春の弔い
涼山李々
1. 輿入れ
1-1
ツェレンは後ろを振り返った。振り返ったのはこれで何度目だろう。もう、マヴィの草原は見えないと分かっている。それでも、振り返らずにはいられなかった。
末の弟は、泣き止んでくれただろうか。結局あの子は、一度も笑顔を見せてくれなかった。ずっと泣いてばかりで、母の膝に顔を埋めたまま、とうとう最後まで顔を上げてくれなかった。
──ねぇね、行かないで!
悲痛な泣き声が耳から離れなかった。弟の声を思い出せば、自然と家族のことも一緒に思い出される。
妹は悪戯っ子だが、歳が十を超えてから頼もしくなった。ツェレンがいなくとも、きっと母の助けになってくれるだろう。母はお転婆なツェレンが何かヘマをしないかと心配していた。それと対照的に父はいつも通りの様子だった。
家族の顔を思い出すと、マヴィが恋しくなってくる。乾いた風の吹く草原がもう懐かしい。
ツェレンは涙をぐっと堪えて上を見上げた。マヴィを出てからもう何度もそうしていた。被り物の薄い布の網目からキラキラと光が漏れている。
冷たい風が吹いた。その風がツェレンの込み上げた涙を乾かした。春とはいえ山岳地帯はまだ寒く、山の頂上を見上げれば白い雪が深く積もっている。捲れた布の隙間に、眩しい緑の高原が広がっていた。
東の草原“人”のマヴィ族。族長であるヴォルカンは長女ツェレンをクルムズ族の族長へ嫁がせることにした。
北の山“狼”のクルムズ族。彼らは狼獣人の一族である。狼獣人は“人”の一族と容姿が異なり、全身に毛が生え、顔も狼に近い顔つきをしている。“人”と比べ体は頑丈で、力も強い。戦士の獣人種として大陸に名を馳せている。クルムズ族も戦士の一族として有名である。
ツェレンの夫となるのは、クルムズ族の族長、シドゥルグという男。ツェレンは彼がどんな人なのか知らない。今まで一度も会ったことがなかった。昔、マヴィの草原を訪ねてきたことがあるらしいが、ツェレンは全く覚えていない。他に聞かされているのは、十近く年上ということだけだった。
ツェレンの胸の内は不安でいっぱいだった。その不安が表に溢れ出してしまいそうになったら、息を止めて必死に耐えていた。
一体どんな人だろう。怖い人だろうか。狼獣人って戦士の一族と有名だが、凶暴ではないだろうか。その族長ならば、さらに恐ろしい人だったりしないか……。考えは止まらず、考えれば考えるほど不安が心に広がった。
ツェレンの不安を感じ取ったのか、乗っている馬がいなないて歩みを止めた。ツェレンと馬を引いていた同郷の男が宥める。
「大丈夫、大丈夫よ、エルマ。お前も不安なのね」
周りに聞こえないよう小声で声をかけながら彼の頭を撫でてやる。こうされることでエルマは落ち着く。
エルマは唯一連れてきたツェレンの家族だ。穏やかな性格だが、草原を自由に駆けていた馬だから、慣れない環境にどこか落ち着きがなかった。
きっと、今の私と同じ気持ちなのでしょうね。ツェレンはエルマの鹿毛色の体を撫でながらそう思った。
***
クルムズ族が住まう山は、草原と荒地の広がる低地と針葉樹の森がある大きな山で、東西に連なる白銀山脈の一部にあたる。
山の南東側から山を登り始め、岩肌の見える山道と名残雪の残る美しい高原を登り続けた。やがて針葉樹の森へと入り、山間にあるクルムズの村へとたどり着くことができたのは、草原を出て七日経った正午前のことだった。
クルムズの建物は、マヴィと違う作りのものだった。マヴィの家は煉瓦や天幕だが、こちらでは木の家がほとんどのようだ。木々に恵まれているためだろう。
マヴィの花嫁一行を小綺麗な格好をした狼獣人達が整然と並んで取り囲んだ。麻でできたくすんだ紅色の上着。刺繍はなく、代わりに色とりどりの石飾りを身につけている。彼らは恭しく、膝を折って首を垂れた。
「ツェレン様、長旅お疲れでございました。屋敷で族長がお待ちです」
とうとうきた。ご対面だ。
ツェレンの緊張は最高潮に達していた。ツェレンは幕のなかで大袈裟に頷く。嫁ぎ先の族長と対面するまで、誰にも顔を見せてはいけないと言われている。声も発してはいけないと言われたのだ。
今にも飛び跳ねて落ちてしまいそうな心臓の音を聞きながら、ツェレンはエルマに乗って屋敷へ向かう。
道中は、狼獣人の一族が家から出て花嫁行列を見守っていた。歓迎、というよりも奇異の目で見られているように感じた。きっと、彼らにとって“人”は物珍しいのだろう。その目線の雨にツェレンの緊張はさらに高まる。
やがて、族長の屋敷が見える。他の家と比べて立派な建物だった。石を積んだ門や庭まである。家自体は平たい二階建ての家屋で、白い壁をしている。庭には花壇があり、大きなポプラの木が生えている。家畜を飼っているのか、動物小屋の屋根が建物の影に見えた。
手を差し出され、エルマから降りた。そのまま、ゆっくりと屋敷の中に入る。入るとすぐ部屋になっていて、天井は見上げるほど高く広い。しかし、ツェレンは質素な部屋だと思った。ツェレンの家は、絨毯や模様の入った刺繍布を床や壁一面に貼り付けて飾っていた。この屋敷にはその類のものはひとつもなく、床板は剥き出しのままだった。なんて寂しい部屋だろう。声にはしないがそう思った。
その部屋の中央付近の椅子に座る人影があった。今日見た狼獣人の中で、一番大きい人だった。彼がシドゥルグだろう。
体はツェレン二人分面積がある。ふくよかというわけではなく、よく鍛えられた筋肉質な体だということが毛で覆われていてもよく分かる。毛はごわごわしていそうな灰色に近い銀色をしていた。その体を、真紅と黒の着物で身を包み、革の胸当てをつけている。腰には剣や短刀を吊っているらしく、その柄が垂れているのが見えた。その後ろに大きな尻尾の影が見える。
目は緑色だった。その目が入ってきた集団を見据える。ツェレンはその目を見て、怯んで一度足を止めた。本当に狼の目のようだ。しかし、このまま逃げるわけにもいかず、促されるままその部屋に入り、そっと椅子に座った。
そうすると、それまでツェレンを連れてきた狼獣人も、共に旅をしてきたマヴィの人も、部屋を出て行った。残されたのは、向かい合うシドゥルグと、ツェレンのみ。
……このあと、私どうしたらいいの?
ツェレンは戸惑った。教えられたのは、夫と会うまで決して被り物を取ってはいけないこと。できるだけ話さないこと。これぐらいだ。
この後どうしたらいいのかなんて教えられていない。
「……顔を見せろ」
一瞬、低い唸り声がしたかと思った。その言葉通りツェレンは恐々と被り物を取った。
被り物を取り払った時、ツェレンの亜麻色の長い三つ編みが揺れた。前髪が垂れそうになったのを指で撫でて直し、彼女は自分の空色の目でもう一度、自分の夫を見た。
シドゥルグは少しも動かない。何も話さないし、ニコリとも笑わない。ただ口を閉ざしている。
どうしたらいいか分からず、ツェレンは頭を下げた。
「ツェレンです。……今日から、お世話になります」
そう名乗って挨拶をした。それでも、彼は何も言わない。ツェレンは内心焦っていた。何か失礼なことをしてしまっただろうか。何がいけなかったのだろう。
ぐるぐると考え続けていると、彼が立ち上がるような衣擦れの音が聞こえた。見上げるとシドゥルグは立ち上がってすでにその場を去ろうとしていたところだった。
「ファーリアイ、支度をさせろ」
シドゥルグは侍女らしき女の名前を呼び、部屋を去っていく。あの、とツェレンが声をかけようとした。
「ヴォルカンめ、まだ子供ではないか」
ツェレンの言葉をかき消すように続け様に言い捨て、彼はその場を去って行った。ツェレンは呆然と口を開けたまま彼が去った方を見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます