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狼獣人の侍女に連れられて、湯浴みを済ませ、別室に移動したツェレンは花嫁衣装に着替えた。着替えを何人かの狼獣人の女たちに手伝ってもらい、何枚もの着物をどんどん着込んでいく。
何枚も着るからキャベツのようだと、着る前から思っていた。着物を一枚着るごとに重みが増す。それでも美しい刺繍が一面に施された衣装を着られることがツェレンは嬉しかった。花嫁衣装は自分が仕立てから刺繍まで行ったものだ。この刺繍は家族やお世話になった人、たくさんの人が針を通してくれた。その分想いの詰まった衣装だ。できるなら、針を刺してくれた人に着ているところを見て欲しかった。この衣装に袖を通す日を、ツェレンは不安もあったが楽しみでもあった。
しかし、それは出発前の話だ。今は杞憂の色で表情は凍りついている。
シドゥルグのあの言葉。決して歓迎されるようなものではなかった。怖い人だったらどうしようと不安だったが、いざ対面し、あんなことを面と向かって言われると不愉快だった。
「……ツェレン様、笑ってください。今日は喜ばしい日なのですから」
見かねた侍女がツェレンの顔を覗き込んで言う。着替えを終え、彼女はツェレンの三つ編みを解き、髪を解かす。
「そうは言っても……ええと」
「ファーリアイです」
先ほど教えられた侍女の名前をもう一度教えてもらう。
「そう、ファーリアイ。あんなこと言われるとは思わなかった。私のこと子供だって! いくらなんでも、初対面なのにあんなこと言うなんて失礼だと思わない?」
ツェレンはたとえ彼女の族長であっても遠慮なく言わせてもらった。話しているうちにだんだんと怒りが込み上げてくる。怒るツェレンにファーリアイはカラカラと笑った。
「そりゃあ、シドゥルグ様はツェレン様より幾つも年上ですもの。幼く見えてしまうのは致し方ございません」
そうは言われても。ツェレンは子供扱いされることが不服で、口を尖らせる。そんなツェレンの肩を撫でながらファーリアイは慰める。
「ご心配しなくとも、もうあなたはシドゥルグ様の奥方様。私がこの命にかえてでもあなたをお守りいたします」
ファーリアイは力強く言った。彼女は今後、ツェレンの身の回りの世話や護衛をしてくれる。
ファーリアイもツェレンよりも体の大きい。狼獣人は“人”より体が大きいようだ。
毛は茶色混じりの灰色で、目は黄色い瞳をしている。彼女も戦士らしく、体は男の狼獣人と比べてしなやかだがよく鍛えられており、腰の帯に剣の鞘が吊られている。ツェレンの肩に触れた手も大きいものだった。女性でも逞しく、生命力に溢れた人だとツェレンは思った。
ファーリアイに髪を結ってもらい、化粧を施される。そうするともうすっかり花嫁気分だった。頭も体も重く、この格好では走り回ることはできないなと、呑気なことを思っていた。
婚礼の儀はツェレンが拍子抜けするほど淡々と進んだ。先ほどまでの緊張はなんだったのだろうと思うほどだった。
宣誓を終えた後はシドゥルグの隣に並んで座り、賓客とともに食事をする。空腹というほど腹は空いていないため、目の前のご馳走にはほとんど手を出さなかった。緊張して喉に通らない。通ったとしても、腹に締めた帯紐が苦しくてそこでつっかえそうだ。
周囲の狼獣人達は酒や食事を前に賑やかに騒いでいる。その光景は圧巻だった。ツェレンはこれまで獣人とこれほど深く接したことはなかった。“人”の集落で生まれ育ってきた。近隣には獣人の一族も暮らしているが、深く話し込んだりすることはなかった。それでも、酒や料理を楽しむ様子は“人”とそれほど変わらない。
時折、挨拶にやってくる客が来るので、声をかけられれば笑顔で応対した。
知らない狼獣人に声をかけられ、話している間はまだいい。あまり話したことのない獣人でも、怯むことなく応対した。それ以外の時間が苦痛だった。シドゥルグは一切喋らない。ただ、賓客達と話し、時折酒に口をつけ、食事に手を伸ばすだけ。ツェレンに一言も話しかけたりしない。ツェレンが話しかけようとするが、その重たい空気に、何も話すなと言われているようで、ツェレンは口を閉じざる終えなかった。
マヴィの婚礼はこんな感じじゃなかった気がする。大人達が飲んだり、大勢で食事をしたりというのは変わらない。それでも、新しい夫婦は時折目を合わせ、談笑したりしていた。……これはクルムズだけなのだろうか? ……いや、きっと違う。私が“人”だからなのだろう。
ツェレンは寂しいような、腹が立つような気持ちでただそこに置き物のように座っていた。
ただじっと座り、時折客に話しかけられ、少しだけ酒を口に含み──長時間そうしていると、自然と瞼が重くなってくる。つい、うとうととしてしまう。ほどよく酒が体に廻り、体が熱くなってきた。
「ファーリアイ」
隣に座るシドゥルグが久しぶりに口を開いた。その声にツェレンははっとして顔を上げた。
「こいつを連れて先に休ませろ」
「はい」
簡単なやりとりの後、ファーリアイがツェレンの後ろに周り、手を差し出してくれた。
「さ、行きましょう」
「うん……」
頭も体も重たいため、ただ立ち上がるだけでも一苦労だった。よろよろと立ち上がり、ファーリアイに付き添われながら宴会場を後にした。そのまま屋敷の廊下を歩き、寝屋まで連れて行ってくれた。髪飾りをとり、刺繍の施された衣装を脱いで腹に閉めた帯紐を緩めると、心地よい脱力感を全身に感じた。
このまま寝台に倒れてしまいたい。その真っ白な寝台に誘惑されながらも、どうにか化粧を落とし、衣装を脱いで寝衣に着替えた。柔らかい麻の寝衣姿になるとやっとで、その魅力的な寝台に横になった。そうすると、天井が揺れているような体がふわふわ浮遊感のようなものを感じた。どうやら酒に酔っているらしい。
「ずいぶんお疲れのようですね。お酒はどれくらい飲まれたのですか?」
「本当に少しだけ。勧められた時、口に少し含む程度。でもこっちのお酒ってとっても辛くて、すぐ酔ってしまうのね」
「そうかもしれませんね。クルムズは辛党が多いですから。……今のツェレン様にはこちらの方がいいでしょう」
ファーリアイが何かを注いで持ってきてくれた。透明色の水だが、匂いを嗅ぐと柑橘や苺などの果物の香りがほのかにする。果実水のようだ。口に含むと、味は薄いが、飲み込んだ後にほどよく風味が残って口の中が爽やかになる。少し香草が入っているようで、後味に独特な風味を感じた。
「美味しい……」
「お口に合ったみたいで良かった。もうしばらくお休みになっていてください。いずれ、シドゥルグ様も戻られると思いますから」
「うん、ありがとう。ファーリアイ」
お礼を言うと、彼女はにこりと笑ってから一礼し部屋を去って行った。
ファーリアイが去るのを待って、ツェレンは長くため息をついた。心地よい開放感が眠気を誘い、目を閉じると意識が遠のく。呼吸をすると、まだ口の中に果実の爽やかな香りが残っていて、先ほどまで感じていた緊張がほぐれた。
どれくらいそうやって過ごしていただろう。このまま眠りそうになっていると、ツェレンは何かに気づいてハッと飛び起きた。
この後、何をしなくてはいけないのか。そのことを思い出したのだ。
嫁いだ初日の夜。妻と夫が何をするのかを母は教えてくれた。なぜそれをしなくてはいけないのか、どういう仕組みなのかを植物に例えてとても分かりやすく教わった。ツェレンは初めてその話を聞いた時、衝撃的すぎてその晩の夕食が入らなかった。翌朝にはいつも通り朝ご飯を食べたが。
マヴィの一族の女は子を成して初めて妻として女として一人前と認められる。──認められるようにしなくちゃいけない。
不安もあるし、恥ずかしさもある。しかし、自分がマヴィを担っているのだとツェレンは一人寝台の上で意を決した。いつでもかかってこい、そんな気持ちで構えていた。
しかし、待てども睨みつけた扉はぴくりとも動かない。遅いなぁ、宴会長引いているのね。とツェレンは故郷の婚礼の宴会を思い出してあくびを一つする。
マヴィの婚礼の儀式は、村や周辺の住民たちを集め、大勢で楽しく食事をする。お祭りのような騒ぎになるし、美味しいものを食べられるからツェレンは大好きだった。私が結婚する時もこうやってみんなと楽しく食べたり踊ったりするのだと幼い頃夢見たことが懐かしい。
……ふと目を開けた。窓からは日差しが差し込み、鳥の鳴く声が微かに聞こえる。
いつの間にか朝になっていたようだ。いったいいつから眠っていたのか分からない。辺りを見渡したが、誰もいない。広い寝台はツェレン一人だけが寝返りを打った跡しか残っていなかった。
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