篠目雪魚.3

「おれが生きてたせいだ……」

 唇から独りでに言葉が漏れた。

「おれ、子どもの頃の記憶なくて、忘れてたけど、ケガレがおれを殺そうとしてたんだ。なのに、おらが逃げたから……」


 篠目は手を離し、冷たくおれを見下ろした。

「じゃあ、今死ぬのか? それで誰が喜ぶ?」

 走馬灯のように親父やお袋や友人たちの姿が浮かんだ。みんな悲しんでくれるはずだ。だからこそ、死ぬべきかもしれない。あいつらを巻き込まないで済む。


 考えを見透かしたように篠目がおれを覗き込んだ。

「ふざけんなよ。幸せそうなのが憎かったって通り魔に殺ろされたら被害者が悪いのか? 美鳥が刺されたのは首突っ込んだからか? 悪いのはケガレだろうが」

「でも、また他の奴が……」

「そうならないためにハガシがいるんだろうが!」


 篠目の瞳孔が微かに震えていた。折れた腕も、爛れた火傷痕も、痛みを堪えるように震えている。赤の他人のこの男は、自分を削ってまで、おれを助けようとしてくれている。今おれが死んだらそれも全部無駄になる。


 おれは口の端から溢れた唾液を拭った。

「悪い、血迷った。もう大丈夫だから」

 篠目は無言で目を逸らした。


 おれが立ち上がると、薄い光が差す路地から朝香が現れた。今にも倒れそうな真っ青な顔で自分を抱きしめるように両腕を固く組んでいた。

「ふたりとも、大丈夫ですか……」


 碓氷の事故を見てしまったんだろう。おれまでへばっていたら余計に不安にさせるだけだ。場違いだと知りつつ、おれは笑顔を作った。

 篠目が呆れたように舌打ちする。

「警察が来ると厄介だ。とっとと離れるぞ」



 篠目は救急車とパトカーが右往左往する大通りを進みながら、日出に電話をかけた。

「碓氷は駄目やったか……尻拭いさせてすみません」

 首を絞められているような掠れた声が重苦しく響く。


 篠目は歩調を緩めずに会話を続けた。

「ケガレは十年前に起こった事件を知っていた。何かしら因果がある。碓氷に気づかれずにケガレを憑けた奴がいるはずだ」

「元凶が近場にいてると。察しはついてはるんか」

「ああ、ほとんど答え合わせだ。碓氷がよく関わっていた奴は誰だ?」

 日出は永遠にも思える沈黙の後答えた。おれが知っている名前だった。


「嘘だろ!」

 おれが割り込むより早く、篠目は通話を切った。おれは言葉を失う。朝香も無言で立ち尽くしていた。

 救急車のサイレンだけが空に呑まれるように反響していた。

 篠目はスマートフォンをポケットに押し込む。

「予想通りだ。人間と見分けがつかないほど同化していたせいで、あと一手踏み込めなかったが、これで確信が持てた」


「本当なんですか……」

 朝香の問いに篠目が頷いた。

「明日で全部終わらせる。今日はおれの家に泊まれ。向こうが何か仕掛けてこないとも限らない」

「おれはともかく、朝香ちゃんは高校生だし、おれたちと一緒なんて……」

「大丈夫です。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんも私がいない方が楽だと思うから……それに、たまには友だちと遊べって言われてるし、泊まりに行くって言ったら喜ぶかも」

 朝香はこけた頰で笑みを作って見せた。両親と姉を失ったこの子にどんな苦労があったか、おれには想像もできなかった。



 三人でスーパーマーケットに行った後、篠目はおれたちを連れて住宅街へと向かった。

 一歩進むごとに日が暮れ、黒い街路樹と家々の影が混じり合い、胸がざわついた。


 篠目がここだと示したアパートは怪談の舞台になる廃墟のようだった。

 雨垂れで元の色がわからないほど汚れた壁は、所々が古い紙のように剥がれ、晴れているのに錆だらけの雨樋は濁った水を吐いている。

 黙り込むおれたちを余所に、篠目は赤茶けた扉に鍵を挿した。


 埃が絡んだ生ぬるい空気が押し寄せ、木造の廊下が現れる。篠目は尻込みするおれたちを見て肩を竦めた。

「綺麗すぎてホテルかと思っただろ」

 部屋は折り畳み式のベッドとちゃぶ台だけがあり、奥には仄暗い台所が見えた。


 篠目は押入れを開け、死体を入れるような黒い袋を床に投げた。

「美鳥が来たときに使ってた寝袋がある。あとはマットレスと夏掛けの布団しかない」

「じゃあ、朝香ちゃんは寝袋使って。おれはどこでも寝られるから」

 朝香が縮こまって頷く。押入れは本棚代わりなのか、大学の図書館で見かけるような民俗学や神学の書籍が大量に詰まっていた。


 おれたちは三人でビニール袋から惣菜を取り出し、背を折り曲げてちゃぶ台に座る。篠目が魚編の漢字が羅列された湯呑みを差し出した。おれは思わず吹き出す。

「寿司屋かよ」

「美鳥の私物だ。あいつの家に引き取られてから学校の給食にもこれを持って行かされた。お陰で綽名もつけられた」

 篠目は湯呑みの表面の一文字を指した。おれは何のことかわからなかったが、朝香が代わりに答えた。

「雪魚だから、鱈ですか」

 篠目は首肯を返し、何故かおれに視線を向けた。



 おれたちは電子レンジで温めた豆腐ハンバーグや筑前煮を箸で突いた。不自然な姿勢で食事をしていると、胃を圧迫する内容物を意識する。誰が死のうと、命の危険が迫ろうと、今のおれたちはどうしようもなく生きていることを実感した。


 ちゃぶ台を囲むおれたちの肩の隙間から冷たい風が吹き込む。何となく、今ここに籠原と健もいたらと思った。おれの知らない姉妹の会話や中学時代の話が聞けたかもしれない。怪談が好きな健は案外篠目と話が合ったかもしれない。

 三割引きの安い惣菜すら、今あのふたりは食べられない。おれは涙が滲みそうになるのを堪えて薄い茶を啜った。



 食事を終えて、朝香がシャワーを浴びる間、おれと篠目はベランダに逃げた。剃刀のような寒気が夜空の黒さを研ぎ澄ましていた。

 おれたちは灰皿代わりの空き缶を間に置いて煙草を吸う。暗闇でも鮮明に見える篠目の火傷痕が痛々しく、おれはわざと明るい声を出した。

「そういえばさ、意外だったな。嫌とかじゃなくて」

「何の話だよ」

「下の名前で呼ばれたの」

 篠目はしまったという顔をして、「昔の癖が出た」と言い捨てて目を背けた。


「おれたち同級生だったんだよな」

「本当に覚えてないんだな」

「……巽さんの弟を刺したってマジ?」

「ああ。ケガレには刃物が効くって言っただろ。あいつは取り憑かれてた。剥がすつもりでやったが、昔は力加減がわからなかった」

 おれは何も言えずに深く煙草を吸った。篠目は煙と共に吐き出す。

「ハガシとして、やれることは全部やってきた。何の意味もなかった」

「でも、お前に救われたひとはたくさんいるだろ」

「だから何だよ。手元に残ったのは傷と前科だけだ。もうハガシはやめる気でいたんだ」

「じゃあ、何で助けてくれてるんだよ」

「美鳥の仇だからだ」

 隣室の換気扇が悲痛な唸りをあげ、篠目の声をかき消した。星のない空に、煙草の先端の炎が明星のように輝いた。



 室内から音がして、濡れ髪の朝香が現れた。

 おれたちは空き缶に吸い殻を捨ててベランダから戻る。

 朝香はタオルで何度も頭を擦っていた。篠目がコートでぐるぐる巻きのドライヤーを投げ渡す。

「髪が長いと乾きにくいだろ」

「はい……篠目さんもそうですよね。髪伸ばしてるのは理由があるんですか」

 篠目はひとつに結んだ髪を避けて首筋を見せた。頸には一筋の赤い傷があった。

「昔、美容師にやられた。そいつもケガレに憑かれてたんだ。人前で首筋を晒すのはやめた。自分で切れる長さにしてる」

 おれはまたかける言葉がわからずに口を噤む。


 朝香は寝袋に腰掛け、窓に映る自分を眺めながら言った。

「姉さんも中学まではこのくらい髪が長かったんです。今の私みたいだった」

 おれの知る籠原からは想像できなかった。朝香は自嘲気味に微笑む。

「姉さんはいじめられて学校も行けなかったの。でも、高校生になって変わって。私、よかったって言っちゃった。ケガレに乗っ取られてたなんて知らなかったから」


 声がどんどん細くなった。おれは朝香の隣に腰掛ける。

「おれもだよ。健に今の方がいいって言っちまった。籠原の昔のことも全然知らなかった。たぶん苦しませてたよな」

 朝香は何度も首を横に振った。

「姉さんがああなった日、私たちバレンタインのチョコ作ってたんです。折内さんにあげるはずだったの。ケガレに乗っ取られてても、姉さんが折内さんの話をするとき嬉しそうだったのは嘘じゃなかったと思います」

 俺の喉から息が漏れた。今更おれが何を言えるだろう。ただ謝りたいと思ったが、それすら資格がないと思った。


 朝香がおれを見上げた。

「カーディガンも、ありがとうございました」

 おれは必死で言葉を紡ぐ。

「それだけだろ。おれ何もできてないよ。本当に何も……」

「それだけでいいんだよ」

 篠目が短く口を挟んだ。

「ケガレは人間の孤独に漬け込む。戦うために必要なのは善意だけだ。それだけが救いになる」

 おれと朝香は頷くとも俯くともわからずに頭をもたげた。



 明かりを消した廊下でマットレスに横たわり、薄い布団を被っていると、寒さと硬さで目が冴えた。

 明日には元凶と羽目になる。おれにできるだろうか。

 裸足で腐った床板を踏む音が響き、おれは身を竦める。篠目がおれを見下ろしているのがわかった。おれは寝たふりをしながら思考を巡らせる。ハガシですらケガレに乗っ取られたんだ。こいつが安全と言えるだろうか。


 突然身体に何かが覆いかぶさって、おれは跳ね起きた。毛羽だったウールの感触が鼻をくすぐる。

 夏掛けの布団に、毛玉だらけのセーターとダウンジャケットが被せられていた。


 篠目はマフラーをおれの上に放ってベッドに戻った。温かさが徐々に身体を埋め尽くし、おれは眠りに落ちた。

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