4.うさぎ鍋

4-1

 ひたすら針を指し続ける日々が続いた。次女のトゥアナには小物入れを、下の妹ナズにはサコッシュを作ることにした。ナズはツェレンのような帽子を欲しがったが、狼獣人は耳の邪魔になるため帽子を被る習慣がない。その代わりにツェレンの帽子に継いている飾り紐と同じ柄の肩掛け紐をつけることにした。


 久しぶりに針を持った気がする。嫁ぐ前はひたすら刺繍をし続けていたが、今ではその頃も懐かしい。まだここへ来て一月も経っていないというのに。少しの間針に触れてなかっただけなのに、腕前が落ちた気がする。最初は少し手間取った。それでも時間をかければすぐに感を取り戻した。


 小物入れの刺繍が八割ほど終わった。手を止めて顔を上げると、外が騒がしいことに気づいた。窓からそちらを見ると、シドゥルグの姿があった。部下を何人か連れ、狩りに行くらしい。

 思い返すと狩り勝負以来弓に触れていない。きっと、針と同じように弓も同じように腕が鈍ってしまうだろう。

 ついて行っていいだろうか。しかし、シドゥルグは撃たせてくれないだろう。それでも、ついていきたいという気持ちは治らない。ツェレンは針と小物入れを置き、弓矢を手にした。


 急いで外へ出て行くと、シドゥルグがすぐにこちらに気づいた。もう出発するようだった。目が合い、ツェレンはすっと息を吸って喉を震わせる。


「い、一緒に行かせてもらえませんか。今度は、邪魔しません」


 シドゥルグはしばらく考えているようだった。断られるだろうか。ツェレンは不安になった。断られたら、大人しく引き下がるつもりだった。


「……その弓は弾くなよ」

「! は、はい!」


 ツェレンはその場で小躍りをしたくなる心地がした。同行を許してくれたことがとても嬉しかった。


***


 シドゥルグは山の中へ部下達を散開させ、獲物を探させる。その間、ツェレンに山歩きを教えた。

 まずは方向の確認から、目印になるような岩や木などを一つ一つ教えた。山を歩く時、どうしたら歩きやすく疲れにくいか姿勢まで指導した。また、迷った時はむやみに動くなと言われた。そこで立ち止まり、迎えを待てと。


「でも、迎えなんてどうやって……」

「狼獣人は鼻が利く。お前の匂いを辿って迎えに行くことができる」


 ツェレンは複雑な気持ちになった。匂いを嗅がれていると思うと、恥ずかしくて嫌な気持ちだ。

 付け足して、比較的歩きやすい沢を降りるなと言われた。理由を聞くと、そういったところは降ると突然川や崖にぶち当たることがあるそうだ。ツェレンが以前崖に落ちたのも、このことを知らなかったせいだ。


 その日から、ツェレンはシドゥルグの狩りに同行するようになった。決して着いてこいと言われることはない。しかし、ツェレンが弓矢を持って着いてくることを反対されることはなかった。


 山の歩き方に慣れたら次は縄張りを教わった。山一つ分がクルムズの縄張りだが、気づくと他種族の縄張りに入ってしまっているということがあるそうだ。この辺りには熊獣人や鹿獣人などの一族が暮らしているらしい。もし無断に入れば問題になると教えられた。


 シドゥルグから教わっていると、遠くから遠吠えが聞こえた。ツェレンがそちらに顔を向けると隣にいたシドゥルグが突然それに返すように遠吠えをしたので驚いた。


「今のは何?」

「連絡だ。西の方に鹿の親子が行ったらしい」


 今の遠吠えでそんなことまで分かることにツェレンは驚き、目を張った。やや興奮気味にシドゥルグを見上げて聞く。


「そんなことまで分かるんですか? どうやって聞き分けるんですか?」

「知りたいか?」

「はい、教えてください」


 ツェレンは好奇心旺盛だった。そして、シドゥルグはツェレンに面倒臭がることなく疑問や問いに答える。ツェレンは次第にシドゥルグとの山歩きが好きになっていった。


 獲物を狩る時は、ツェレンは集団の狩りに参加しなかった。クルムズの狩りとツェレンの狩りの方法は全く違うものだ。和を乱すことをせず、ツェレンは荷物の見張りをして過ごすことにした。

 シドゥルグは狩りの時以外はツェレンと共に行動した。単に見張りのためかもしれないが、質問をしやすく、聞きやすいためツェレンは不服とは思っていなかった。


***

 

 山歩きは狩りや獲物の追跡ばかりではなく、山菜摘みなどもついでに行った。狼獣人はあまり青臭いえぐみのある山菜を好んで食べることはないが、麓の村に住む他種族が喜んで買うのだそうだ。

 月に一度ほどの頻度で、毛皮や山菜などを持って山を降り、近隣の集落や村へ売りに行き、買い物をする。この春の季節は雪解けの水で育つと言われる香草のヤイラックや、香ばしく栄養価の高いケチクの芽。黒く小さな花を咲かせるのに大きな根をつくるカラギュズなどが採れる。ツェレンはシドゥルグに教わった山菜を下げた鞄に山菜などを詰めて歩いた。


「あれ、ハヤヴァンじゃないですか?」


 沼地の付近を通ると、沼地の隅に扇のように広がった葉の群生地を見つけ、ツェレンはそちらへ向かった。シドゥルグはそれを目で追う。


「ハヤヴァン? 売れんぞそんなもの。辛くて食えたもんじゃねぇ」


 シドゥルグの言う通り、ハヤヴァンは青臭い独特な辛味のある植物だ。毒性はないため食べられないこともないが、あまり好まれるものではない。

 しかし、ツェレンは揚々と沼地にしゃがみ込んでハヤヴァンを掘り起こしている。


「それが、結構食べる人がいるんですよ。葉は塩漬けにして、根っこはすり下ろして料理に入れたり、肉や魚につけて食べると美味しいって。私もあまり好きではないんですけど、中央都の食通はそうやって食べるとかなんとか。ハヤヴァンを高値で買い取ってくれるそうですよ。噂ではこの大きさで銀一枚になるそうです」


 これは草原にいた時、旅商人に教わった話だ。ただ、ハヤヴァンは澄んだ水のあるところにしか生えないため、それなりに貴重らしい。


「ですから、高く買い取ってくれる商人を探すのがいいですよ」

「……なるほどな」


 シドゥルグはツェレンにハヤヴァンの根を手渡され、まじまじとそれを見た。独特なイボのついた薄緑色の根が銀一枚になることを信じてくれただろうか、感心したように呟く。

 もし、ツェレンに教わらなければ、このまま素通りしていた。シドゥルグもツェレンに物を教えてばかりでもないのだ。


***


 採取をしていると、ツェレンの鼻先にぽつりと何か冷たいものが落ちてきた。触れるとただの水だと分かる。それは頬や額にも落ちてきてやがて雨となって辺りを濡らし始めた。

 雨は次第に強くなっていく。すると、突然周囲が真っ暗になった。


「わっ」

「これは本格的に降るぞ、こっちに来い」


 シドゥルグの上着を頭に被せられたらしい。シドゥルグが前を走りだすのでそれについて走った。ツェレンの足に合わせて速度を落としてくれているのが分かる。

 雨はやがてひどい土砂降りへと変わった。辺りが白み、容赦なく水浸しにしていく。あまりにも強い雨に思わず声を上げた。


「ああ、ひどくなってきた!」

「早く来い!」


 ツェレンの遅い足に痺れを切らしたのか、シドゥルグが腕を引いて持ち上げ抱えた。突然抱えられたことに驚いて声が出なかった。

 シドゥルグは土砂降りの中でもどうということはないと言うふうに駆ける。その速さに驚いたが、雨が勢いよく当たるので口を固く閉ざしていた。


 シドゥルグは山の斜面に岩影になっているところを見つけ、そこでツェレンを下ろした。ここなら雨宿りができる。岩陰はかなり狭く、二人でいっぱいになる程だ。


「しばらくここで足止めだな」

「そうですね……」


 シドゥルグに下ろされて辺りを見渡す。雨の糸で周囲は真っ白だ。しかし、シドゥルグが上着を貸してくれたことでずぶ濡れになることはなかった。


「あの、シドゥルグ様。ありがとうございます」

「風邪でもひかれたら困る。チビなんだから特に体が冷えやすいだろう?」

「子供扱いしないでください」


 拗ねたように答えると、低く笑われた。シドゥルグはずぶ濡れになった胴着を脱ごうとしていた。ツェレンは慌てて目を伏せる……が、彼の上半身は毛に覆われており、ツェレンの知っているような人の体とは違った。あまり見慣れない狼獣人の上半身を思わず見てしまう。


「……なんだよ」

「ご、ごめんなさい。何でもないです」


 熱くなった顔を逸らし、そう返した。居た堪れない空気になったからか、シドゥルグは頬をかいてなにも答えなかった。その場に座ったので、ツェレンも同じように腰を下ろした。無言が続き、辺りは雨の落ちる音だけが響き渡る。

 ツェレンは目線をどこに置いたらいいかさまよい、振り続ける雨の向こうに治った。


 雨は容赦なく地面を叩きつけるように降り続ける。その無言の空気の中、口を開いたのはシドゥルグだった。


「……なぜ、俺のところへ嫁ぐ気になった」

「え?」


 ツェレンは虚をつかれたような表情をしてシドゥルグを見上げた。彼の目線は下にあった。

 目線の先には地面についたシドゥルグとツェレンの手のひらが並んでいる。毛に覆われ、鋭い爪を持つ大きなシドゥルグの手と、滑らかな肌のツェレンの小さな手は対照的だった。彼がそれを見て何を思ったのか、何となく察しがついた。


「“人”は、獣人と婚姻を結ぶのは嫌がるものだ。お前は嫌じゃなかったのか」

「嫌……とは思わなかった、と思います」


 曖昧な返答にシドゥルグは不可解な表情をした。


「どういうことだ、それは?」

「以前来た縁談は本当に嫌だったんです。でも、シドゥルグ様との縁談の話はそれと比べたら嫌とは思わなかったですし、マヴィの為になるならいいかなって」

「だが、俺は“人”とは違う姿だ。獣に近い。獣に嫁ぐことへ拒否感はなかったというのか?」

「ありませんでした」


 今度はきっぱりとツェレンは答えた。シドゥルグは意外そうにツェレンの顔を見る。


「私は狼獣人のこともシドゥルグ様のこともよく知らなかったから、嫁ぐことが不安だったのは本当です。でも、きっと“人”のところに嫁いでも同じように不安だったと思います。それに、こうしてクルムズで生活をしてみると案外私たちと変わらないんだなって思いました。生活のために狩りをして、家を建てて、営みをする。人も獣人も実を言うとそれほど変わらないんだって」


 ツェレンはいたずらっ子のように笑い返した。その笑みにシドゥルグはしばらく惚けたよう口を閉ざし、やがて納得したように頷いた。


「そうか」

「あ、もう止みそうですよ」


 雨の音が弱くなったことにツェレンは気づいて立ち上がった。シドゥルグも立ち上がる。


「ほら、晴れそうです」


 ツェレンは空の向こうを指差した。指差した先は雲が薄くなり、日差しが差し込んでいた。


「シドゥルグ様」

「なんだ」


 ツェレンはシドゥルグを見上げた。


「私、クルムズに来られてよかったと思います。知らないこともまだたくさんあるし大変なことも多いけれど……私、ここが好きです」

「……そうか」


 シドゥルグはそう答えただけだった。二人で雲が薄くなり、差し込んだ日差しを見る。

 雨は次第に小雨になって止んだ。

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