1-3
ツェレンの怒りをぶつけられたファーリアイは災難だった。しかし、ファーリアイは少しも嫌な顔をしなかった。穏やかに笑みを浮かべてツェレンの着替えを手伝い、顔を洗う桶を運んだ。
「こんなことってある!? クルムズではこれが当たり前なの!?」
「まぁまぁ、落ち着いてくださいませ」
シドゥルグは結局姿を現さなかった。それどころか、昨晩彼は寝屋を別のところに移しそこで寝たのだという。ツェレンにとって、屈辱的な思いをさせられた。夫婦は寝屋を共にするものだと教えられた。しかし、彼は来なかった。好かれていないことは分かっていたけれど、ここまで毛嫌いされると腹がたった。
「結婚して、初っ端から寝屋を別にする夫婦なんて! いくらなんでもバカにしているわ!」
乱暴に脚衣の帯を締め、刺繍の施された着物を着た。これらはツェレンが仕立てたものだった。マヴィの女性は自分で仕立てたり、刺繍をした服を花嫁道具と一緒に持っていく習慣がある。
「あの人は今どこにいるの? 直接文句を言ってやる!」
ツェレンの勢いは治らない。着替えを済ませると部屋を出てずんずんと廊下を突き進んだ。その後ろを慌ててファーリアイが追いかけた。彼女はツェレンより素早く走り、音も立てず目の前にするりと立った。その素早くしなやかな動きにツェレンは一体何が起きたのかと目を瞬かせた。
「お待ちください、ツェレン様! まずは落ち着きましょう?」
「お、落ち着いてなんかいられないわ! あの人の態度がクルムズの礼儀なの?」
その言葉にファーリアイは「それは……」と言い淀む。その間にツェレンは彼女の横を通り抜け、廊下を突き進み外に出た。
シドゥルグの姿はすぐに見つけられた。門の前で部下らしき男と何やら話し込んでいる。ツェレンはそれに構わず声をかけた。
「ちょっと! 昨日はどういうつもりですか!」
ツェレンの声がのどかな朝の空気を裂くように響く。その声にシドゥルグとそれまで話していた部下がそちらを見る。
「なんの話だ」
「心当たりがないなんて言わせませんよ!」
ツェレンはシドゥルグの前に立つ。ツェレンは彼を見上げる状態になる必要があった。こうして近くで向き合うと彼は迫力がある。しかし、ツェレンの怒りはそんなことで治らない。
シドゥルグの後ろで、部下の男がにやにやと笑っていた。
「族長ぉ、新婚一日目からもう夫婦喧嘩ですか」
「うるせぇ! さっさと行け!」
シドゥルグが大声で怒鳴る。しかし、部下は慣れているのかちっとも怯んだり怯えたりする様子はなく「へいへい」と適当な返事をして門から出て行った。それを睨みつけて見送ったシドゥルグがツェレンを見下ろす。
「で、なんなんだお前は」
「私たちはもう夫婦だというのに、なぜ寝屋を別にするのですか。答えによってはマヴィ族への侮辱と受け取りますが!」
ツェレンは声を荒げて言うが、それに対してシドゥルグは面倒そうに息を吐いて自分の首を指でかいた。
「便宜上夫婦になったが、お前はまだ子供だ。この婚姻がどういう意味を持っているのか、知らずに嫁いだわけでもないだろう」
「分かっています! マヴィとクルムズの同盟のため、親交をより深めるために……」
「そうだ、その通り。お前んとこの一族は俺たちの力が必要なわけだ」
東の草原“人”のマヴィ族は、広大な草原を縄張りとしている。草花がよく生い茂り、家畜の食べ物が豊富な上に、土もよく肥えて農業も盛んだ。
さらに、マヴィ族の特徴としてその手先の器用さがあった。針と糸を持たせれば美しい模様の刺繍が施された衣類や装飾品を作り上げる。金槌を持たせれば鍛治をして、農具から武器まで作る。特に武器は名前の通った職人のいる鍛冶場があり、その技術は大陸によく知られている。
土地にも人にも恵まれたマヴィの欠点は、戦力に乏しいところだ。村を守る役割の者はいるが、戦となればとても太刀打ちできない。
ここ数年、マヴィ周辺は何かと物騒なことが起こり続けている。周辺の集落を襲い領土を広げる一族もいれば、盗みや強盗を繰り返す盗賊の事件も聞く。
マヴィも襲われることは十分考えられる。そこで、ヴォルカンは北の山“狼”のクルムズ一族に同盟を持ちかけた。クルムズの戦力を得る代わりにマヴィ族は装飾品や武器、そして族長の娘ツェレンを差し出したのだ。
「つまりは、お前は俺たちへの捧げ物というわけだ。俺がそれをどう使おうが勝手なことで、お前は指図する立場ではない」
「ですが、私はあなたの妻です!」
「俺の妻がこんな子供とはな。虫唾が走る」
「そんな言い方しなくても……!」
ツェレンは怯まず反論した。しかし、シドゥルグは無視した。ツェレンから視線を外し、彼女の背中向こうに声を投げる。
「ファーリアイ!」
「はい、ここにおります」
後ろでそっと控えていたファーリアイが立ち上がり答える。
「こいつから目を離すなと命令したはずだ。部屋に連れて行け」
「申し訳ございません。すぐに」
ファーリアイは速やかにツェレンの肩に触れ「行きましょう」と促した。まだ言いたいことはいくつもあった。しかし、ファーリアイに促され、結局その場を去ることしかできなかった。彼の姿が壁に隠れて見えなくなるまで、ツェレンは後ろを振り返り、睨み続けた。シドゥルグは一度もこちらに顔を向けることはなかった。
***
部屋に戻ってもツェレンの怒りは治らなかった。刺繍の入った枕を力任せに投げつけて八つ当たりした。
「ほんっと! 最低なやつ!」
投げつけた枕は寝台の縁にあたり、そのままずるずると床に落ちた。ファーリアイがそれを拾い土埃を払ってそっと寝台の上に置き直した。ツェレンを心配そうに見つめた。
「なんなのアイツ……! いくら一族の中で一番偉いからって、あんな言い方していいわけがないじゃない!」
「ツェレン様、お気持ちはよく分かりますが……」
ファーリアイは言葉を選びながら慰めようと声をかける。ふと、ツェレンが下を向いたので、もしかして泣くのではないかと思ったのだ。
しかし、ツェレンはパッと上を見上げ、投げやりに「あーあ」と声を漏らした。泣いてはいないようで、ファーリアイはこっそりと胸を撫で下ろした。泣かれるよりも、存分に怒りで八つ当たりされた方がずっと気が楽だ。
「まさか自分の旦那様が、あんな自分勝手な人だなんて。思いもしなかった」
「そうおっしゃらないでください。あれでも、我々にとっては良い長なのです」
「……気を悪くした? 私があんまり悪口を言うから」
さっきの怒りの勢いがみるみると萎れて、ファーリアイの様子を伺うように聞いた。その様子がおかしいからか、ファーリアイは声に出して笑った。
「いいえ、ちっとも。むしろ正直におっしゃっていただいた方が私は好ましく思います」
「本当? ならよかった」
ツェレンは安心したように微笑んだ。
「ツェレン様がお怒りになるのは無理もありません。族長の態度も言い方も、マヴィ族を軽視されていると思われても仕方のないことです。ですが、族長はツェレン様を気遣っておられるのですよ」
「どういうこと?」
ファーリアイの言葉にツェレンは訝しむ。
「恐れながら申し上げますが、ツェレン様はまだお身体が成熟しきっておりません。これから背も伸びるでしょうし、身体にも変化がありましょう。ツェレン様は、シドゥルグ様のお身体を見てどう思われましたか?」
「え? うーん……そうねぇ」
突然の問いにツェレンは考え込む。頭の中でシドゥルグの姿を思い浮かべながら答えた。
「まず、全身が毛むくじゃらで、尻尾があって……それから、筋肉がよくついててすごく身体が大きい」
「はい、そうです。シドゥルグ様は一族の中でも身体が大きな方です。村の中で一番強く、体力のある狼獣人です。その分、ツェレン様とは体格差がございます。ですので、ツェレン様にご負担をかけたくないのだと思いますよ」
「ご負担?」
ツェレンは首を傾げたが、ファーリアイはただ微笑むだけでそれ以上説明をしようとしない。どういうことかしばらく考え、ツェレンは顔を真っ赤にさせた。ファーリアイの言っている意味が分かった気がした。
ツェレンの様子にファーリアイは苦笑を浮かべた。
「どちらにせよ、ツェレン様が御子を妊娠するにはもう少し、お体が成熟されてからの方が良いでしょう。今は、よく食べよく働きよく眠って、日々健やかにお過ごしになられるのがお勤めだと思いますよ」
ファーリアイの言葉にツェレンは何も返答しなかった。顔が熱いのを手のひらを当てて冷やしながらも、それでもまだ不服を感じていた。
族長の妻といえば、母が思い当たる。母は家事や育児をしながら、父の仕事の手伝いをしていた。ツェレンにとって両親は理想の夫婦であったし、自分もそうでありたいと思っていた。
しかし、シドゥルグは自分を子供扱いしてまるで妻として扱ってくれない。むしろ、邪魔者扱いしているようにさえ思える。
妻として扱ってくれないのなら、私は一体なんのためにここへ来たのだろう。
あの人が言うように、ただ一族同士の繋がりを得るために嫁いだのだろうか。
ツェレンの思いは、ため息となって宙に消えた。
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