2-3
「ぐぐぐうぅ……!」
ツェレンは、その細い木の根を握りしめ、崖を登ろうとしていた。崖と言っても、硬い土の急斜面で、木の根や細い植物が生えている。手を懸命に伸ばし、頭上の岩に手をかけようとする。
「あっ、わぁああ!」
握りしめていた木の根がプツンとちぎれ、そのまま真っ逆さまに落ちてしまう。それほど高いところではないが、土埃を立てながら下へと落ちていく。
「ああ、もう!」
苛立つようにツェレンは癇癪を起こす。
ここに落ちてしまったのは半刻ほど前のこと。まだ獲物を捕まえられておらず、ツェレンは焦っていた。鹿を見つけ、追っていたのだが、足元をちゃんと見ていなかった。土があると思っていたところが空洞になっており、そのまま崖の下へ落ちてしまったのだ。
幸い、かすり傷と軽い打撲程度の怪我で済んだが、この崖を登らなくては、クルムズの集落に戻れない。遠回りしようと思えばできなくないかもしれないが、まだ山に慣れていないツェレンには厳しいだろう。
「はぁ、もう散々……」
ツェレンは崖を見上げるのを止め、その場にしゃがみ込んだ。
山の狩りは、ツェレンが思った以上に厳しいものだった。草原での狩りに慣れているが、山では環境が違う。慣れない山の中、ちょっとでも足音を立てただけでも兎や鳥なんかはすぐに逃げてしまう。こんな時、馬に乗っていれば追いつくことができるのに。……と、留守番をさせているエルマのことが恋しくなった。
そうやって悪戦苦闘していると、一頭の雌鹿を見つけたのだ。絶好の好機と言わんばかりに、身を隠しながら弓を弾いた。じっくりと狙いを定め、矢を放った。しかし、その矢は届かず雌鹿の足元に落ちたのだ。それに驚いた雌鹿はすぐに逃げてしまった。
ツェレンは矢を拾って呆然とした。まさか、自分が矢を外すなんて、信じられなかった。
もしかしたら、鬱蒼と生えた草や木が視界に入って距離を見誤ったのかもしれない。ここは山で、草原とは違う。ツェレンはそれを痛感させられたのだ。
自分が情けなかった。あんなに自信たっぷりに勝負を持ちかけた自分が恥ずかしい。惨めだった。草原では、こんなことなかったのに。そう思うと、マヴィの故郷のことを思い出してしまった。自分の住み慣れた実家や、家族の顔を思い出して懐かしむ。
「……帰りたいな」
小さくそう呟いた。誰に言ったわけでもなかった。その時、「おい」とはるか頭上から声がかかり、ハッと顔を上げた。
崖のはるか上に、狼獣人の姿があった。こちらを見下ろしている。それがシドゥルグだと分かると、ツェレンは両手を広げた。
「ここ!」
「見えてるよ。ったく、仕方ねぇな……」
ぶつくさ言いながら、シドゥルグは崖を降ってきた。ツェレンの時とは違い、彼は慣れたように崖を滑って降り、あっという間にツェレンの元に辿り着いた。ツェレンの泥だらけの格好に顔を顰める。
「何してんだお前は。ひでぇ格好だぞ」
反論したくても何も言えなかった。口を尖らせて黙っていると、シドゥルグが屈んだ。
「ほら」
まるでおぶされ、とでも言うように背中をこちらに見せた。ツェレンがポカンとしていると、痺れを切らしたように唸る。
「とっとと乗れ。お前の短足に合わせて歩いてちゃ日が暮れちまうだろ」
失礼な。と頭の中で思ったが口にはしなかった。おずおずと近寄り、彼の背にもたれる。シドゥルグがすっと立ち上がり、ツェレンを背負い直す。
「しっかり捕まってろよ」
シドゥルグの首元に手を回すと、自然と彼の首元に触れた。ごわごわかと思いきや、毛は意外とふわふわしていて気持ちがよかった。
ツェレンがしっかり自分の首元に捕まっているのを確認し、シドゥルグは崖を登り始めた。急斜面だというのに、シドゥルグは難なく登っていく。ツェレンはあんなに苦戦したのに、少しも苦しそうな様子がない。ツェレンは時々体が重力に逆らいそうになったが、落ちないようしっかりシドゥルグの背中に捕まっていた。落ちることなく崖を上りきり、シドゥルグはそのまま来た道を辿っていく。踏みならした道もないのに、よくツェレンを背負ったまま歩けるものだ。
「……ごめんなさい」
「お前、分かって謝ってるんだろうな」
ツェレンの謝罪を背中で聞いていたシドゥルグが声をかけた。ツェレンは彼に見えなかったが頷く。
「ご迷惑をおかけしました……私が浅はかでした。頭に血が上って後先のことを考えられていなかった」
シドゥルグは息を吐く。この謝罪はシドゥルグの納得いくものだったのかその様子だけでは分からない。
「……まぁいい。たとえお前が子供であろうと、人であろうとクルムズ族の族長の妻であることには違いない。次からは自分の立場を考えて行動をしろ。いいな」
「……はい」
ツェレンは短く答えたが、深く反省した。頭に血が上りすぎて、シドゥルグに早く妻として認められたくて勝負を仕掛けたが、浅慮な行動だった。マヴィの族長の娘、そしてクルムズの族長の妻としての自覚が足りていなかった。自分の行動を振り返って、ツェレンは反省をする。
しばらく、二人の間に言葉が交わされず、お互い無言の時間があった。次に口を開いたのはシドゥルグだった。
「……泣いているのか?」
「え? な、泣いていませんよ。どうしてですか?」
突然聞かれて、ツェレンは戸惑った。シドゥルグはツェレンが泣いていないことを知ると安堵した様子だった。
「ならいい。クルムズの子は滅多なことで泣かない。どんなに辛い目に遭おうと、涙を流すのは誰かを想う時だけだ。母親に叱られて泣けば、さらに怒られるぞ」
「……あなたは私の母親ですか」
つい、そう突っ込まずにはいられなかった。シドゥルグは「それに」と言葉を続けようとする。ツェレンは言葉を待ったが、少し間があった。
「……泣かれたら、困る」
まるで、子供がいじけたような言い方だった。十も歳が離れているのに、このシドゥルグという獣人が初めて可愛く思えた。ツェレンはくすりと笑い、体をその広い背中に預けた。
「……おい、くすぐってぇから毛を撫でるな」
つい、手が心地よさを求めて彼の首元の毛を撫でてしまう。シドゥルグは咳をしてくすぐったさをごまかしていた。
ツェレンは背後で、彼の尻尾が揺れ動く気配を感じた。
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