エピローグ

エピローグ

 記憶が鮮明に蘇った。

 夏休み明けの教室はまだ緩んだ空気が残り、窓から西日とひぐらしの声が溢れていた。


 給食を終え、昼休みを告げるチャイムが鳴る。

 日焼けした級友たちには、ギンガムチェックのランチョンマットを畳んでいる者も、サッカーボールを片手に競り合うように教室を飛び出す者もいた。


 おれが並べた机を元に戻していると、廊下の方から声がした。

折内おりうちくん」

 たつみによく似た大人しそうな少年が扉に手をかけ、教室を覗き込んでいた。おれは机を放って手を振る。女子たちの最後までちゃんとやれと騒ぐ声が聞こえた。


 少年は気後れするように何度も振り返りながらおれの元までやってきた。

「久しぶりじゃん。どうしたの」

 おれが尋ねると、少年はしばらく黙ってから答える。

篠目しのめくんは?」

「今給食当番だからワゴン片付けてる。すぐ戻ってくると思うけど」


 少年は一瞬暗い目をして、すぐに瞬きした。

「……何で篠目くんのことタッちゃんって呼んでるの?」

 そんなことが気になっていたのかと思わず吹き出した。おれは隣の机に置きっぱなしだった、寿司屋にあるような湯呑みを取り上げ、ある漢字を指さす。

「タラちゃんじゃんっておれがあだ名つけたの」

雪魚ゆきおだから鱈?」

「そう。へんとつくりが逆だって言われたけど」


 おれは笑って見せたが、少年はつられて笑うどころか不服そうに俯いた。

「折内くん、前は僕のこともタッちゃんって呼んでたよね。巽だからって」

「そうだったな」

「でも、クラス変わってから全然うちに来てくれなくなった」

「ごめん、なかなか会えなくてさ。また遊ぼうよ。あいつも呼んで、ダブルタッちゃんで」

 おれは明るい声を出しつつ、内心不安を感じていた。少年は張り詰めた険しい顔をしていた。少し会わなかっただけで、そんなに傷つけていたのか。


 少年は意を結したように顔を上げ、おれに畳んだ紙片を差し出した。

「読んで」

 手紙かと思ったが、広げた紙に書かれていたのは意図が取れない平仮名の羅列だった。


「口に出して読んで」

 おれは困惑しつつ、それで機嫌が直るならと声を出す。

「よみからおはりや、かくあそばせたまえ、おりおりて、かたりかたりましませ……?」

 一瞬目の前が暗くなった。足がふらつき、熱中症かと額の汗を拭う。少年はじっとおれの様子を窺っていた。


「読んだけど、何これ?」

「駄目かぁ」

 少年は小さな肩を落として溜息を吐き、ポケットに手を突っ込んだ。細い手に握られていたのはナイフだった。理解が追いつかなかった。

「えっ……?」


恵斗けいと!」

 上ずった叫び声が教室に響いた。真っ青な顔のタッちゃんがおれを見つめていた。

 少年は舌打ちしてナイフを振り上げる。銀の刃が西日を映してギラリと光った。


 刃がおれを貫く前に、駆けつけたタッちゃんが少年に体当たりした。少年が机にぶつかって倒れ、ナイフが床に跳ねる。

 タッちゃんは素早くナイフを取り上げ、少年の太腿に刺した。溢れた血がニスの剥げた床に広がり、等間隔で机を置けるように引かれた白線を赤く汚した。


 少年の絶叫も、教室に響いた叫びも、別世界のように遠い。頭の中が黒い水で満ちる。目の前に短くて膨れた赤ん坊のような手がちらついた。

 タッちゃんの悲痛な声が聞こえた。


「恵斗、しっかりしろ。くそ、やられたのか!」

 タッちゃんが血まみれの手をおれに伸ばす。濡れた指先はひんやりと冷たかった。

 タッちゃんの手がおれの額を突き抜けて、頭の中をかき回したような気がした。不思議と不快感はなく、心地よかった。黒い水が掬い出され、頭が軽くなる。


 駆けつけた教師がタッちゃんをおれから引き剥がした。級友たちの叫び声と教師の怒鳴り声が近くなった。

「篠目くん、何をしたの! 離れなさい!」

 教師に羽交い締めにされたタッちゃんがおれの名前を呼ぶ。口元の黒子が震えるのが見えた。



 全部、思い出した。

 頭痛が鈍く響き、おれは無意識に頭を抱える。

 非常階段で会ったとき、病院で何をしに来たと聞いたとき、小学生の頃の話をしたとき、篠目が傷付いたような顔をした理由がわかった。

 おれは全部忘れていた。それなのに、今も昔もずっと助けてくれたんだ。



 おれはエスカレーターを駆け下りた。

 真下から生温かい風がどっと吹きつけ、電車がホームに滑り込む。彼はちょうど先頭車両に乗り込むところだった。

 おれは走りながら声を振り絞る。


「雪魚……タッちゃん!」

 振り返った彼は少しだけ笑った。白かった肌は傷だらけで、伸びた黒髪は乾燥しきっていたし、目の下は落ち窪んで痩せこけていた。口元の黒子も今は火傷に消し潰されて見えない。だが、大人びた笑顔だけは変わらなかった。



 おれが伸ばした手を拒むように自動ドアが閉まった。ぴったりと合わさった銀の扉が後ろ姿を掻き消す。

 ベルが鳴り、点字ブロックの上で立ち尽くすおれを突き飛ばすように風が吹いた。電車が走り去る。


 穏やかな日差しが降り注ぎ、エスカレーターから降りてきた人々の話し声がホームに満ちた。おれは追いかけることもできず、独り佇んでいた。


 篠目雪魚を乗せた電車は、駅舎の庇が影を落とす暗い方へと駆け去り、やがて見えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檻降リ語騙リ ※書籍版改題『檻降り騙り』 木古おうみ @kipplemaker

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ