10-7
木に叩きつけられると、背中から嫌な音がした。……これは折れたな。シドゥルグは人ごとのように思った。幸い背骨は無事らしいが、どこかしらの骨がやられたらしい。呼吸が乱れ、息が短くなる。痛みが全身を蝕んで、その場に膝をついた。
「おい、どうしたもう降参か?」
対するトルガは、シドゥルグほど疲労を見せていない様子だった。シドゥルグも確かに攻撃を与えてはいる。彼の肩から胸にかけての切創から血が滲んでいる。しかし、その傷に痛む様子は少しもない。むしろ、戦いを始めるよりも勢力が増しているようにすら思えた。ファーリアイも集落の中では抜きん出た強さを持つ戦士だ。それを相手してもまだ続く体力に化け物のようだとシドゥルグは思った。
やはり、自分の兄は戦士として優秀だったのだ。何かが違えばトルガがクルムズの族長だった。この力を持つトルガなら、今のクルムズはもっと強く、他の勢力にも勝る戦士の一族になっていただろう。
父が自分を次期族長に指名した時、一番困惑したのはシドゥルグだ。当時のシドゥルグはまだ成長途中の少年で、今よりもうんと体が細く優秀な戦士とは言えなかった。なぜ将来有望なトルガではなく、未熟な弟を族長に指名されたのか分からなかった。父はそれを話すことなく、逝ってしまった。
血の混じった唾を飲み込んで、ぐっと足に力を入れ立ち上がった。そうするとトルガは満足したように笑った。
「しぶといなお前も。懐かしいぜ十年前、こうしてお前と戦った。父上の死体の前で」
シドゥルグが短剣を手にトルガに向かう。それをトルガは難なく自分の剣で受け止めた。疲労の隠しきれないシドゥルグの剣筋は容易く見切り、シドゥルグの足を軽く蹴り怯んだ瞬間に剣の柄で腹部を突いた。腹部を突いた衝撃に耐えられず、血の混じった痰を吐いて咳き込んだ。トルガが横腹を蹴り付け、無理やりシドゥルグの体を転がせる。
朦朧とする意識の中、シドゥルグの思考は過去の記憶へ遡る。トルガと剣を交えたのは二度目だ。あの時も叶う相手と思わなかった。なぜ、あの時勝てたのか、死に物狂いで戦ったためかあの時の記憶は曖昧だ。やはり、あれはまぐれだったのだと、こうして戦って分かった。
「終わりだな。お前はここで死に、クルムズはお前の代で断絶する」
「……違うな」
トルガの足元、土に近いところから、か細い声が聞こえた。
「んだと?」
「俺が死んでも、クルムズには、まだ強い民達がいる。……何より、あいつがいる」
「まさかあの“人”のガキのことを言っているのか?」
トルガが裏返った声で笑い、突然不快そうに顔を歪めて見せた。
「あんなのが俺たち狼獣人だというのか? あんな“人”のガキに何ができる、我々は強き狼の一族だ! なぜ弱い一族と交わろうとする!」
シドゥルグは答えない。代わりにトルガを見上げた。その目は静かに反論するもので、トルガを激昂させるには十分だった。
「俺たちは気高く強い戦士の一族ではならない、お前は間違えたんだよ。そんなお前に、族長なんぞ務まるか! 死ね、シドゥルグ!!」
トルガがシドゥルグの頭上めがけて剣を振るった。その切先がトルガの頭を貫くことはなかった。貫いたのは、トルガの腕だった。
「離れなさいトルガ!」
甲高い少女の声が森の中によく響いた。見れば、ツェレンが弓矢を構えてトルガに向けている。ツェレンの放った矢はトルガの右前腕に突き刺さった。その弓矢に悪態ついて、柄を追って土に叩きつけた。
「お前……何を」
戻ってきた妻の姿を見て、シドゥルグは目を丸くした。なぜ、戻ってきたのかと困惑しているようだった。
「人のガキが……てめぇも死にてぇのか?」
トルガが凄む。ツェレンの頬に汗が伝うが、その矢はまっすぐトルガをとらえたままだ。
「お望み通り殺してやるよ!
」
トルガは左手に剣を持ち直しツェレンに振るう。ツェレンはそれをなんとか躱すことができた。利き腕ではないことと、シドゥルグと戦ったことでトルガにもいくらか疲労が溜まっているためだろう。彼のから振った腕を弓で絡め取り、体勢を崩した。トルガが前へ転倒しかけたがその体制のままツェレンの足を切り付ける。ツェレンがその痛みに体を後退させたことをトルガは見逃さなかった。素早く体を起こし、ツェレンとの間合いを詰めそのまま押し倒した。狼獣人の体格と比べて小柄なツェレンの体は容易く土の上に倒れ込んだ。そこにトルガが馬乗りになり、剣を振るおうとする。
トルガの背後に倒れ込んだシドゥルグがツェレンの手元へめがけて自分の短剣を滑らせた。滑ってきた短剣を手に掴み、その勢いのままシドゥルグの顔の中心を切りつけた。トルガはもうツェレンを仕留めることしか頭になかった。突然の攻撃に予想ができなかったのか怯んで体が浮いた。その瞬間にツェレンは膝を立てて、身を立て直し、トルガの下から逃れた。
「このガキ、殺してやる!」
トルガの声は悍ましいものがある。ツェレンはそのまま森の茂みの方へ逃げた。しかし、トルガにはツェレンがどこへ逃げたかなんて容易くわかる。ツェレンが草をかき分ける音や、さっき切りつけた血の匂いは分かりやすくツェレンの行き場所を教えてくれている。トルガはただそれを追えば良いだけだった。足の速さだけなら、“人”に負ける訳がない。あの女を殺して、その屍をシドゥルグの前に突き出してやる。そう考えを巡らせていた時だった。
ふいに、足元に何かが引っかかった。初めこそ気にならなかったそこから土を蹴った時、その引っ掛かりが足首に絡まりトルガの動きを止めた。茂みに隠れていたそれは、蔦と木の枝で作られたくくり罠だ。
「くそっ」
トルガが悪態ついて剣で蔦を切ろうとした時、手を止めた。後頭部に感じる冷たいそれに気づいた。ツェレンはシドゥルグの短剣をトルガの後頭部に突きつけていた。呼吸は荒く肩を上下させていても、トルガの動きに注意し少しもその刃をトルガから逸らすことをしない。
トルガが剣を足元に落とした。ツェレンに反撃しようとも、抵抗する様子もない。その反応にツェレンはわずかに困惑した。
「……どうした、早くやれよ」
トルガが急かす。しかし、ツェレンはそれ以上短剣を動かせないでいた。脳裏にトドメを指すという言葉が鳴り響く。しかし、それと同時にファーリアイや彼女の母、シドゥルグの寂しそうな顔を思い出してしまったのだ。
──ここで本当に殺してしまえば、後戻りはできない。トルガを許すことはできない。しかし、ここで殺すことが最適なのだろうかという疑問が浮かんでしまうと手を動かせないでいた。
躊躇うツェレンの手からそっと短剣を奪われた。後ろを振り返れば、毛を血に濡らしたシドゥルグがそこにいた。
「お前が背負うことじゃない」
シドゥルグの声はひどく聞きづらい。しかし、何を言っているのかは分かった。
「これは俺がやることだ」
シドゥルグは奪った短剣を手に兄を見下ろした。トルガは諦観したように弟を見上げている。
***
ツェレンはシドゥルグに言われその場を離れた。木々や茂みの向こうにシドゥルグとトルガがいることは分かっているが、それ以上近寄らないでいた。
ひどく静かだった。何か争うような音や、声も何も聞こえない。時々草木が風に揺れて葉が擦れる音がするだけ。
その音の中からシドゥルグがよろよろとこちらへやってきた。駆け寄ると、彼はこちらを見て言った。
「もう終わった」
短くそう言うや否や、シドゥルグは前へ倒れ込んだ。慌ててツェレンがそれを支えようとするが、身体を支えきれず一緒に土に倒れ込んでしまった。
「……ごめんなさい」
「気にするな。お前が支えられるわけないだろう」
「違う、違うんです」
ツェレンの声がこもった。倒れ込んだまま、顔を手で覆った。そんなツェレンの頭にシドゥルグは手で触れて撫でた。
「もう謝るな。お前は何も悪くない。……少し痩せたな」
シドゥルグが穏やかな声で慰めても、ツェレンは首を振った。
「お願いですから聞いて。私が浅はかだったの。ちゃんとしていればあなたを、皆を酷い目に遭わすことはなかった。私が……」
「自分を責めるな、ツェレン。お前がいるから俺はこうして生きている。お前が守ったんだ」
掠れたシドゥルグの声に、ツェレンは手から顔を上げてシドゥルグを見た。その目には涙が溜まって、一粒流れて土に染み込んだ。
「泣くな、クルムズの一族は人前で泣くものじゃないと教えただろう」
「安心したら、涙が止まらなくて……」
ツェレンの涙は一粒流れると止めることができず、次々に溢れてくる。そんな彼女の身体をシドゥルグは自分の方へ寄せて、自分の胸にツェレンの顔が隠れるように背に腕を回した。
「なら、存分に泣いておけ」
それ以上シドゥルグは言葉をかけなかった。ツェレンはジハンたちがやってくるまで声を殺して泣いた。
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