篠目雪魚.4

 明朝、おれたちは篠目のアパートを出た。

 オフィス街から離れた通りは通勤時間も閑散としていて、無人の光景が精巧なレプリカのように見えた。


 おれは朝香を見つめた。

「やっぱり危ないし、やめた方がいいって。囮みたいな真似……」

「大丈夫です。私が一番警戒されてないと思いますし、それに、ケガレは姉さんの仇だから」

 朝香の折れそうな身体に秘めた決意が見えて、それ以上口を挟めなかった。


 篠目は正面を見据えて言う。

「向き合うなら躊躇うな。奴はケガレに乗っ取られて十年経った。元の人格なんか残っちゃいない」

 そして、篠目はおれを横目で見た。

「囮はお前だ。ケガレはお前を狙うぞ」

「覚悟してる。これ以上やられっぱなしでいる気はねえよ。それより、お前こそ満身創痍で大丈夫かよ」

「腕の骨はくっついた。全快を待ってる時間はないしな」


 路地裏に差し掛かり、篠目は脚を止めると、おもむろに腕を吊る白布を首から外した。ポケットから出てきたのは、斜めに曲がった鋏のような器具だった。

「何だよそれ」

「ギプスカッターだ。病院に行く暇がないときに自分で切れるように中古で買った」

 篠目は躊躇なくギプスに鋏を入れる。禍々しい音と共に包帯が剥がれ、右腕が現れた。生まれてから一度も陽を浴びていないような白い肌には無数の傷があり、肘の骨が歪に突き出していた。



 電車を乗り継いで辿り着いたのは、ことりの家の会館だった。

 開館直後の建物の中は静かで、照明も空調も動き始めたばかりだった。薄暗がりの廊下に吐息のような生温かく細い風が流れる。

 入り口前の看板には、十一時から近所の高校のバレーボール部にホールを貸し出す予定だと書かれていた。

 おれは篠目の肩を叩く。

「ひとが来るところで大丈夫かよ」

「巻き込む前に終える」

 篠目は無表情に答え、朝香を残しておれを廊下の角へと導いた。


 寒々しい廊下に佇む朝香の背は消え入りそうだった。おれは息を殺して、奴が現れるのを待つ。

 革靴が床を踏む冷たい音が響いた。

 朝香が顔を上げる。

「急に呼び出してすみません。巽さん」

 細身の黒いコートを纏った巽はいつもの変わらない微笑を浮かべた。


「お構いなく。今日はどうかしましたか?」

 朝香は俯きがちに長い髪で表情を隠す。

「美鳥さんのことでどうしても伝えなきゃいけないことがあって……お仕事は大丈夫ですか?」

「ええ、自由に時間を使えますから」

「その時間でケガレを取り憑かせる呪いをネットにばら撒いたんですか」

 巽が小さく目を見開く。まずい、予定と違う。朝香はただ巽を呼び寄せるだけで、後はおれと篠目がすぐ向かうはずだ。

 傍の篠目が「馬鹿」と低く唸った。


 巽は微笑を崩さず、首を傾げた。

「すみません、何の話でしょうか?」

「おまじないが載ってるサイトは巽さんが作ったんですよね。自分を変えられる、普通になれるって。姉さんみたいなひとが飛びつくように」

 朝香は金属を断ち切るような声で叫んだ。

「私は姉さんに変わってほしいって思っちゃってた。だから、こんなこと言う資格なんてない。でも、死んでほしいなんて思ってなかった!」


 朝香は制服の下から鈍く光るものを取り上げた。ナイフだ。刃を向けられても巽は微動だにしなかった。朝香がナイフを振り下ろす前に、おれは駆け出した。


 巽は能面のように表情を変えず、片手で朝香がナイフを握る右腕を掴んだ。

「可哀想に」

 巽の手の甲に筋が浮く。手首を捻られた朝香が小さく呻いた。みしりと嫌な音が響く。


 おれは全身に力を込めて巽にぶつかった。衝撃で巽が手を離し、朝香が床に叩きつけられる。ナイフが跳ねた。記憶の中の血溜まりが蘇り、意識が遠のきかけるのを必死で繋ぎ止める。


 おれは朝香の前に立ち塞がり、巽を見据える。

「……本当にお前が全部やったのか」

 巽は微かに口角を上げた。

「全部がどこまでを指すのかわかりません。私たちを知っているならわかっているでしょう。我々に個の意識はありませんから」

 本当にこいつはもうケガレそのものなんだ。足が震えそうになるのを何とか堪えた。


「お前の弟がケガレに取り憑かれてたって聞いた」

「私が憑けましたから」

「何で……」

「最適だったからです。弟は身体が弱く、学校に馴染めなかった」

 巽は淡々と答える。

「覚えていないと思いますが、折内さんはよく弟を見舞ってくれていたんですよ。ですが、五年生でクラスが変わって疎遠になった。裏切り者と貴方を恨んでいました。最期まで貴方を連れて行きたがっていましたよ」

 おれの喉が勝手に鳴る。奥歯がカチカチと鳴った。巽は溜息をついて目を伏せた。

「貴方がずっと友だちでいてくれれば、弟は取り憑かれなかったかもしれませんね」



 目の前が暗くなりかけた瞬間、視界の端に光が走ったような気がした。

 潜んでいた篠目が飛び出し、巽に右手を伸ばす。巽の額に篠目の指先が触れた瞬間、じゅっと音がして、黒い煙が立ち上った。


「ハガシ……」

 篠目の指が巽の額にずぶりと突き入れられる。焦げくさい匂いと煙が濛々と立ち上った。

「言い訳するなよ。悪いのは全部お前だ。他の誰のせいでもない」

 篠目は指を焼かれながら手を伸ばし続ける。指の第二関節までが額に沈み込んでいた。

「美鳥や碓氷だったら少しはお前に同情したかもな。俺はお前らを殺すだけだ。俺が来るまで好き勝手やった自分を恨め」


 篠目は皮膚を焼かれる苦痛に顔を顰めながら更に指を伸ばす。巽が笑った。いつもの微笑とは違う、顔中の筋肉を引き攣らせるような壮絶な笑みだった。


 黒い煙が爆発するように膨れ上がった。

 篠目が煙に弾かれて飛び退る。おれは篠目に駆け寄った。

「おい、大丈夫かよ!」

「くそ……」

 篠目が奥歯を噛む。一瞬で辺りが暗くなった。


 甲高い赤ん坊の泣き声が響いた。

 暗い廊下の壁や天井からどろどろと黒い煙が溢れ出す。煙は垂れ落ちる間に奇妙な人型を作った。赤ん坊のような小さな影が次々と吐き出される。

 煙に掻き消されて巽の姿が見えない。


 喉に石灰を流し込まれたように息が詰まり、器官が熱くなった。おれはえづきながら、烟る視界の中で朝香を探す。目が燻されて涙が溢れる。

「朝香ちゃん……」

 絨毯する煙が蠢き、四方を埋め尽くす黒い赤ん坊が一斉におれに向かって這い出した。


「恵斗!」

 篠目の声が聞こえた。傷だらけの手が闇を掻き、そこだけ煙が退いた。床に倒れる朝香の姿が見えた。

 おれは這うように朝香に駆け寄り、抱き起こす。

「しっかりしろ! 起きてくれよ!」

 朝香が小さく息を漏らした瞬間、耳元で泣き声が聞こえた。


 虫の大群のように黒い赤ん坊たちが押し寄せる。煙の中に皺くちゃの顔がいくつも浮かんだ。

 空洞じみた口で泣き叫びながら、膨れた指でおれに追い縋る。ひりつく痛みが全身に走った。


 赤ん坊の丸い唇がぱくぱくと開閉し、耳障りな声で笑う。振り払っても振り払っても、幼い手がおれに纏わりついて離れない。

 酸欠の頭が締め付けられるように痛んだ。どうすればいい。おれに何ができる。

 おれは身体を丸めて朝香を庇った。


 赤ん坊の手とは違う、白く細い手がおれの腕を掴んだ。

「朝香、折内くん」

 聞き間違いだと思いたかった。その声は未だに覚えている。

「ねえ。その手、離して?」

 籠原が思い出の中と変わらない綺麗な笑顔で、おれを見つめていた。

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