10-5

 ファーリアイがツェレンの腕を掴んで身構えた。前に立つ狼獣人はトルガを含めて三人だった。


「トルガ……」

「お前も大したことがないな、ファーリアイ。その耳と鼻は飾りか? 俺たちの尾行に気づかないなんて」


 ファーリアイが低く笑った。


「どうせ、初めからこちらの動向に気づいていたのだろう?」

「やっぱりお前はダメだ。お前と同族であることが恥ずかしくてたまらないよ」

「それはこちらの言葉だ。もうクルムズの民でなくなったが同じ狼獣人であることに虫唾が走る」

「なぁ、ここで死ねば一生恥を晒して生きることはないだろう? なぜその“人”を守ろうとする? なぜあの弱者を長とする? お前たちは間違っている。何もかも」

「それをすでに去って未練がないと言ったのはどこの誰だ?」


 トルガは声をくぐもらせて笑った。


「俺だ。だが、俺の血がお前たちと同じところから流れていることに耐えられん。ここで死んでくれ、ファーリアイ。俺たちの血は、大陸一の戦士にする」

「狂ったかトルガ、お前の方こそ間違っている!」


 ファーリアイが身構えた。ツェレンがファーリアイに寄り添って彼女の名前を呼んだ。彼女は小さく囁いた。


「ツェレン様、ここから離れて」

「でも」

「早く」


 有無を言わせない口ぶりに、ツェレンは体が跳ねるようにその場を駆けて行った。トルガが仲間の二人に目で追うように指示した。二人はツェレンの後を追ったが、ファーリアイはそれを見逃した。


「いいのか? あの娘が死んでも」

「ツェレン様は死なない」


 ファーリアイは断言した。トルガは訝しげに彼女を見る。根拠なんてあるわけがない。しかし、ファーリアイの表情を見るとそれを確信しているようだった。


「それよりも、この場でお前の息の根を止める。……弟の仇だ」

「やってみたらいいさ。果たして、弟の仇がお前に打てるかなぁ!」


 トルガが剣を抜き、ファーリアイの方へ飛び込んでいく。大木が生い茂る森林に金属の跳ねる音が響き渡った。


***


 ツェレンは自分の持っている限りの力で走り続けた。後ろを振り返る余裕もない。


 分かっている。狼獣人の足に逃げられるわけがないと。いずれは捕まるだろう。後ろの狼獣人たちはそれを分かっていて、獲物をいたぶるように、ツェレンが全速力で走るのをついて走っている。それでも、ツェレンの心はなぜか落ち着いていた。このまま真っ直ぐ走ればいいと感じていたのだ。踏みしめる森の腐葉土から懸命に動かし続ける足の裏を伝って、汗で濡れた肌に触れる風が、足音や鼓動を届けてくれる。


 突如、足を取られ、転倒した。体の全身が土にぶつかり鈍い衝撃が走るが、それでも落ち着き払っていた。体を起こそうとすると、すぐに土の上に押し戻された。とても敵わない力で体を押し付けられ、動けなくなる。


「鬼ごっこは楽しかったか?」


 トルガの仲間らしき狼獣人たちは嘲るように笑い、ツェレンを見下ろしていた。それに返すようにツェレンは見上げ睨んだ。狼獣人が舌打ちをして、ツェレンの首に手をかけ力を入れた。喉が締まり、呼吸が絶え、込み上げる苦しみにツェレンはもがいて狼獣人の腕に爪を立てた。しかし、その毛皮によって少しも爪が届いていない。


「おい、死んだらどうするんだ?」

「構うもんか、トルガの狙いはクルムズの族長だ。もうこの女が死んだっていいさ」


 遠のく意識の向こうで、男たちがそう会話をしているのが聞こえた。

 意識を手放そうとした時、頬を冷たい風が撫でた。その冷たい風が男たちを取り払い、ツェレンの首に絡まる指が離れた。突然たくさんの空気が入り、咳き込んだ。その時、背後で何が起こっているのか、ツェレンは見ることができなかった。ただ、突風が辺りで暴れ回っているような気配に気圧され、どうにか逃げようと身を捩らせた。


「ツェレン」


 その声に聞き覚えがあって、顔を上げようとした。しかし、咳が再び出てきたのでその姿を見ることができない。


「無理をするな、少しずつ呼吸しろ」


 大きく暖かい手のひらがツェレンの背を撫でる。その手のひらの動きに合わせるようにゆっくりと息を整える。少しずつ、喉の苦しみが和らいでいくのを感じて、ツェレンは振り返った。その人の名前を呼んだつもりが声にならず、掠れた吐息が漏れるだけだった。


 シドゥルグの毛並みは荒地の砂や返り血で汚れ、自身も怪我をしている様子だった。彼の姿を見て、ツェレンは苦しくなった。


「平気か?」

「はい……シドゥルグ様は?」


 やっとで音になった声で聞けば、シドゥルグは返事の代わりに頷いてみせた。シドゥルグがツェレンの顔を覗き込んで見る。ツェレンが本当に無事かどうかを確かめているようだった。ツェレンの傷ついた頬に優しく触れ、息を漏らした。


「お前にもし……」


 シドゥルグが何かを言いかけたのでツェレンはその言葉を待った。しかし、その続きを言う前にシドゥルグは立ち上がって、ツェレンに何かを差し出した。矢筒と弓矢だ。おそらく、サルの兵が使っていたものだろう。


「ここを離れるぞ。歩けるか?」

「大丈夫……」


 返事をして立ちあがろうとしたが、情けないことによろめいてしまった。シドゥルグに支えてもらい、土に膝をつくことはなかった。


「無理すんな」

「すみませ……わっ!」


 ツェレンの言葉を待たずにシドゥルグは軽々と担ぎ上げた。


「ちょっと! 何するんですか!」

「こうした方が早いだろ。とにかく、ここを離れるのが先だ」

「ま、待ってください。トルガが今、ファーリアイと……」

「ああ、分かってる。ファーリアイが時間稼ぎしている間に少しでもここを離れる」


 シドゥルグはすぐに動き出した。早足ではあるものの、ツェレンの体を気遣いながら歩き出す。シドゥルグがトルガの名前を聞いても表情を変えないことにツェレンは驚いた。彼は、知っているのだ。トルガとファーリアイが戦っていることを。


「私のことはいいです、どうかファーリアイを助けに行ってください」

「ファーリアイは自分がするべき役割を分かっている。あいつはお前を逃すために戦うのであって、やつを倒すために残ったんじゃない」

「それは……ファーリアイがどうなるのか、分かってて言っているんですか?」


 シドゥルグは何も言わない。しかし、否定しないことにツェレンは肯定だと悟った。


「そんな、そんなのダメ!」


 胸の中に火花が散るように、焦燥感が生まれてツェレンはシドゥルグの腕から逃れるようにもがいた。シドゥルグの大木のような腕から逃れることはできず、再びその中に収まってしまった。


「おい、暴れるな!」

「そんなの、ファーリアイがどうなってもいいって言ってるのと同じじゃないですか!」

「んなこと言ってねぇだろう! これは戦だ、犠牲のない戦がこの世のどこにある!」

「その犠牲を最小限に納めようとするのが族長の役目でしょう! もう私のせいで誰かが犠牲になるのはもうごめんなんです、ファーリアイが死んじゃったら、私、自分が自分を許せなくなる」


 ツェレンがあまりにももがくので、シドゥルグは一度彼女を下ろした。唐突に降ろされたツェレンはよろめきながらもなんとか体勢を整えてシドゥルグに向き合った。するとシドゥルグは「いいか?」と前置きをして、ツェレンの肩に手を置いて真っ直ぐ見据える。


「戦っていうのは何かを巡って争うものだ。土地、金、食料、人……お互いがお互いに譲れないものがあるから命をかけて戦う。ファーリアイにも譲れないものがある。それがお前だと、なぜ分からない?」

「私だって、ファーリアイがとっても大事なんです! クルムズで、初めてできた友達なんだもの、大切な人のためなら私……」


 シドゥルグの手のひらに力が籠ったのが分かった。ツェレンの肩を砕かないよう、わずかに震えて力を押さえ込んでいる。その力んだシドゥルグの手に気づいて、ツェレンは言葉を止めた。


「容易く、自分を軽く扱うな。お前まで失えば、ファーリアイは……俺は何のために戦っている?」


 一瞬呼吸が止まった。何のために、この人はこんなに傷ついているのだろう。戦いに勝つためだとツェレンは思っていた。でも、勝利のその先にあるものをシドゥルグは得るために命を張って戦っている。


 彼らは私を守るために命をかけて戦っているのだ。何も言い返せずにいた。シドゥルグは顔を上げ、遠くを見つめる。


「この先にジハンたちがいる。トルガの仲間が待ち伏せしていて、囮になってくれている。何とか切り抜けてくれていると信じたいが……」


 その言葉にはっと顔を上げた。


「トルガは今一人です。もしかしたら援護が来ているかもしれませんが、きっとトルガの周囲は手薄です。今なら、私とシドゥルグ様二人なら、勝てるかもしれません」


 トルガの仲間がジハンたちと戦っている今、これはトルガを討つ好機だとツェレンは考えた。一理あるとシドゥルグは少し考えるように黙り込んで、じっとツェレンを見下ろす。


「……お前、自分を一人前の戦力になっていると思っているのか?」

「う……」


 返事を濁らせると、シドゥルグはからかうように笑った。


「まぁ、俺一人よりか多少マシだな。……いいか、トルガは俺がやる。お前はその弓を引くな。俺が指示をするまで動くなよ、いいな?」

「はい」


 強く頷いた。異論はない。ツェレンが狼獣人に敵うわけがない。それはわかり切ったことだ。それでも、大切な人たちを助けるためにできることをしたい。その思いで、シドゥルグの後に続いた。

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