篠目雪魚.5
まとわりつく黒い赤ん坊も、煙も、篠目も、巽も見えなくなった。
「籠原……」
籠原はこくりと頷き、おれを覗き込む。赤い唇が動いた。
「気づかないでくれてありがとうね」
柔らかい声が鼓膜を突き破って脳を刺すように響いた。
「折内くんも朝香もこの娘のこと要らないって、ずっと目を背けてくれたから身体をもらえたの。だから、本当にありがとう」
籠原は胸に片手を当てて微笑んだ。身体の芯が冷え切り、肌の上を這い回る赤ん坊の手の感触だけが熱い。
やめてくれ、籠原の姿でそんなことを言うのは。叫びたかったが、おれにそんな資格がないことはわかっていた。おれは気づかなかった。本当の籠原を知らずに好きだと思っていた。
腕の中が鉛を抱いたように重くなる。抱えていたはずの朝香を見下ろすと、髪が焼ける匂いの煙が鼻を突いた。おれの腕の中にいたのは、真っ黒な赤ん坊だった。声にならない悲鳴が喉から漏れた。何で、いつから。
籠原がおれの腕を掴む手に力を込める。アイロンを押し付けられたような痛みが走った。
「この娘じゃなく私を好きになったんでしょう? ずっと寂しかったの」
耳元で声が響く。赤い唇から火の粉の絡んだ煤が吐き出され、頰を焼いた。
「ねえ、その手離して、一緒に来て」
両腕の力が抜けそうになったとき、腕に火傷とは違う微かな痛みを感じた。おれが抱える真っ黒な赤ん坊の手元で、銀色の何かが輝いていた。
篠目の言葉が蘇る。惑わされるなと。おれが抱いているのが朝香じゃないなら、ケガレが離せと要求するはずがない。
おれは昔と変わらない籠原を見つめ返した。
「籠原、気づけなくてごめんな。何もできなくてごめん」
おれは赤ん坊の手からナイフを奪い取り、籠原に振り下ろした。もう一度心の中で「ごめん」と呟いた。
籠原は微笑みを打ち消し、獣のように顔を歪める。恨みを込めた絶叫が響き渡った。
籠原の姿が塵になって消える。自分が呼吸を止めていたことに気づき、おれは大きく息を吸った。黒い煙が喉を駆け下り、唾液とも胃液ともつかない雫が口から溢れた。頭も腕も痛むが、まだ生きている。赤ん坊も消えている。
おれは握ったナイフを落とし、腕の中を見た。真っ青な顔の朝香がいた。
「刺してごめんなさい……何かと喋ってたから……」
おれは涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになった顔を拭う。
「いや、助かった。ありがとう。いかれるところだった」
笑顔を作ったつもりだったが上手くできたかはわからなかった。
おれは朝香を下ろして立ち上がった。煙が薄くなっている。歪な人型を作る黒煙は一点に集中していた。
どろどろと濁流のように流れる煙を掻き分けながら、篠目は一歩ずつ進んでいた。痩せた身体に無数の赤ん坊がまとわりついている。
「ゆきお、たすけて」
「しのめくん、みすてないでよ」
赤ん坊が囀るたびに焼死体じみた皮膚がパリパリと破れ、黒い煤が舞い上がる。篠目は右腕で煙を薙ぎ払った。
「毎回毎回、芸のない猿真似しやがって。俺に勝てたことが一回でもあったか……!」
言葉とは裏腹に、篠目は激痛に耐えかねるように全身を震わせていた。
一際小さな赤ん坊が篠目の足元に縋りついた。膨れた五指が抉るように細い脹脛を掴む。篠目が苦痛に呻いた。
おれは篠目が倒れる前に背を支えた。シャツに染み込んだ汗が指に滲む。篠目は驚いたようにおれを見上げる。
「悪い、頼む、勝ってくれ」
篠目は硬く唇を結んで頷いた。
黒い突風が廊下の向こうから雪崩れ込む。篠目は躊躇わずに駆け出し、嵐の渦の中に手を突き入れた。
傷だらけの右腕が人頭じみた塊を掴んだ。
煙幕の先に人影が覗いた。巽の身体には黒い骸骨のようなものがいくつも絡みついていた。靄に覆われた頭の横から、無数の黒い顔が果実のように成っている。吐き気が喉奥から迫り上がった。
篠目は怯えることもなく巽の肩を掴み、右腕を伸ばした。煙が火花を放ち、ケガレたちの絶叫がこだまする。もがく巽に合わせていくつもの顔が揺れ、牙を剥いて篠目に噛みついた。薄い皮膚から血が噴き出す。
篠目は歯を食いしばり、巽の喉の奥へと右腕を差し入れ続けた。煙が篠目の姿を覆い隠す寸前、笑い声が聞こえた。
骸骨たちに隠れた巽の手が刃物を握っている。おれは咄嗟に駆け出した。篠目は気づいていない。今引き剥がしたら再び近づけないかもしれない。
おれは考えるより早く、巽と篠目の間に身体をねじ込んだ。
左腕に焼けた鉄が生えたような熱が膨らみ、痛みに変わった。意識が飛びそうになるのを必死で堪える。篠目は目を見開き、ケガレの集合体を見据えた。
「これで終わりだ!」
巽の喉から体内に突き入れた右腕が微かに光る。篠目が拳を握った。最後の咆哮と煙と赤ん坊の泣き声が五感を奪う。建物が震撼した。
煙に覆われていた視界が晴れた。
辺りは仄暗い会館の廊下に戻っていた。蛍光灯が明滅する館内に中学生のはしゃぐ声が響いている。嘘のように静かな光景だった。
おれは我に返って辺りを見回す。朝香は廊下の隅にへたり込んでいた。無事でよかった。
おれの足元に篠目が蹲っていた。右腕を押さえて身体を震わせ、食いしばった歯の隙間から血が溢れている。
おれは自分の傷も忘れて篠目の肩を揺さぶった。
「しっかりしろ、大丈夫か。血が……」
「いつものことだ……」
篠目は荒い息を吐いて身を起こす。
「巽は……?」
篠目が指さした方を見ると、廊下に巽が倒れていた。電池が切れた人形のように微動だにしない。濁った瞳に蛍光灯の光が反射していた。
「死んでるのか」
「さあな。ケガレは剥がしたが、精神はとっくに食い潰されてる。衰弱死か、一生廃人か」
篠目が吐き捨てる。廊下の向こうから足音が聞こえ、管理人が向かってくるのが見えた。
「面倒事になる前に逃げるぞ」
篠目はにべもなく呟き、足を引き摺りながら出口へと歩き出した。
会館を出て、駅前まで無言で歩いた。
ファストフード店と学習塾が並ぶ通りが見えたところで、朝香が足を止め、深く身を折った。
「ありがとうございました」
篠目は無言で顔を背ける。おれは朝香の肩を叩いた。
「何か困ったことがあったら言って。力になるから」
朝香は顔を上げ、小さく笑みを作った。籠原の姿が蘇り、胸が詰まった。
おれと篠目は駅前の喫煙所に入り、煙草を咥えた。銀の灰皿が拷問器具のように光る。焦げくさい匂いと煤に、先程の光景が蘇った。
「……これで終わったのかよ」
「こいつに関することだけはな。インフルエンザにかかった奴が治ったとこで、世界から病原菌が消える訳じゃない。十年前、巽にケガレを取り憑けたのは誰だ?」
おれは口から煙草を落としそうになる。
「わかんねえけど……」
「俺だって知らねえよ。ただ、何も終わってないってことだ。ケガレがいる限り終わらない。人間がいる限りかもな」
篠目は煙を吐き、沈鬱に首を振った。
おれは唾液で湿ったフィルターを噛む。
「これからどうするんだよ」
「病院に行って、美鳥の様子を見て、帰る。お前も医者に見せろよ。腕刺されてるだろ」
おれは裂けた上着の袖を見つめた。傷は浅いようで、血が乾いてこびりついていた。
篠目は吸殻を灰皿に放り込み、パーテションの外に出た。
駅のホームは人影も少なく、時折学生や着物姿の老女たちが笑いながらすれ違った。
彼らはケガレもハガシも何も知らない。少し前のおれのように。おれが知らない間にも篠目はずっと何も知らない人々のためにボロボロになりながら戦っていたんだろう。
改札を抜け、おれはエスカレーターの前で足を止めた。
「おれ、逆方面だから」
「そうか」
「……助かった。ありがとう」
「俺が勝手にやっただけだ」
篠目は短く答える。駅のアナウンスが水の中で聞こえるようにくぐもって反響した。
「あのさあ……ハガシ続けんの?」
「続けるだろうな。やめたくてもケガレの方から寄ってくる」
「そんなズタボロなのに続けるのかよ」
「お前はもう関わるな。お前みたいな奴は何も知らずに善良な馬鹿でいればいい」
「馬鹿って……一応教職取ったんだけど」
わざと軽い口調で言うと、篠目は寂しげな微笑を浮かべた。
「お前には不幸になってほしくない」
同じことを昔、言われたような気がした。篠目は踵を返し、下りのエスカレーターへと足を進めた。
「なあ!」
篠目が振り返る。引き止めなければと焦るのも、考えるほど間抜けな言葉しか出てこないのも、昔と同じだと思った。
「……お前がいなかったら、またケガレが来たときどうすればいいんだよ」
篠目は少し躊躇ってから言った。
「それは、自分で頑張れよ」
篠目は火傷痕を歪めて笑う。ケロイド状の傷に覆われていなければ、口元に黒子があったはずだ。
おれは知っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます