4-2
シドゥルグが山を降りて留守にしていたり、狩りをしない日は刺繍をして過ごした。
ファーリアイの妹達に作った刺繍のものは、とても喜ばれた。調子づいたツェレンはセダにも膝掛けを作ると、同じものが欲しいと言い出す人達が出てきた。そのうちその声が習いたいという声に変わったため、ツェレンはセダの家で習いたいという女性たちに刺繍を教えるようになった。
初めこそ緊張はしたものの、クルムズの女性たちは気さくでおおらな人たちだった。ツェレンはすぐに彼女達と親しくなった。
ツェレンが嫁いでから一月が過ぎた頃にはもうすっかりクルムズの生活に馴染んだ。クルムズの一族も、ツェレンという“人”に少しずつ慣れていった。
それにはきっかけがあった。シドゥルグとの狩り勝負だ。
クルムズの狼獣人にとって、狩り勝負の勝敗は重要視される。彼らは誇りをかけて勝負をし、結果によって上下関係が決まることもある。
この村で一番の最強は族長であるシドゥルグだ。彼の速さや力に敵うものはこの集落にはいないだろう。シドゥルグに狩り勝負を挑むのは無謀だった。それを、ツェレンが勇ましく挑んだ。これはクルムズの住民にとって衝撃的だったのだ。
我らの族長に“人”の娘が挑むなんて。結果は惨敗だったが、それでもツェレンの勇ましい行動にクルムズの狼獣人たちの中に好感を持つものがいた。
──ツェレン様は“人”の子だが、結構肝が据わられている。
──初めは大丈夫か心配だったけど、あの方が嫁がれて良かったのかもしれんな。
そう話す者もいた。
***
その日、ツェレンはいつものようにシドゥルグの狩りに同行していた。山歩きにもすっかり慣れ、シドゥルグにピッタリくっついて歩くことはほとんどなくなり、一人で散策するようになっていた。
ゆっくりと山の丘を移動し続けると、遠くに野うさぎがいることに気づいた。そっと身を屈めて様子を見る。こちらには気づいていないようだった。まだ若いうさぎでやや痩せている。
今なら、仕留められる。
ツェレンは狩り勝負をした日から一度も弓矢を弾いていない。長い間弓矢を使っていないことに不安はあったが、今なら仕留められる気がした。ゆっくりと物音を立てないように矢筒から矢を引き抜き、弓にかけて狙いを定めようと構えた時だった。
僅かな衣擦れの音に振り返ると、シドゥルグが背後にいた。ツェレンは無断で弓を使おうとしたことを謝ろうとした。しかし、シドゥルグは指を口元に当て“静かにしろ”と伝える。その指で前方を指差した。
──やってみろと言っている。
ツェレンは答えるように頷いてもう一度狙いを定めた。弓矢を弾けば懐かしい重みが腕にかかる。やけに緊張した。久しぶりからかもしれないし、後ろでシドゥルグが見ているからかもしれない。
ふぅと息を吐いて呼吸を整えた。……今だ。呼吸を一度止め、矢を放った。矢は風を切り、まっすぐ飛んでいく。その矢はうさぎの体を撃ち抜いた。
「あ……」
思わず声を漏らした。息を止めていたのは一瞬だったのに鼓動が忙しなくツェレンの胸を叩いている。呆然としていると、シドゥルグが先に前へ進み出て狩ったうさぎを拾う。
「クルムズの若者は、初めて獲物を狩ることで一人前と認められる」
「え?」
「獲物を己で調理し、それまで育ててくれた両親祖父母に感謝の念を込めて食してもらう習慣がある」
シドゥルグは満足そうに微笑んだ。
「よくやったな、ツェレン」
ツェレンの胸の中で何かが弾けたような気がした。胸の中でじんわりと温かいものが広がって行く。初めてシドゥルグが認めてくれたことによる、喜びなのかもしれないし、一歩前進できたことへの安堵かもしれない。言葉では言い表せないようなその心地に、ツェレンは呆けた。
ツェレンが何も言わないからか、シドゥルグは彼女を揶揄うように笑った。
「まぁ、そんな痩せたうさぎでは、母親の腹を満たすこともできんな」
小馬鹿にされツェレンはむっとする。さっきまで感じた感動はかき消えてしまった。何か言い返す前にシドゥルグはその場を離れようと歩き出した。
「そのうさぎはお前の獲物だ。好きにしろ」
それだけを言い残して先に行ってしまった。
集落に戻り、このことをファーリアイに報告すると、彼女はまるで自分のことのように喜び「おめでとうございます!」と祝福してくれた。その気持ちは嬉しかったが、シドゥルグに小馬鹿にされたことをまだ気にしていて素直に喜べない。
「シドゥルグ様にはバカにされたんだよ。獲物が小さすぎるって」
「あら、シドゥルグ様が初めて狩った獲物もうさぎでしたよ」
「そうなの? あの人、偉そうにそんな痩せたうさぎじゃ腹も満たせないって言ってたくせに!」
ツェレンは腕を組んで口を尖らせた。ファーリアイは苦笑する。
「ふふ、当時シドゥルグ様はお父上に同じ言葉でお叱りを受けて落ち込んでおりました」
「なぁんだ、シドゥルグ様も私のことバカにできないじゃない!」
それにツェレンは草原では何度か狩りをしている。そういう意味では私の方が勝っている……とツェレンはそう考えて怒りを収めることにした。
「それで、このうさぎはいかがなさいますか?」
「うん……色々考えたんだけどさ」
ツェレンはもじもじとしながら提案をする。ファーリアイはその提案に賛同してくれた。
***
狩りに同行を許すようになって以来、シドゥルグは以前のように露骨にツェレンを避けることは無くなった。
相変わらず寝屋は別だが、時間が合った時は食事を共にする。夕食の時は平たく伸ばしたパンに肉や野菜などがたくさん入ったピラフ。味付けを濃くしてパンと一緒に食べる肉。肉や魚や野菜をケバブにして食べることもある。
食事の間はほとんどツェレンが話す。その日あった出来事をシドゥルグに話す。シドゥルグは簡単に相槌をするだけだが、それを穏やかに聞く。
初めは静かに食べる方が好きなのかしら、と思い、しばらく食事に集中して黙っていると「他に何があった」と続きを促す。何か疑問を聞くと彼は答えてくれる。
ファーリアイと女中を誘っての食事も楽しかったが、シドゥルグと食事をするのも楽しい。穏やかな時を一緒に過ごせるから。
先にシドゥルグが食事の席に座っているところへ、ツェレンが一つの鍋を持って来た。低い台の上にそれを置いてからツェレンも座る。
「何だ? それは」
シドゥルグが聞くとツェレンが顔を上げた。その表情はどこか意地らしく笑っている。
「今日、私が獲ったうさぎです。……シドゥルグ様、教えてくださいましたよね。クルムズの若者は初めて狩ったお世話になった家族へ振る舞うのだと。ここではあなたが私の親代わりといいますか、これから一番お世話になる方だと思ったので」
ツェレンは椀に鍋のものをよそい、シドゥルグに差し出した。椀から食欲のそそる匂いが漂ってくる。
「……その、というよりも貴方に食べてもらいたくて」
シドゥルグは何も言わない。差し出された椀を手にして匂いを嗅ぐ。
汁は赤に近い橙色をしており、肉の他にも葉野菜やパプリカなど野菜がふんだんに煮込まれている。色味は赤いが、香辛料のような辛い匂いはなく、独特な香草の香りもした。
「マヴィの料理か?」
「あちらでよく使う香草を入れました。マヴィではこういった鍋にすることもあるんです」
説明され、シドゥルグは椀に口をつけた。味はどうだっただろう、口に合っただろうか。ツェレンは緊張しながらそれを見守った。
「……悪くないな」
「本当ですか?」
良かった。口に合ったみたいで。ほっと胸を撫で下ろしていると、シドゥルグはすぐに椀を空にしてしまった。するとその椀を無言のまま差し出す。
きょとんと見つめ返し、はっとその意図に気づいて椀を受け取って汁を入れる。この味を気に入ってくれたみたいだ。ツェレンは喜びのあまりにやけそうになるのを頬の内側の肉を噛んで耐えた。
椀を返すと、シドゥルグは何か考えこむようにその椀を見つめ、顔を上げた。
「お前の椀もよこせ」
「え? あ、はい……」
言われるがままその椀を手渡すと、今度はシドゥルグ自ら鍋の汁をツェレンの椀によそった。
「一人前と認められた狼は、両親祖父母に初めての獲物を振る舞うと言ったな。両親祖父母が先に食べた後、こうしてご相伴に預かるのもまた習わしでもある。だからお前も食え」
「……はい」
シドゥルグはこちらに目線を合わせようとしない。無造作に椀を突き出して渡されたが、ツェレンの胸の内にじんわりと温かいものが染み込んでいく。
「同じ皿のものを共に食せば、血を分けた兄弟となる」
「?」
「つまり、共に食事をした者は血も種族も違っても縁を結べると言うことだ」
「縁……」
シドゥルグと夫婦になって一月と半月過ぎた。初めここに来た頃よりもずっとシドゥルグの態度は柔らかくなったし、ツェレンは彼のことが好きになった。しかし、これが夫へ向ける愛情なのかよく分かっていない。それでも、このじんわり胸に広まる熱は嫌ではなかった。
……最初は不安だった結婚だったけど、やっぱり私はここに来て良かった。ツェレンは改めてそう思った。
まだ夫婦というものをきちんと理解できていないが、シドゥルグが夫で良かったと思う。
「言っておくがな、俺の腹を満たすつもりならこんなのでは間食にもならんぞ」
「わ、分かってますよ。次こそは……」
悔しさを滲ませた声を出すと、シドゥルグは目を細めにやりと笑った。
「あまり張り切りすぎて、また崖に落ちるなよ」
「もう!」
反論するようにツェレンが睨めば、シドゥルグは珍しく声を上げて笑った。
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