第三部
折内恵斗.1
怖い話なんて、不幸な奴の慰めだと思っていた。
普通はそうだろう。
死ぬのは怖いし、他人が死ぬのだって嫌だ。作り話でもわざわざ嫌な気分になりたくない。心霊スポットの一言で片付けられている場所だって、元はおれたちと同じように生きていたひとが死んだ場所だ。面白がる気にはなれない。
だから、
でも、付き合っていくうちに、案外ノリが良くて優しくていい奴だとわかった。変わりたいと思っていたと聞いて応援したくなった。
健が抱えている問題が何なのか見当もつかなかったけれど、少しでも力になれればいいと思った。
それが、何故こうなった?
パトカーのサイレンが鳴り響いている。
おれはブロック塀で囲まれた住宅街を必死に走った。陸上部では県大会にも行ったのに、煙草を始めてから息切れが早くなった。格好つけて吸い始めた自分が恨めしい。
サイレンに急き立てられるように角を曲がると、健のアパートが見えた。
二階の廊下の錆びついた手すりから健が身を乗り出している。晴れた空の日差しと相まって、鉄棒にぶら下がる子どものように見えた。
健の足元には赤い水が溜まっている。手すりの柵の下から雫が一滴ずつ落ちていた。嫌な予感がした。
「健!」
おれの声に気づいた健がこちらを向いた。泣きながら顔面を震わせて笑顔を作っていた。
駄目だ、やめろ、何する気だよ。言葉が肺の奥に張りついて出てこない。
健は鉄棒で前回りをするように腹を手すりに押し付け、手を離した。空中に投げ出された健の影が駐車場に広がり、徐々に大きくなる。
肉が潰れる音は、ぐしゃりという映画の中の効果音とは違い、硬いものを噛み砕いて歯が折れたような音だった。
アスファルトの凹凸に赤く弾力のある液体が噛みつき、じくじくと染み渡っていく。目の前が霞んだ。一面に広がる赤の中で転がる健の手だけが白い。
頭を両手で掴まれて、頭蓋を真っ二つに破られるような頭痛が響いた。封印していた記憶がごりごりとこじ開けられる。
同じ光景を見たことがある。血溜まりの中に倒れる誰かを。
おれは叫び続けて、肺の中の息を全て絞り出し、頭から倒れ込んだ。
「
気がつくと、俺の前に黒い脚が並んでいた。
青白い闇と非常灯の緑、消毒液の匂い。病院の待合室だ。
スーツを着た男女が、長椅子に横たわるおれを見下ろしていた。おれは返事をしてから慌てて身を起こす。長椅子のビニール革が頰に貼りついて、剥がすときにひりついた。
スーツの男はドラマでしか見たことがない警察手帳を取り出す。
「捜査一課の
健が言っていた刑事だ。電話での切羽詰まった声が蘇る。おれは刑事の袖に縋りついた。
「健は、
「落ち着いてください」
切間は日に焼けたいかつい顔に苦しげな表情を浮かべた。背後にいた女が首を振る。
「おふたりとも危険な状態です。
頭が鉄球のように重くなった。切間がそっとおれの手を振り解き、励ますように肩に触れる。
「ご心痛はお察しします。ご無理のない範囲で状況を伺えますか」
おれは震えを堪えて口を開く。
「すいません。何もわからないです。健から通報しろって電話が来て、やばいと思って走って行ったら……」
骨と肉がアスファルトを削る音が脳裏に反響し、喉から胃液が迫り上がった。
女の刑事が表情の読み取れない顔で言う。
「穴水さんは自宅に暁山さんを誘き寄せ、腹部を刺し、自殺を図りました。彼には同学の女子生徒の殺害容疑も……」
「まだ言うな。混乱しているだろう」
切間が牽制するような視線を向け、おれに向き直る。
「折内さんとはおふたりと交流があったと聞きます。何かご存知ですか」
「わかりません。でも……」
混乱する頭を回し、言葉を紡ぐ。
「健はそんなことするような奴じゃないんです」
刑事ふたりの顔に哀れみと呆れが滲んだ。聞き飽きたありきたりな言葉だったんだろう。自分でもわかっている。でも、本当に違うんだ。
それ以上は言葉が詰まって出てこなかった。
刑事たちはおれに励ましの言葉を告げ、一礼して去った。ふたりの声が廊下に反響する。
「痴情のもつれでしょうか」
「現段階では何とも言えない。お前も迂闊なことは言うな」
刑事たちの後ろを白衣の集団が駆け抜けていった。リノリウムの床を靴底が擦る音が遠のいていく。
静かな闇が重くのしかかってきた。
健が大鹿を殺して、美鳥を刺した。
否定しようとするほど、理性が反論する。最近の健はどこかおかしかった。巽と美鳥が何とかしようと駆け回っていたようだが、詳しいことは聞けなかった。もっと、ちゃんと向き合っていれば。
本当にそうか?
明滅する非常灯が唸りを上げる。
小学生のとき、おれが忘れている何かが起こった。高校生のときは
おれの周りではひとが死ぬ。普通じゃありえないような方法で。
おれは頭を振って、疑念を押し退けた。
暗闇に、昨夜の電話の健の声が蘇る。涙声で礼と詫びを繰り返すあいつは、最初に会ったときの印象と同じで、不器用だけど優しかった。
「あれが全部嘘だったっていうのかよ……」
ジーンズのポケットから何かが落下し、長椅子に転がった。御守りだ。紫色の麻の葉模様が描かれた縮緬は、下半分が赤黒く染まっていた。
混乱で飛びかけていた記憶が徐々に形を取り戻す。
アスファルトに叩きつけられた健のそばに転がっていた御守りだ。
俺は無意識にそれを掴んで握りしめていた。日の当たる駐車場で、長方形に引かれた白線の中に健の血が広がっていた。陽光が首筋を啄むように照りつけた。
目の前に救急車が滑り込み、隊員が錆びついた階段を駆け上がっていった。
担架に乗せられた血塗れの美鳥が降りてきて、おれは知らないうちに駆け寄っていた。
美鳥の顔は漆喰塗りの壁のように白く、生きた人間とは思えなかった。浅い呼吸の度に酸素マスクの内側が曇り、辛うじて死んでないことがわかった。腹の傷が柘榴のように割れ、てらてらと光る血が溢れていた。
衝撃で視界が歪み、意識が遠のきかける。
美鳥の虚な目がおれを捉えた。赤いペンキを塗ったような胸が上下する。
「折内くん……私の、従兄弟を、呼んで……ゆき……」
苦しいのか、美鳥は震える手で酸素マスクを指し、口の周りに円を描くような動作をした。
救急隊員に促されて同乗したが、美鳥はそれきり目を閉じて動かなくなった。
病院の底冷えするような寒気が脚を這い上がる。
美鳥から従兄弟の話を聞いたのは初めてだ。早くしないと手遅れになるかもしれないのに、おれは彼の連絡先どころか名前も知らない。
スマートフォンを取り出そうとすると、鉄錆の匂いがした。爪の間に乾燥した血が入り込んでいる。
おれは血染めの御守りを握りしめた。
視界の端を黒い靄が過ぎったような気がした。
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