10.戦い

10-1

 ツェレンが目を開けると、辺りはまだ薄暗く夜明け前のようだった。しかし、ぐっすり眠ったからか頭は冴えていた。空腹や寝不足で不調だった体も頭はすっかりいい。

 もう数刻すれば、女中がやって来る。その前にツェレンは身を起こし軽く肩や足を動かした。


「……よし」


 一人しかいない部屋で意を決するように呟き、扉の方へ進む。外には見張りがいることを知っている。しかし、今は一人しか見張りがいないことも知っていた。理由は二つ。もう戦が間もなく始まることにより、割ける人員が減ったこと。もう一つはここ数日、ツェレンは従順な態度を崩さなかった。そのためか、ツェレンを見張るものは一人いる程度まで薄まったのだ。


 扉を内側から控えめに叩く。反応がないのでもう一度叩いた。しばらく間をおいて「どうした?」と声がかかった。若い男の声だった。


「すみません、あの……月のものが来てしまったようで、お医者様を呼んでいただけないでしょうか」

 ツェレンはわざとらしく辛そうな声を作る。少しやりすぎだろうかと思うほど、ツェレンは声を絞った。

「は……?」

「いたたたた……あぁもうだめ……」

「お、おい大丈夫か?」


 男の声にツェレンは反応しない。何度か声がかかるが、一言も声を発しなかった。外からガタンという音がして、慌てて男が入ってきた。すかさず、ツェレンは飾ってあった壺を思いっきり男の頭にぶつけた。鈍い音がして、手に嫌な感触が残る。男はうつ伏せに倒れ、そのまま動かなくなった。ツェレンは通路側をキョロキョロと見て、男を部屋に引きずって扉を閉めた。


***


 ツェレンは駆け出したい気持ちを抑えながらゆっくりとハカンの屋敷を出た。泥煉瓦を積み上げた門を潜り抜けると力が抜けそうになる。だが、まだここは敵地なのだと、自分に言い聞かせ、ずり落ちそうになった下穿きを紐で縛り直す。


 ツェレンは先ほど見張りの男が来ていた簡単な兵装に身を包んでいた。長い髪もくくりまとめ、ターバンの中に収めて隠した。男の背丈がツェレンより頭一つ分大きい程度だったのが幸いだった。男ものの兵装は多少大きめなことに目を瞑ればツェレンも着こなすことができた。


 ツェレンは彷徨いながらもある場所へ行こうとしていた。

 慎重に歩みを進めていた時だった、遠くから足音が聞こえ、さっと物陰に隠れた。二人の男が何か話ながらこちらへ近寄って来る。やがて、その声がはっきりと聞こえるところまで近寄ってきた。


「じゃあ、もうこっちへ来るのか?」

「そうらしい。マヴィの娘と引き換えに割譲交渉するそうだ」

「俺はてっきり、ハカン様はあの娘が目的だと思ったが、違ったのか?」

「そこは知らん。どちらにせよ、戦にならなけりゃいいがな」

「だな。狼獣人となんざ、夢でも戦いたかないね……」


 やがて、二人の男は共通の上司の愚痴を言い合い、ツェレンに気づくことなくその場を去った。そのわずかな会話から、ツェレンはきっとハカン自身も迷っているのだと思った。そして、ツェレンとマヴィの土地を天秤にかけ、マヴィが重くなったのだろう。


 ツェレンは腹が立った。自分を道具のように振り回されることが。どれだけ自分勝手なのだろう。

 ……絶対にここを逃げ出すんだから。ツェレンは意気込んでゆっくり歩き出した。


 女中に壮年の女が一人いた。女はツェレンと同じ年頃の娘がいて、嫁いでしまったばかりだと言っていた。彼女はツェレンの境遇に同情している様子だった。ツェレンは彼女に懐くフリをした。少しずつ彼女に心を開くように言葉を重ね、咲いている花や食べ物など他愛のない雑談を交わした。


 そんな中で、ツェレンは愛馬のことを心配していることを話した。すっかり仲良くなった女はこっそり、馬の様子を見てきてあげると引き受けてくれた。その数日後、女は意気揚々とエルマは元気だと話してくれた。その時、どの方向にエルマがいるのかと聞いた。ツェレンに警戒をしていなかった女は北西の厩に繋がれているとうっかり漏らしたのだ。ツェレンはそれを雑談のつもりでそっと聞き流した。しかし、しっかりとその言葉を頭に刻んでいた。


 北西の方へ向かえば厩らしい建物が見えた。藁と泥でできた壁の小屋の中から、馬の息遣いが聞こえてくる。近寄ってみれば、十頭程度の馬が繋がれていた。薄暗い厩の中を一頭一頭の顔を覗き込みながらエルマを探す。何度かそれを繰り返していると、エルマを見つけた。エルマはツェレンの顔をのぞいたとたん、反応を示すように足踏みをした。


「よしよし、エルマ。元気そうでよかった」


 エルマの顔を撫でてやり、様子を見る。健康そうであることにツェレンはホッと胸を撫で下ろした。鞍を外されていたが、厩の中に古く襤褸のような鞍を見つけたのでそれをつけてエルマを外に連れて行く。


 想像以上にうまくいったことに、ツェレンは驚いていた。少し怖いくらいだった。まだ深夜に近い時間とはいえ、何人かとすれ違ったのにも関わらず、怪しまれることもなくエルマを連れて脱出に成功したのだ。

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