10-6

 一歩足を進めるたびに緊張感が増して、心臓の鼓動が速くなっていく。すぐ前を歩くシドゥルグに音を聞かれていないかとすら思うほど自分の鼓動が大きく打ちつけるようになった頃、シドゥルグが足を止めた。目の前は彼の背中でいっぱいになっていて、ツェレンは彼の背中から顔を覗き込ませた。


「……よぉ、兄弟。会いたかったぜ」


 シドゥルグの前にはトルガが振り返ってこちらを見ていた。彼の足元には血に濡れた狼獣人の体が横たわっている。そのしなやかな体や身に纏っている着物には見覚えがあった。


「ファーリアイ!」


 名前を叫んで呼んでも彼女は動かない。冷たい血がツェレンの体を走る。最悪な想像をしてしまう。


「まだ生きてるよ。だからそんなこえー顔すんなよ」


 トルガは笑いを堪えるように言う。その言葉は、ツェレンに言ったものではない。目線はツェレンの頭上に向いている。


「まぁ、死ぬかもしれんがな」


 シドゥルグの身の内が震えているのが分かる。これは、怒りだ。シドゥルグは怒りを押さえ込んでいるのだとツェレンは気づいた。


「……お前の望みはなんなんだ、トルガ」


 ぐっと息を呑んでシドゥルグは聞いた。トルガは声を上げて笑った。


「お前の死、クルムズの死だ! ここで今すぐ死ね、シドゥルグ!」

「……ツェレン、ファーリアイを連れて離れろ」

「シドゥルグ様、私も……」


 ツェレンはシドゥルグにすがるように彼の腕に手をやったが、意味はなかった。シドゥルグが声を細めて言う。


「言う通りにしろ。ここで奴をやらなくては、お前もファーリアイもどうなるか分からん」

「そんな……」

「好きにしたらいいさ、今のところその人間のガキにも妹にも興味はない」


 今の会話に口を挟むようにトルガが言う。シドゥルグは舌を打った。


「頼む、言う通りにしろ。今は、お前のできることを考えろ」

「……はい」


 納得はできない。シドゥルグを一人置いて行くことに後ろ髪を引かれる。しかし、ファーリアイをこのまま放っておくのもいけない。ツェレンはファーリアイの体をおぶさるようにしてその場を離れる。


 お願い、どうか誰も死なないで。頭の中で何度も何度も唱えた。


***


 シドゥルグには子供扱いされているが、ツェレンは同世代の少女たちの背丈と比べてそれほど小柄というほどでもない。しかし、狼獣人であるファーリアイの体は“人”の成人男性よりもやや高い。担いで連れて行くのは難しく、半分背負うようにして移動したが、どうしても長い足が土について引きずってしまう。鍛えられた筋肉は重たくツェレンにのしかかり、少しでもよろめけばそのまま倒れてしまいそうだ。


 ファーリアイの毛並みが赤黒い血で染まり、全身に傷を負った体を引きずるのは忍びない。簡単に血止めを試みたが、布を当てた程度では血は止まらずあっという間に黒く染まってしまった。


 トルガとシドゥルグがどうなったのか、ツェレンは見ていない。きっと、シドゥルグ様なら勝てる。でももし最悪の事態になってしまったら? 希望と不安がツェレンの脳に浮かんでは消えて行く。


 息を切らし、ファーリアイを連れて歩き続けていると、ファーリアイの腕の筋肉がわずかに震えた。


「……ツェレン様?」

「ファーリアイ? 気がついた?」


 掠れたファーリアイの声がツェレンの耳に囁く。まだ彼女の意識は朦朧としているようだった。


「こ、こは?」

「まだ森の中。あなた、トルガと戦って大怪我をしたの。覚えてる?」


 ツェレンの問いにファーリアイはしばらく考えはっと顔をあげた。


「トルガは……」

「今、シドゥルグ様が戦ってる。……私たちを逃すために」


 ファーリアイは一度ツェレンの顔を見た。しかし、自分の全身に負った怪我が痛むのか、痛みに耐える呻き声を上げた。例え、シドゥルグを助けに行っても、この怪我では助けられないだろう。ファーリアイはそう悟ったのか力を緩めた。


 右手から草を踏む音が聞こえた。ハッとしてそちらを見た。まさか、トルガの仲間ではないかと思い、警戒する。背中のファーリアイも身を固くさせるのが分かった。


 それはトルガの仲間ではなかった。鹿毛色の大きな体に思わず声が上がった。


「エルマ、無事だったのね!」


 愛馬のエルマはゆっくりツェレンに近寄って来る。ツェレンが手を差し伸べると、再会を喜ぶように体を震わせた。投剣で負った傷は浅かったようで、自然と抜け落ちたらしい。痛々しい傷口からは血が滲んでいたがエルマは平気そうだ。


「お前、戻ってきてくれたの? なんていい子なの」


 ツェレンの声が涙で一瞬震えた。込み上げた感情をぐっと飲み込む。


「ファーリアイ、乗れる?」

「ええ……」


 ファーリアイに手を貸してエルマの上に乗せた。彼女がちゃんと鞍に乗ったのを確かめて、ツェレンも乗り込もうとエルマの体に触れた。しかし、足が上がらない。これまで辿ってきた道を確かめるようにそちらに顔を向けた。


「ツェレン様、どうかされましたか」

「……ファーリアイ、やっぱり私行けない」


 ファーリアイが狼狽するように表情を変える。


「ツェレン様、お気持ちはわかりますが……」


 その表情や声音にはわずかにツェレンを非難めいた色がある。何を勝手なことを言っているのだと。しかし、ツェレンは首を振った。


「分かってる、私なんか役に立たない。でも私、このまま逃げたら何のためにあの人の元に嫁いだの?」


 唐突に、ツェレンの胸に自分は一体何をしているのだろうと疑問が湧き起こったのだ。何のためにクルムズにやってきたのだろう。シドゥルグの妻になるためか、彼の子を産むためだろうか。


 もしこのまま、この場を離れたきり、シドゥルグと会えなくなったりしたら。そう思うと恐ろしくて堪らない。それくらい、ツェレンにとってシドゥルグという人がいなくてはならない人となっているのだ。シドゥルグのいない世界はもう考えられない。


「私、まだ夫婦って良く分からない。でも、自分の大切な人が苦しんでいるところをもう見るのは嫌。だから、少しでもあの人の力になりたいの」

「お気持ちはわかります、でも……」

「大丈夫。エルマは賢い馬よ。あなたの行きたいところへ連れてってくれるわ」

「待ってください、ツェレン様、あなたが残るなら私も残ります!」

「ダメ。あなたはもう戦えないでしょ。私の方がまだマシよ」

「そんな、無茶です」


 ファーリアイが降りようとするのをツェレンが微笑んで止めた。


「私、弓を使わせたらちょっとしたものなのよ。だから、信じて、ファーリアイ」

「ツェレン様」


 ファーリアイの目は不安に揺れている。これ以上、彼女をここに引き止めるわけにはいかない。ツェレンは彼女に大丈夫だと言うようにもう一度笑ってエルマの体を叩いた。


「さぁ、行ってエルマ!」


 エルマはその場を駆けて行く。怪我を負ったとは思えない、いつものように軽やかに駆けていき、去って行く。ファーリアイが不安げにこちらを振り返る。そんな彼女が木々の間へ消えて行くのを見守り、ツェレンは息を吸った。土の匂いが肺に入り込んでいく。


「行かないと」


 矢筒の革帯をぐっと握り、来た道へ戻って行く。シドゥルグの元へ戻るために。

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