10-3

 ファーリアイはわずかに耳を震わせた。その拙い遠吠えは確かに聞こえた。そちらの方へ顔を向けるわけにいかず、何事もなかったように澄ましている。その声の主の元へ、今にも飛んで行きたい。その気持ちに耐えていた。後ろに控える同胞たちがわずかに身動ぐ気配がした。しかし、それ以上何か反応を示す様子はない。おそらく、彼らもファーリアイと同じように考えたのだろう。少しでも異変を感じ取らせないようにしていた。もしかしたら耳のいい“人”は聞こえていたかもしれない。しかし、毅然と変わらない様子の狼獣人をみて、聞き流しているのだろう。彼らが反応する様子はない。


 シドゥルグは一つも反応を示さなかった。彼に今の遠吠えが聞こえないはずはない。しばらくの緊張を壊すようにシドゥルグが息を吸い込み声を震わせた。


「では、交渉決裂だな。たった一つの条件も守ってくれないとは話にならない」

「それは娘がどうなっても良いと言っているのと同じことではないか?」


 ハカンの脅しにシドゥルグは鼻で笑った。


「いない娘をどうするというのだ」

「なんだと?」

「お前の元にツェレンはいない」


 シドゥルグが事実を告げれば、ハカンは図星をつかれて口を閉じた。その代わりに癇癪を起こしたように顔を歪めた。ハカンは手を上げた。それが合図だった。サルの兵士たちは武器をこちらに向けた。それに応えるようにシドゥルグが号令を出した。シドゥルグの後ろで控えていた狼獣人たちがその命令を待っていたと言わんばかりに勢いよく飛び出す。彼らは臆することなく敵の軍勢へと入り込んでいく。それに続くようにマヴィの兵たちも攻撃を始めた。


「ファーリアイ、行け!」

「はい!」


 ファーリアイはシドゥルグの言葉を聞いて、その場を離れていく。彼女の足に追いつく者はそうそういないだろう。シドゥルグは彼女が戦場から離れたのを見守り、剣を抜き短く吠えた。その声に叱咤されたように周りの狼獣人たちも応えた。吠えてからシドゥルグは隠れ笑った。ツェレンの遠吠えは、まるで子供の狼獣人が親を真似るような幼いものだった。きっと、本人の前で笑えば彼女はいじけたような表情を見せるだろう。その表情を想像して笑ったのだ。


 それでも、ツェレンの遠吠えによって、空気は一変した。まず、彼女は平原の敵とは正反対の場所にいることを知った。それは彼女は敵の手から逃れることができたことを意味している。そして、もう一つはツェレンの遠吠えは、背後に警戒するようにと伝えるものだった。背後、つまりこれまで抜けてきた森林地帯に伏兵がいるということだ。挟まれる形であることには変わりはないが、知っているのと知らないのとでは違う動きができるだろう。

 もう人質を考慮する必要はなく、思う存分暴れ回ることができる。狼獣人の戦士たちは地をかけ、体を貫こうとする刃を潜り抜け、敵を蹴散らしていった。シドゥルグは他の狼獣人よりも前に出て、剣を振るって襲って来るサルの兵士たちを倒し続けた。


***


 ツェレンはエルマに乗って森林へ逃げ込んだ。ツェレンの遠吠えに気づいた追手がこちらへやってきたのだ。エルマの手綱をしっかり掴みながら一瞬後ろを見た。数は四人。ヒュンと投剣が風を切る音が耳元を掠った。そのうちの一つがエルマの臀部に突き刺さった。エルマは悲鳴のように嘶いて後ろ足で立ち上がり、跳ね上がった。その反動にツェレンは跳ね飛ばされ、土の上に落とされてしまった。受け身をどうにか取ることができたが、エルマは混乱するようにツェレンから離れ、木々の向こう側へ走って行ってしまった。


「エルマ!」


 名前を呼んでも戻って来ないことは分かっていた。エルマには酷い目に遭わせてばかりだ。見知らぬ土地に連れて行かれた挙句、戦いに巻き込んでしまった。エルマは狩りには連れて行っても、戦場へ行くように訓練された馬ではないのだ。


 ツェレンが立ち上がる頃には、サルの兵士たちに取り込まれていた。いずれも“人”の兵だ。


「マヴィの娘だな?」


 身に纏ったのが彼らと同じ兵服だったからか、兵の一人が確認をする。もう誤魔化すこともできないだろう。


「いいえ、私はクルムズの族長、シドゥルグの妻ツェレンです」


 名乗れば、男たちは嘲笑した。


「ここで死ぬか、大人しく着いてくるか選べ。そこに跪くんだ」


 ツェレンは彼らを睨んだままそこを動かない。決して膝を折るつもりはなかった。痺れを切らした兵の一人が舌を打った。ツェレンめがけて剣を振り翳した。その剣の鋒がツェレンの頬を掠め、纏っていたターバンの布地が切れた。衝撃があったわけではないが、咄嗟に剣を避けるつもりでツェレンは身をよじらせた。体制を崩してその場に倒れ込んだ。ターバンが地面に落ちて、ツェレンの長い三つ編みが垂れ落ちた。


「次は脅しじゃないぞ!」


 兵はもう一度剣をツェレンに向ける。しかし、ツェレンは服従しない。剣を持った相手が怖いと感じなかった。たとえ複数人でも敵う相手ではないと分かっていても、ツェレンは恐ろしさを心の奥に押し込めることができていた。サルの集落を出た時に決心していたからだろうか、それとも、シドゥルグたち狼獣人たちの姿をこの目で見たからだろうか。もう体は震えていない。立ち向かわなければならないと、自分を奮い立たせた。


「やってごらんなさい! 私に刃を向けたということは、あなたたちも刃を向けられるということよ」

「ふん、何を当たり前のことを。ここは戦場だ。誰だって殺されても文句は言えない」

「そうね、文句なんて言えないわ。……死人が喋るなんて、聞いたことないもの」


 不思議な心地だった。少しも怖くなかった。ここで殺されるかもしれないのに。男たちは目配せしながら、お互いを見る。どうするのか決めかねているようだった。ここで貴重な人質を殺したら誰が責任を取る? ハカンは自分の息子にツェレンを嫁がせる思惑があったことは彼らも周知のことだったのだろう。


 風を切る音が遠くで聞こえた気がした。それが気のせいではないことに気づいたのは、それが起きて少し間が開いた。ツェレンのすぐ前に立ち、先ほど剣を振るった男の喉元に赤い線が走った。一声もあげることもできず、男はその場に崩れ倒れた。目の前で俊敏に動く、なめらかな灰色の身体はツェレンがよく見知った色だ。


 ファーリアイは血を浴びて自慢の毛並みを赤く染めた。しかしそれに構わず、一度後ろに下り、もう一人に突進して短剣を突き刺した。


「く、クルムズの狼獣人!」


 一人の兵が悲鳴を上げるように言う。ファーリアイはそちらを一瞥して剣を振るう。男は何とか一合防いだが二合目、三合目と次々振るわれる攻撃を防ぐことしかできなかった。反撃を許さないファーリアイが不意に彼の足元を足で振り払った。体勢を崩した男はぎゃあと短く悲鳴を上げ、そのままファーリアイに剣を振り落とされ絶命した。その隙をついて残った一人がファーリアイの背中を切り掛かる。ファーリアイは身をよじってその剣を避け体勢を整える。男の体を体当たりし、背後の木に叩きつけ、頭を打ちつけた。そのまま男は伸びてぴくりとも動かなくなった。


 はぁ、とファーリアイがため息に似た息を吐いて、剣についた血を振って拭い鞘に戻す。


「ファーリアイ」


 安堵したようにツェレンが彼女の名前を呼ぶと、ファーリアイはこちらを振り向いて微笑んだ。ツェレンに近寄り、ひざまづいてツェレンの傷ついた頬を撫でた。


「どこか痛むところはありませんか?」

「大丈夫。ファーリアイは?」

「何ともありません。……ご無事でよかった」


 胸を撫で下ろすようにファーリアイは言う。ツェレンの胸が熱くなった。ファーリアイが無事でよかった。


「ファーリアイ、村は……?」

「大丈夫。心配することはありません。さぁ、まずはここを離れましょう」

「シドゥルグ様は? 戦場にいるの?」


 ツェレンを立ち上がらせようとファーリアイが手を差し伸べた。それに手伝ってもらいながらツェレンは立ち上がって問いかける。


「はい。あの人なら大丈夫です。今は、ご自分の安全のことをお考えください。これ以上、あなたに何かあってはシドゥルグ様は悲しみます」

「うん……でも森は危険よ。伏兵が」

「分かっています。大丈夫。何か異変があればすぐ分かりますし、何があっても私が守ります。さ、早く」


 ファーリアイはツェレンを急がせた。それにしたがってファーリアイの後ろを着いて歩いた。正直なところ、エルマのことを探しに行きたい気持ちがある。しかし、これ以上彼女に迷惑をかけたくない。ツェレンはエルマの無事を祈りながら森の奥へ入って行った。

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