11.初夏の風

11-1

 目を開けると、まだ夜明け前の冷たく沈んだ空気が辺りに漂っていた。天井は天幕で、一面さまざまな色模様の布地で飾られている。天幕の中は薄暗いが、そこにはシドゥルグ一人であることが分かった。


 シドゥルグの寝台の横に、小さな腰掛けが一つあった。その椅子から微かにツェレンの匂いがする。椅子に触れてみるとすでに冷たくなっていたが、確かにそこにいたようだった。


 まだ体は重く、背中と寝台が縫いついているような気さえしたが、ツェレンの居所が気になり、ゆっくりと身を起こした。すると、腹の上に置かれていたらしい何かがはらりと床に落ちていった。広げてみれば、それが天幕に貼られているような模様を模った布地だと分かった。黒地に赤の縁取りがされ、真紅と金の糸で見事な模様がなされている。シドゥルグにはこういった絵画や模様の良し悪しはよく分からない。しかし、緻密に針を通して作られていることはよく分かる。天幕から一枚剥がれ落ちたのだろうか。シドゥルグはその布地を手にし寝台から立ち上がり、天幕を出た。


 体は動かすたびに軋むように傷んだが、包帯が巻かれ、よく手当されているため酷い痛みはない。天幕の外では、まだ夜明け前だと言うのに田畑を耕しに用意する者や、放牧のため身支度をする者がちらほらいた。そういった人々に声をかけツェレンの行く先を尋ねれば、彼らはツェレンの行き先を教えてくれた。どうやら、集落外へエルマではない他の馬と共に狩りへ行ったそうだ。シドゥルグはそれを追うように集落外へ出てツェレンを探した。そうしているうちに日が出てきて、夜が明けた。


 草原を歩き続けると、なだらかな丘にたどり着いた。それを少しずつ踏み締めるように歩きながら丘の上に立つと、美しい草原が広がり、穏やかな風を浴びた。夜明けの朝日が優しくマヴィの草原を照らし、クルムズの山では見られない幻想的な光景が広がっている。


 その広い草原に、一頭の馬が駆けている。何かを追っているのか、機敏に方向を変えて駆けている。それに騎乗している人物こそシドゥルグが探していたツェレンだった。ツェレンはこちらに気づきもしないで、獲物だけに集中している。その目はこれまで見たことないほど鋭い。いつも子供らしい表情ばかりしていたツェレンも、あんな表情ができたのかとシドゥルグはいささか驚いた。その鋭い表情が朝日に照らされているから、さらに美しく見えた。


 シドゥルグはツェレンの方へ向かうため、丘を下った。


***


 ツェレンは馬上で器用に弓矢を構え、追いかけた野うさぎに目掛け矢を放った。矢はうさぎの首元に当たり、仕留めることができた。ツェレンは馬を止めて降り、息を深く吐いた。だいぶ苦戦したようで、額には汗が浮かんでいる。うさぎを回収するため身を屈めようとすると、草を踏む音が聞こえそちらを見やった。包帯で巻かれた姿が痛々しいシドゥルグがこちらへやってくる。


「シドゥルグ様、まだ寝ていてください。お怪我に触りますよ」

「大したことじゃねえ。こんなの怪我のうちに入るか」

「またそんなことを……」


 ツェレンは呆れたように息を吐いてうさぎを拾う。シドゥルグは話を逸らすように話題を変えた。


「山ではああだったのに、ここだと大した腕だな」

「ええ、でも時間がかかりました。馬上で弓を使うのも久しぶりだし、エルマじゃない子でしたから慣れるのに時間がかかっちゃって」


 ツェレンは乗っていた白い馬を見る。その馬は母が乗っている年寄りの馬だ。まだまだ元気だが、狩りをするのはそろそろ厳しいだろうとツェレンは乗っていて感じた。月日が流れるのは早い。ツェレンが輿入れする前はまだまだ元気だったが、ほんの数ヶ月離れていただけで老いを感じる。


「それに、あなたには間食にもなりませんね」


 ツェレンは射止めたうさぎを見て力無く言った。そんな様子のツェレンにシドゥルグは指摘する。


「まだ気にしているのか」


 うさぎのことを指して言っているのではないことは分かっていた。


「気にしますよ。私がどれだけ皆に迷惑をかけたか」

「いずれにせよ、戦は起きていたんだ。いつかはこうなっていた。見方を変えれば早期に解決した。何より、お前の故郷は無事だろう」

「でももっとうまく立ち回れば、ルフィンだって無事だった! なのに………」


 ツェレンは納得しない。言い返される前にシドゥルグは先に言葉を続けた。


「ツェレン。俺はお前より早く逝く」


 シドゥルグは忠告するように言った。その言葉に、ツェレンは頭を殴られたような衝撃を感じた。決して覚悟していなかったわけではない。しかし、シドゥルグ本人が自分の死を話すことが想像以上に辛いものがあった。その辛さは表情に出て顔を顰めてシドゥルグを見上げた。


「俺たち一族は戦士だ。戦いには慣れている。だが、必ず代償はある。いずれ、俺も戦いに破れて死ぬだろう。決して、故郷で死ねると思ってはいない。クルムズのものなら、俺の妻ならそれを覚悟しておけ。……分かったか?」


 シドゥルグの言葉は厳しく、言い諭すような口調だ。しかし、どこか優しくツェレンを慰めるような音にも感じる。ツェレンは深く頷いた。


「……はい」


 ツェレンの周囲にいる人々はそういう人たちなのだ。死と隣り合わせにいる人たち。シドゥルグもファーリアイも戦で死ぬかもしれないし、今はまだ子供であるルフィンやトゥアナも成長して戦士として戦うようになればツェレンよりも先に亡くなってしまうかもしれない。ツェレンの胸に辛いものが込み上げてくる。自分には死というものがずっと先の関係のないところにあるものと思っていた。しかし、シドゥルグをはじめクルムズの民たちはそれを身近に感じている。この戦でも何人ものクルムズの戦士たちが亡くなった。自分ばかりが、死とは無関係と思ってはいけないのだ。


 今はまだ、その覚悟ができるほど自分は大人ではない。でも、いずれ……それもすぐに覚悟を決めておかなくてはならない。自分に言い諭すようにツェレンはシドゥルグの言葉を胸深くに刻んだ。


「私は、トルガに留めを刺せなかった。クルムズの一族なら、躊躇ってはいけませんでした」

「命を奪うことが恐ろしかったか?」


 その問いにツェレンは首を振った。目線は自然と仕留めたうさぎの方に向く。


「いいえ。トルガに剣を向けた時、ファーリアイやお母様のことを思い出したんです。お母様はいつもトルガのことを気にされていた。それにファーリアイは……決して言葉にしなかったけれど、トルガの死を望んでいなかった。シドゥルグ様もそうじゃないかと思ったんです」


 ツェレンはこれまでずっと小さな違和感を感じていた。初めてトルガに出会った時、ファーリアイはトルガにこの山を去れと警告した。ツェレンという足手纏いがいたからそうせざる負えなかったといえばそれまでだが、ファーリアイは本当にトルガに留めを指すことをしたくなかったのではないだろうか。結局、今回の戦で戦うことになったけれど、そう感じたのだ。


 シドゥルグはファーリアイの心中のことは否定しなかった。おそらく彼にも心当たりがあったのだろう。


「今でも、夢に見る。兄を殺さなかったことをどんなに悔やんだか。……どちらにせよ、後悔していた」


 俯くツェレンの傷ついた頬にシドゥルグが触れた。ツェレンは驚いたように見上げると、シドゥルグは穏やかに笑んでいた。


「お前が無事でよかった」

「わ、私も、あなたが生きていてよかったと思います」


 思わず顔を下に向けて逸らしてしまった。気恥ずかしくて頬が熱い。顔を下に向けたことによって、シドゥルグが持っていたそれに気づいた。


「それ、持っていてくれたんですね」

「起きたらこれがあったんだ。お前が作ったのか?」

「はい、私が刺繍したものです。あなたに贈り物がしたくて。何を贈ろうか考えたのですが、それで、その模様をあなたに差し上げます」

「これを?」


 ツェレンは円満の笑みで頷いて、シドゥルグの手元の布を広げた。


「この模様は長寿の花の模様です。それに少し手を加えて、一族繁栄を願うものにしました。牙の模様は狼を、そしてこれは勝利を意味する模様で……」


 ツェレンが意気揚々と一つ一つの模様を指差して説明する。悩みながら、シドゥルグが喜んでくれるか不安になりながらも針を通したものだ。説明をしながらシドゥルグを盗み見ると彼は感心したような表情をしていた。


「見事なものだな」

「本当ですか! よかった、頑張ったかいがありました」

「なら、何かお返しをしなくちゃいけねぇな。ほら、お前にこれをやる」


 シドゥルグは自分の腰に下げていたそれをツェレンに差し出した。よく使いこなした革の鞘に包まれたシドゥルグの愛用している短剣だ。


「これ、シドゥルグ様の短剣じゃないですか」

「そうだ。クルムズの若者は一人前になったら、自分の短剣を作る。刃はダマスカス鋼で作られているものだ」

「ダマスカス……って貴重な金属じゃないですか」


 実家の近所には鍛冶屋がある。その親方がダマスカス鋼について教えてくれた。王族や名のある将軍が扱うとされる貴重な鉱石で、武器として加工するのには難しいが、腕のいい鍛冶屋がつくれば一級品の武器ができるらしい。ツェレンはまさか、自分の身近にそんなに貴重な鉱石でできた武器があるとは知らなかった。


「わずかだが、クルムズの山でも採れるんだ。場所は族長と守人しか知らない。……この短剣は、俺の父が使っていたものなんだ」

「な、なら尚更受け取れません。大切な形見じゃないですか」


 返そうとツェレンが短剣をシドゥルグに渡そうとするが、それをシドゥルグは押し戻した。


「いいからもっておけ。俺は自分が一人立ちした時に作ったものがある」


 押し戻されたツェレンはおずおずとそれを受け取り、鞘から引き抜いた。短剣の刃は美しい銀色をしていて、よく見れば木目のような紋様が広がっている。


「綺麗な刃……」

「この短剣は、クルムズの者にとって命と言ってもいい」


 ありがとうございます、とお礼を言うためシドゥルグを見上げた。それに覆い被さるようにシドゥルグは言葉を続けた。彼はどこか落ち着きがなく、顔を逸らし、頭をかいた。


「その、なんだ。番のいない若者は、意中の者に自分の短剣を渡す。そうすることで、自分の心を相手に捧げると……そう示すときに使われることもある」


 シドゥルグの言わんとしている言葉が何なのか良くわかる。彼の気持ちが伝わってじわじわと気恥ずかしさや歓喜の感情が込み上げてきて、顔が熱くなる。まともにシドゥルグのことを見られず、目線を下ろした。


 そうしていると、突然体が浮き上がった。その反動に驚いて声を上げた時には、ツェレンの体はシドゥルグの腕の中で、彼に高く抱き上げられていた。


「なんだ? お前、照れているのか?」

「だ、だってこれまでそんなこと言われたことがないのに、急に言われると思っていなかったから!」

「ははは! 林檎みたいに真っ赤な顔をしているぞ」

「笑わないでくださいよ! なら返します!」


 ツェレンが短剣をシドゥルグにつき返そうとすると、たくましい腕の中に包まれ、胸元に閉じ込められた。彼の心臓の音がする。


「いいから、持っておけ。俺の心はお前のものだ」


 声が漏れそうになって、唇を硬く閉ざした。そっと、シドゥルグを見上げた。


「……はい。あの、なら私の心も、あなたに」


 ツェレンは自分の顔をシドゥルグの顔に近づけた。影が重なる。

 心臓はうるさいほど高鳴っていた。ツェレンは知らなかったが草原は静かだ。風が吹いて、若草が揺れただけ。


 ツェレンはそのことを知らない。目の前にシドゥルグしか映っていなかった。

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