10-4
血の匂いが鼻を鈍らせる。剣を振い続けた腕や荒地を駆け抜けた足は次第に鉛のように重くなる。全身に疲労を感じ始めていた。それでも、シドゥルグは部下達を先導し、前線で戦い続けた。
サルの兵たちは数は多いが練度だけならクルムズの戦士達の方が上だ。楽な戦いではないが、善戦している。
最初に感じていた違和感は次第に確信へと変わった。ここには“人”しかいない。手を組んだと言っていたが、ハカンのそばにも周辺にも狼獣人の姿は無かった。どこかに隠れ潜んでいるのかもしれないと思ったが、姿を現す気配もない。耳や鼻の利く狼獣人から気配を勘付かれない動きをできる種族はなかなかいない。しかし、同じ狼獣人なら話は別だ。
(トルガは、森林にいるのか?)
シドゥルグは森林の方へ目を向ける。目では特に異変らしきものはない。
「おい、族長! よそ見してんなって!」
シドゥルグに襲いかかってきたサルの兵士の攻撃をジハンが防ぐ。応戦しながらシドゥルグはジハンに聞く。
「ジハン、トルガを見たか?」
「見ちゃいねえよ、んな余裕あると思うか!?」
思わずシドゥルグは舌を打った。それに対してジハンは不快そうに「なんだよ」と睨む。自分に対して舌を打たれたと思ったようだ。シドゥルグはそれを訂正する余裕もなく思案を続ける。──トルガは何を企んでいる?
「族長! 南に走る馬影あり、ハカンの野郎だ!」
その声にハッと顔を上げた。剣にこびりついた油や血を払いって鞘に収めながら周囲に怒鳴る。
「追うぞ! 着いて来れるものは着いて来い!」
この声に応えてシドゥルグに着いてきたのはジハンを含めて五人の狼獣人だった。血で汚れた荒地を全力で駆ける。狼獣人の全力疾走を止めようと思う“人”は誰もいない。荒れた土の丘を越えると、遠くに馬影が見えた。数は二十ほど。煌びやかな鎧はハカンのものだと一眼で分かる。彼らは何を急ぐのか、一心不乱にサルの集落がある方角へ向かっている。
シドゥルグたちはまっすぐ彼らを追った。十五サズほどの距離まで縮まると、ハカンの周囲を走っていた護衛たちがこちらに向き合って槍を向けた。シドゥルグは短く掠れた声で吠え、拡散を命じた。
狼獣人たちは次々と馬上の兵に襲いかかった。シドゥルグは馬の間を駆け抜け、ハカンへ真っ直ぐ走る。それを、幾人かが道を防いで槍を突き刺そうとする。シドゥルグはその大きな体では考えられないほど俊敏に体を後退し避け、一人に狙いを定めて飛びかかった。口元に加えていた短剣を持ち直し、首を掻き切る。
突然重みが増したため、馬が跳ね上がった。乗っていた兵はそのまま硬い土に落とされたが、シドゥルグは受け身をとり、落下するところを狙って槍の穂先を振り落としてきた他の兵の攻撃を防いだ。受け身をとった体勢のまま、シドゥルグは土につけた腕に力を込めて押し上げ、立ち上がる。兵は槍を突いてシドゥルグが間合いに入られないように牽制する。
こうしているうちにハカンは逃げようとする。煩わしくなったシドゥルグはその槍の穂先を受け止めた。鋭い穂先はシドゥルグの腹部を貫こうとするが、硬い筋肉とシドゥルグの腕の力によって槍は動けなくなった。シドゥルグは唸り声をあげてその槍の柄を掴み分取る。面食らった兵に近寄って短剣で頭を殴りつけた。その兵が倒れるのを待たずに槍を抜き捨て、再びハカンへ真っ直ぐ駆けて行く。
シドゥルグは短剣を持ち直し、力一杯振りかぶった。力の強い狼獣人が全力で投げた短剣は、穂先を飛ぶ方へ向けたまま鎧のわずかな隙間を抜けハカンの肩に突き刺さった。ハカンは短い悲鳴と共に硬い土へ転落した。
「動くな!」
もう一つの剣の刃をハカンの喉元に向け脅した。ハカンは忌々しげに悪態つくがもう抵抗する様子はない。
「おい、トルガはどうした? お前たちと一緒にいるんだろう?」
「トルガ? ふん、やつはとうに我々の元を去ったわ」
ハカンの言葉にシドゥルグが顔を顰めた。
「どういうことだ?」
「知らん。気づけば仲間と共に消え失せておった。やつはこの平原に来ておらんよ」
「ジハン!」
シドゥルグは考える間もなく部下を呼んだ。
「ここはお前が取り仕切れ」
「族長、何を言ってんですか。あんたがここにいないと」
「俺はトルガを追う。やつの狙いは俺だ」
***
ファーリアイは剣を手にしたまま辺りを警戒しながら進む。それにツェレンはついて森林の中を進み続けた。四人を相手にしたファーリアイは強い。これまで、彼女はツェレンのそばにいて、守ってくれた。こんなに頼もしい味方はいないはずなのに、ツェレンは言いようのない不安が込み上げてくる。それは、この森のどこかに敵がいるかもしれないという考えが不安にさせているからかもしれない。どこかの茂みから敵が飛び出してきそうと、空想が頭を離れない。その想像を振り払うために、ツェレンは口を開いた。
「ファーリアイ、あの……ルフィンは?」
会話をしようと名前を呼んだはいいが、話題が見当たらず、つい紡いだのは彼女の弟のことだった。ツェレンは言葉にして後悔した。あの時、ルフィンはひどい大怪我をした。ファーリアイの口から助からなかったと言われるのが恐ろしかったし、何より姉である彼女から説明させるのは酷なことだ。しかし、ファーリアイは気を害した様子はなかった。
「私もあの後すぐに村を飛び出してきましたから……少なくとも、私が出る時には息はあったようです。結局、弟の顔を見ることもできないまま飛び出してきました」
「……心配ね」
「たとえ子供でも、クルムズの狼獣人は強い。きっと大丈夫ですよ」
ファーリアイは笑んで返してくれた。それは自分を気遣った返答だということにツェレンは気づいていた。自分への自己嫌悪や、罪悪感に苛まれ、ツェレンは自分の腕を掴む。
「……私がちゃんと止められていたら、こんなことにならなかった」
「ツェレン様、そんなことおっしゃらないでください」
「だって、私はクルムズの、シドゥルグ様の妻なのに。トルガが攻めてきた時に、もっと交渉できていればルフィンは……」
「ご自分を責めることは簡単です」
ファーリアイは毅然と答えた。先ほどの優しい答えとは正反対の言葉にツェレンは言葉を失うほど驚いた。ファーリアイは真っ直ぐツェレンを見下ろした。
「ダメだった、できないと自分で自分をできない者にすることは誰だってできます。でも、次にどう挽回するかを考え行動することの方が難しく、有用的です」
ファーリアイの鋭い黄色い目を見つめた。すると、その目が優しく細くなる。
「誰にだって、落ちた石がどう転がるかなんて分かりません。必要以上にご自分を責めないで」
「……うん」
厳しくも優しい言葉にツェレンは勇気づけられた。ファーリアイのような強かな女性になれたら。ツェレンはひっそりと胸の内に思った。
クルムズの山に帰ることができたら、クルムズの族長の妻として振る舞えるようになろう。母が父をそっと支えていたように、ファーリアイのように強くなりたい。自分のことをまだ認めていない人々ともうまく付き合えるような気がした。たとえ、拒絶されても、毅然とした態度で向き合いたい。ツェレンの胸に望みがいくつも生まれてくる。なぜだか叶うような気がした。自然と足取りは軽やかになった。
しかし、ツェレンの足取りが軽くなった途端に、ファーリアイの足取りは重くなって行った。口数も少なくなり、しきりに辺りを警戒するように立ち止まる。見回して、耳を澄ませている。
……きっと、ツェレンには聞こえない何かの音にファーリアイは気づいているのだ。ツェレンは邪魔しないよう、口を閉ざしてできるだけ動かないようにしていた。
それを何度か繰り返していると、唐突に目の前に狼獣人の姿が現れたのだった。
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