、食事や服を持って来た様子だが、ツェレンが動こうともしないため困っていたらしい。

 女中がそそくさと去っていき、扉が閉まると、ハカンが息を吐く。


「どうか、せめて一口だけでもお召し上がりください」

「何が入っているのか分からないものを食べるのは嫌」

「まさか、毒が入っているとお疑いで? 信用してください。毒なんて入っていませんよ」


 ハカンの言葉に頭にカッと血が上り、身を起こした。急に頭を動かしたせいかクラクラする。


「どの口が言うの! 私を騙してここへ連れて来て! マヴィにもクルムズにも何かしたらただじゃおかないわ!」

「……何をおっしゃるやら。あなたはクルムズではなく、マヴィの“人”の娘でしょう」

「いいえ、私はクルムズの族長シドゥルグの妻よ!」


 寝台から立ち上がり、ハカンの前に立つ。ハカンは人の良さそうな笑みを浮かべるのをやめ、真顔になる。


「畜生の妻だと? 何をおっしゃいますか。人は人と。獣は獣と共に暮らせばよいと思いませぬか? 我々は同じ人の一族。仲違いすることなんてありません」

「ならなぜマヴィを襲ったの!」


 ツェレンは怒りに身を任せて前に出た。ハカンの着物を掴み問い詰める。その時、頬に衝撃が走った。頭がクラクラとし、目眩と共に倒れ込む。睡眠不足と空腹で体が衝撃に耐えられなかった。


「……小娘が、つけあがりおって。お前に何ができる? あの畜生の妻になって自分が強くなったとでも思ったか?」


 ハカンの足がツェレンの腕に乗る。体重をかけ、ツェレンの腕を踏みつけた。その痛みにツェレンは身をもがいて逃れようとする。


「お前はただの人の女だ。何もできない、女だ。……お前は畜生の子を孕んでおらぬだろう?」


 その言葉に、ツェレンはゾッと寒気が走った。


「であれば、お前達はまだ本当の夫婦ではない。お前はまだ孕む腹を持っておる」


 その下品で嫌な言葉に、嫌悪で身の毛がよだつ。足の力が緩み、ツェレンは後ろに引き下がった。ハカンはツェレンを見下ろし、にたりと笑う。


「この騒ぎが落ち着いたら、息子を呼び戻そう。何、何も心配しなくても良い。あれはわしの子じゃ。身を任せておけばあれがよくしてくれるだろうさ」


 ハカンは独り言のように言い、金の装飾がついた服の裾を翻してその部屋を出ていった。彼が出ていったことで、力んだものが抜けた。力が抜けて、立つこともままならない。

 喉が痛くて、自分が惨めで情けなくてその場に倒れて泣きたい衝動に駆られる。そうしようと床に手をついた。

 しかし、その手にぐっと力を入れ、倒れ込みたい気持ちを振り払う。


「……泣かない。絶対に泣いちゃダメ。私はクルムズ一族だもの。あんなやつに、負けてたまるもんか」


 ツェレンは自分に語りかける。孤独と不安に押しつぶされそうになった心に強く言葉をかけた。


***


「どうだった? 自分の娘の様子は」


 ハカンが自分の居室に戻ると出迎えの言葉がかかった。トルガは椅子に座り、机の上に脚を乗せ寛いでいた。手には小ぶりな林檎を持ち、その表面を自分の爪で軽く引っ掻いて弄んでいる。

 そのトルガをジロリと睨みつけ、ハカンはフンと息を吐いた。


「何を呑気なことを……これで我々は後戻りできなくなった。勝算はあるんだろうな?」

「勝算? これはお前達の戦いだろう? 俺達はそれにちょっと手を貸しただけさ」


 トルガの物言いにハカンの表情は険しくなった。


「話が違うぞ!」

「おいおい、怒るなって。安心しろ。数の多いお前の兵とクルムズの戦いを知ってる俺たちならなんてことないさ。マヴィもクルムズも大したことねぇ。何よりこっちには人質がいる。クルムズの連中はあの娘を大事に扱ってるみてぇだし、いざとなりゃ娘を使って脅せばいいさ」


 トルガは早口で言い立てた。何度も引っ掻かれた林檎の皮が向け、果汁が一粒落ちようとする。それが落ち切る前にトルガが齧った。そんなトルガをハカンは忌々しげに見ていた。

 トルガは言葉を続ける。


「あんたはどんと構えてりゃいい」

「……なぜ人質がいる? さっさとマヴィを攻めればいいものを」

「これは念の為ってやつさ。少なくとも、これで奴らはこちらへ攻めづらくなったはずだ。特にクルムズの族長は判断が鈍るだろうな」

「お前はやけにそのクルムズの族長に固執するな。弟だったのだろう?」


 ハカンの指摘にトルガは目を細めて睨んだ。その目つきは不快感を訴えるものだった。


「俺があの愚図の弟に固執? まさか、どうやったらそう見えるんだ。元々、あの娘を欲しがったのはお前だろう」


 トルガの声音は凪いだ風が吹くような穏やかなものだった。しかし、その手に持った林檎の実を手の中で握りつぶした。林檎は潰れ、トルガの手の中から崩れ落ちる。


「クルムズは俺の汚点だ。故郷とも何とも思っちゃいない」


 ハカンはその言葉に返答しなかった。内心でトルガの執着に憐れんだ。

 トルガがクルムズを追放されたことの仔細は知らないがある程度聞いてはいる。追放されるまではトルガにとって、クルムズは今後自分が族長となり取り仕切るはずで、自分はいなくてはならない存在だと自負していた。

 しかし、追放され、クルムズはトルガをもう必要としなくなった。それをトルガはある意味“裏切り”と考えている節があった。


 自分を拒絶したクルムズはもう不要だとトルガは考えているのだ。

 そして、これを具体的に言うことはしないが彼の言葉の節々に感じるものがあるとハカンは感じていた。

 トルガはクルムズをいずれ滅ぼすつもりだろう。

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