10-2

 サルの集落とマヴィの草原を直線上に結ぶと中間地点あたりにタルキス平原という荒れた平原がある。硬い土が広がる平原だが、北の方へ向かえば森林地帯が広がっている。その森林地帯の先はマヴィの草原だ。


 その森林地帯を抜け、タルキス平原に赴いたシドゥルグは辺りを見渡した。夜明け近く、薄暗い。不気味なほど静かで獣の気配はない。分厚くない革の兵装に身を包み、腰には愛用の短剣と長剣を携えていた。聴力も武器になるクルムズ族の兵士は兜を身に付けない。“人”と比べて軽装だが、彼らは毛に覆われているだけではなく、体も硬い。常に鎧を纏っていると言っても過言ではないのだ。


 先日マヴィにやってきたサルの使者は、停戦協定の交渉のためにやってきた。“保護”しているマヴィの娘と引き換えに、マヴィの土地を要求してきた。場所はマヴィとサルの中間にあたるタルキス平原を指定してきた。これは最悪、その場が戦場になることを告げている。シドゥルグはヴォルカンと協議し、まずは協定を結ぶ姿勢を見せることにした。こちらからサルへの要求はたった一つだった。


 シドゥルグは辺りの匂いを嗅いだ。風は追い風だが、自分へ向けられる殺意をわずかに感じた。確かに奴らはいる。遠くの丘にサルの騎兵の軍勢が見えた。マヴィの兵はクルムズの狼獣人を入れてやっとで百に足りるほどだが、対するサル族はその倍近い兵がいる。


 サルの軍勢から騎馬が前に出た。煌びやかな鎧を身に纏っているのがハカンだろう。それに倣うようにシドゥルグも前に出た。前に出てきたやけに体の大きな狼獣人にハカンは一瞬怪訝そうな表情を見せる。


「クルムズの族長、シドゥルグ殿とお見受けする。マヴィの族長、ヴォルカン殿はいかがなされた」

「いかにも俺がシドゥルグだ。ヴォルカン殿から全て委任されて馳せ参じた」


 ハカンの後ろで待機するサルの兵士たちがにわかにヒソヒソと話し出す。しかし、クルムズの狼獣人以外にもマヴィの“人”の姿もあるため、シドゥルグが話したことを信じる他ない。


「あい分かった、では──」

「まず、人質の無事を確認させてもらいたい」

「何?」


 シドゥルグは表情を変えないまま馬上のハカンを見上げたまま続ける。


「我が妻、ツェレンが無事であるか確認したい。妻は半月前に我々の前から姿を消して以来、安否を確認できていない。まだ生きているのか、五体欠けていないかこの目で確かめさせてもらおう」

「うむ……いや……」


 ハカンが言葉を濁し、シドゥルグはやはりこの場にツェレンがいないと悟った。匂い消しをされていれば分からないが、ツェレンの気配を少しも感じないのだ。使者にはハカンに要求として無事かどうかを確認するためツェレンを連れて来るよう伝えていた。シドゥルグは後ろに控えているファーリアイをちらと見た。彼女はほんの少し目線を上げただけで、ほとんど表情を変えない。それだけで彼女の意思が十分伝わった。ファーリアイもシドゥルグと同意見なのだろう。シドゥルグは立つ姿勢を少し変えて口を開いた。


「まさか、連れてきていないと? 使者には妻を連れて来ることが交渉の条件と申したが」

「交渉条件をここに連れ来るのはいささか不安でな。こちらとしても、穏便に交渉をしたいと思うのだ」

「穏便? 集落を襲撃し、人を攫って穏便に済むとでも思っているのか」


 シドゥルグは鋭利な刃物のような声でハカンに聞く。ハカンの背後でわずかに金属が擦れる音がした。その音はシドゥルグにも他の狼獣人にも聞こえていた。それでも、狼獣人たちは動かなかった。号令がかかるまで動いてはならないとシドゥルグから命令されている。それに従っていた。しかし、いつでも号令がかかった時に飛びかかれるよう、心は前に構えていた。張り詰めた空気が走る。


***


 荒れた土地ばかりだった視界に、緑が映ると、ツェレンは少し安堵して肩に入っていた力が抜けた。しかし、まだここは敵地だ。気を抜いてはならないと再び姿勢を正してエルマの背を軽く叩く。


 ツェレンは平原を迂回するように進み、マヴィの草原へ繋がる森林地帯へと入っていった。緑の空気が肺に入ると、クルムズの山を思い出して少しだけ懐かしい気がした。エルマと森に入ってまもなくあることに気づいた。エルマから降りて土をよくみるためしゃがみ込んだ。


 森の中は大量の足跡がついていた。森の土はわずかに湿気っていて、跡がつきやすい粘度がある。方向はマヴィからタルキス平原へと向かっている。馬の足跡の他、狼獣人のものらしき足跡もある。


 クルムズとマヴィの一族のものだ。彼らは自分を助けるため進軍したのだとツェレンは悟った。


 しかし、気になることがある。その足跡に重なって新しい足跡がついているのだ。マヴィの足跡は主に馬によるもので、人の足跡なら植物を編み込んだ模様が跡になっている。それに重なるようできていた足跡は、そう言った模様がないものだった。さらに、また別の狼獣人の新しい足跡もある。大きな狼獣人の足跡。この大きさの足跡をつけられる狼獣人は、きっとシドゥルグと同じくらいの大きな体を持つ者だろう。


 そう気づいた時、ツェレンは慌てて立ち上がってエルマに飛び乗った。


「行って! エルマ!」


 エルマを急がせて走らせる、今まで来た方へ戻る。

 もし、勘が当たっているのなら、サル族とトルガたちはシドゥルグたちを挟み撃ちにするつもりなのだ。きっと、森林のどこかにトルガたちが隠れてその時を待っているのだろう。


 森林を抜け、なだらかな丘の上を駆ける。平原の向こうに群衆を見つけた。それは二つに分かれ、向き合うようにそこにいる。


 ──今にも戦いが始まりそうだった。張り詰めた空気がここからでも伝わってくる。狼獣人とマヴィの騎馬兵の軍勢の背後には森林が広がっている。そこに、伏兵がいるのだろう。


 危険を知らせなくてはいけない。ツェレンは意を決した。こうする他ない。すぅと息を吸い、その場で吠えた。

 狼の遠吠えのように天高く吠える。ツェレンの遠吠えが平原に響いた。

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