9-2

 日が落ち、まもなく夜がやって来る。空は紫色に染まり、夜闇の色を濃くしつつある頃。

 マヴィの集落の前に何人かの兵が見張り台に立っていた。火を打って松明を燃やし暗がりの草原に耳をすませている。


 とてつもない速さで駆けるそれに気づいたのは、それがだいぶ近寄って来てからだった。音に気づいて、何が近づいて来るのか、兵はそちらを見る。


 その輪郭が何の形をしているのかがすぐにわかり、見張り台の下にいる仲間へ声をかけた。兵達はそれらに駆け寄る。駆けて来たのは、数人の狼獣人だった。彼らが兵達のいるところへ辿り着くとその場に崩れるように倒れ込んだ。突然のことに兵達は驚き声をかける。彼らがクルムズの一族であることは分かっていた。


 彼らはずっと草原を駆け続けていたのだろう。着物はひどく汚れ、目に見えて疲労している。この様子ではまともに飲み食いもしていないだろう。そんな中、身をもう一度起こした狼獣人の女が声をかけた。


「族長に、シドゥルグ様に会わせてください……」


***


 マヴィの集落に滞在していたシドゥルグはクルムズの狼獣人が尋ねて来たことを聞きつけ、彼らが担ぎ込まれた天幕へと入った。


「ファーリアイ!」


 そこに寝かされたファーリアイの元へシドゥルグは近寄った。ファーリアイは一度身を起こそうとするが、シドゥルグが手で抑え込み「寝ていろ」と制した。


「どうした、何があった?」


 ファーリアイ達が異様な様子でマヴィまでやって来たことは、何かよくないことがあったのだとシドゥルグは気づいていた。ファーリアイは途切れた息の中「申し訳ございません……」と呟く。その声は弱くも悔しさや怒りが滲んでいる。


「ツェレン様が、トルガに連れ去られました。彼らはサル族と手を組み、我々の一族もマヴィも支配するつもりです」


 ファーリアイの報告にシドゥルグの後ろで控えていた狼獣人たちが動揺し、あちこちで話声がした。シドゥルグもわずかに表情に動揺した様子を見せた。


「一体、お前は何をしていたんだ。詳しく話せ、被害はどうだ、ツェレンは無傷なのか? 死人は──」


 シドゥルグがファーリアイを質問責めをしようとしているところへ、彼の肩を叩いて引き止める者がいた。振り返れば、顔のほとんどを髪と髭で隠した男がいる。ツェレンの父であり、マヴィの族長のヴォルカンだ。


「シドゥルグ殿。まずは、彼女達の手当てと休息が優先です」

「だが!」

「ハカンはすぐにあの子に手出しすることはないでしょう。まず彼女達に休息を。その間我々は何ができるか共に考えましょう」


 言い諭すように言うヴォルカンにシドゥルグは歯軋りをし、部下達に手当てを世話を指示した。


「……ファーリアイ、このことは追って沙汰をする」

「はい、承知しております」


 シドゥルグの言葉に、ファーリアイは体を横たわらせたままそう返した。叩頭の代わりに彼女は瞼を伏せた。


***


 夜が更けても、シドゥルグとヴォルカンらは眠らず話を続けていた。ファーリアイと共にやってきた若い狼獣人が少し体を休めたのち、事情を説明するためヴォルカンの天幕へやって来た。


 彼はファーリアイ達に合流する直前、ツェレンを見たという。シドゥルグと狼獣人たちは集落で起きたことを知った。トルガ達に集落を襲われ、ルフィンを斬られ、これ以上の被害を出さないようツェレンは彼らに自らついていくと決めた。ファーリアイ達数人は先にトルガ達を追ったが、トルガ達ではなく、シドゥルグの元へ向かうことに変更したのだ。たった数人ではツェレンを取り返すことはできないと、ファーリアイが判断したのだ。


 その若い狼獣人は後発としてファーリアイ達を追ったという。彼はファーリアイに合流し、残りの狼獣人達はツェレン奪還すべくトルガを追った。遅れて集落を出た戦士達から連絡がないことを察するに、失敗したのだろうと彼は考えていた。


 報告をシドゥルグは落ち着かない様子で聞いていた。突如立ち上がってみたり、八つ当たりをするように床を蹴ったりする。苛立つ族長にジハンが呆れた様子で声をかけた。


「族長、頼むから落ち着いてくれ」

「これが落ち着いていられるか!」

「俺に当たらないでくださいよ。あんたがそうやってるところを見せられるこちらの気持ちを考えてくれ」


 ジハンが宥めてみるが、シドゥルグの苛立ちは治らない。シドゥルグはヴォルカンに向き合った。ヴォルカンは色鮮やかな絨毯の上に座り込み、黙り込んでいる。


「ヴォルカン殿、ここは先手を取るべきだ」

「先ほども申し上げた通り、ハカンはツェレンだけでは満足しないでしょう。狙いはマヴィと、クルムズの山。しかしそれを手にいれるためには人質が無事でなくてはいけない。彼らは貴重な交渉材料を手に入れた。ならば、我々の考えうる最悪の事態は起きていないでしょう」


 ヴォルカンは言葉を続ける。


「これは、我々とあなたを誘い込む為の罠です。ここでやつらはあなたを殺すつもりでしょう。彼らはツェレンを返す気はないし、マヴィへの襲撃も止める気もない。我々が焦れて先に動くのを待っているはず。ここは何も動かず、あちらの動きを様子見るのが良いでしょう」

「自分の娘を見捨てるつもりか」


 シドゥルグの唸り声が天幕に響く。何人か成り行きを見届けていたマヴィの男達が怯んで腰を上げかけた。


「いいえ。一族を担う者としての判断です」


 ヴォルカンはきっぱりと答えると、シドゥルグは彼に飛びかかる。ヴォルカンの着物の袂を掴み、顔を近づけ睨みつける。素早く止めたのはジハンと彼の部下達だ。シドゥルグの腕を抑え、止める。


「お前を見損なったぞ」


 しばらく睨み合い、シドゥルグはヴォルカンを放す。そのまま、天幕の外へ出ていく。


「族長!」

「ついてくるな!」


 シドゥルグは部下達に吠え、一人外へ出て行った。夜更けであるが、辺りはクルムズとは様子が違う。気温はこちらの方が暖かいはずだが、木々がなく、景色が寒く感じる。さわさわと木々の葉が風で揺れる音はなく、ただ乾いた風が吹く。──この土地でツェレンは生まれ育ち、クルムズの山へやってきた。


 こうして風の匂いを嗅いでいると、ツェレンの存在を遠くに感じた。これが、彼女を育てた風だと思うと、その匂いの中にツェレンの存在を探そうとする。


「シドゥルグ様」


 ふいに横から声をかけられた。そこにはまだ疲労の取れきっていないファーリアイがいた。


「休んでいなくて大丈夫か?」


 シドゥルグの問いにファーリアイは首を横に振った。


「ツェレン様のお立場を考えれば、たいしたことはありません」


 もし、後に集落を出た者達と合流すればツェレンを連れ戻すことができたかもしれない。ツェレンを好ましくないと思っていた者がいることは分かっていた。しかし、それを説得することができなかった。あそこで団結できていればと、ファーリアイは悔やんだ。


「……他の戦士達と合流できていれば……」

「トルガを甘く見るな。あいつの強さは、俺たちが一番分かっているはずだ」


 シドゥルグの言葉にファーリアイは苦笑した。


「トルガに勝つことができたのは、あなただけでしたね」

「それもたった一回だけな。今思えば、あれもまぐれかもしれない。……次はどうなるか分からん」

「何を弱気なことを……あなたはクルムズで一番強い戦士ですよ」

「ああ、クルムズではな」


 皮肉に聞こえるシドゥルグの言葉にファーリアイは閉口した。しばらく、二人は無言になり、代わりに風が吹く。


「……それでも」


 ファーリアイは彼の言葉に耳を傾ける。


「ツェレンだけは譲ることはできない。あいつはもうクルムズの女だ。……共に帰るぞ、ファーリアイ」

「はい、お供いたします」


 ファーリアイはシドゥルグの言葉に強く頷いた。それに応えるように、シドゥルグも頷いて見せた。二人は互いに決意し合ったことを確認する。

 

 そして翌朝。ヴォルカンの読み通り、サルから使者がやってきた。

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