篠目雪魚.2

「何だよこれ……」

「ケガレを取り憑かせるためのきっかけだ。呪いの札だと思えばいい」

 篠目は病院の外に出てから、ライターで紙を焼いた。呪いの札は呆気なく燃え尽き、篠目の爪の間に残る灰となった。


 篠目は側溝に灰を捨て、病院前のバス停を睨む。

「碓氷のところへ行く。お前らも来い」

 朝香が小さな肩を更に縮めた。

「私たちもですか?」

「またケガレが襲ってきたらどうする。碓氷を締めるときはついてこなくていい。俺の目の届くところにいろ」


 緑の車体に青空と病院を映したバスが訪れ、おれたちは奥の座席に乗り込んだ。

 朝香は俯いてバスの振動に揺られ続けている。おれは篠目が握る空の御守り袋を見下ろした。


「健は『もう大丈夫』って言ってたんだ」

 篠目が訝しげにおれを見る。

「碓氷ってひとに祓ってもらって安心したんだと思う。それなのに……」

 おれは奥歯を強く噛む。

「マジで碓氷ってひとが健を呪ったのか。ハガシはケガレに対抗できるんだろ」

「碓氷は雑魚だから負けた」

「雑魚って……」

「実力より精神の問題だ。あいつはケガレを同情して安楽に成仏させる術を探してた。そのために既存の宗教にも頼った馬鹿だ」


 篠目は冷然と告げる。

「昔、クリスチャンのハガシがいた。ケガレも神の被造物である以上掬われるべきだとか言ってたな。そいつがどうなったと思う?」

 おれは首を横に振った。

「ケガレに乗っ取られて自分の目に十字架をぶっ刺して死んだ」

 篠目は言葉を失うおれに構わず続ける。

「ケガレに同情すれば漬け込まれる。人間の弱みに滑り込むからな。お前も気をつけろ」

「おれも?」

「死にそうな面してるぞ」

 おれは自分の顔を撫でた。一日で頰がこけ、剃り忘れた髭が皮膚の下から微かに突き出していた。怖い話を好むのは不幸な奴だけだと信じていたのが、今になって皮肉に響いた。



 バスが停車し、スクールバッグを背負った学生たちが乗り込んできた。賑やかになった車内で、篠目の声が掻き消されかける。

「お前は文学部だったな。日本神話は?」

「必修で少しだけ」

「学費ドブに捨ててんのか」


 篠目は苛ついたように舌打ちし、胸ポケットの煙草を触った。

「穢れってのは黄泉の国から湧いて出て、死や山病、怪我をもたらす。そこに悪意はない。ただそういうものだってだけだ。死後の世界があるのかは知らないし、ケガレには悪意があるとしか思えないけどな」

「……ケガレも理由なしで湧いて出てくる不幸の元凶って話?」

「わかってんじゃねえか。ケガレは気が枯れると書くんだ。気力が枯れ果てると乗っ取られる。それを回復させるのが神事や祭事、ハレとケの晴れの儀式だ。ハガシの語源も元は『晴れ師』らしい」

「何か壮大だな」

「現状は程遠いけどな。今のハガシでまともな生活を送れる奴なんてほとんどいない。寧ろ誰よりもケガレに近い日陰者だ」

 篠目は火傷痕を吊り上げて自嘲の笑みを浮かべた。おれと同級生だというこの男は、すでに一生分以上の傷を負っている。


 おれは視線を伏せて聞いた。

「……勝てんの? 碓氷って奴もやられたんだろ」

「今生きてるハガシの中で、たぶん俺が一番強い」


 篠目が答えたとき、ブレーキ音が鳴り響き、バスが急停車した。吊り革にぶら下がって駄弁っていた学生たちが転倒し、優先席の老女が手すりに頭を打ち付けて呻く。

 おれは声にならない悲鳴を上げた朝香の手を握り、フロントガラスの向こうを見た。

 一台の黒い乗用車がバスにぶつかる寸前で停車し、白煙をあげている。


 篠目が短く言った。

「ここにいろ」

 止める間もなく、篠目は運転手の制止を振り切って無理やりドアを開け、車外に飛び出した。車内が混乱の声と怒声で満ちる。

 車道から歩道へと駆ける篠目の後ろ姿は、細く頼りない。おれは篠目を追って車外に出た。



 窓から漏れる運転手と乗客の声が背に降りかかった。

 歩道では既に野次馬がスマートフォンのカメラをバスに向けている。黒い乗用車の運転席は開け放たれ、中は無人だった。

 薄いスニーカーの靴底に噛み付くアスファルトの凹凸を感じながら歩道を走る。篠目が路地の角を曲がるのが見えて、おれは足を早めた。



 路地裏に入った途端、生ゴミの腐臭と湿った風が押し寄せた。地面は建物の影と同化した暗い水で濡れている。

 最初に篠目の背が見え、次に相対する男の姿が見えた。おれより少し年上の、真面目そうで品が良い青年だった。この男が碓氷か。


 篠目が苦々しく呟く。

「東京まで何しに来た」

 碓氷は怯むことなく微笑を返した。

「ニュースを聞いて駆けつけたんだ。責任を感じるに決まってるだろ。穴水くんは……」

「お前がケガレを取り憑かせたんだろ」

 碓氷の瞳は篠目ではなく、何処か遠くを見ている。違和感に気づいた篠目が振り返り、目を剥いた。


「恵斗、来るな!」

 篠目の肩越しに、碓氷が笑った。顔中の筋肉を吊り上げられたような笑い方だった。

「折内恵斗か」

 何でおれを知っている。碓氷は耳まで裂けそうな唇で言った。

「道理で。おかしいと思ったんだ。穴水くんの中にいたケガレは赤ん坊だったのに、もうひとつ成長しきった者がいたから」

「何の話だよ……」

「全部君に繋がっていたんだな」

「恵斗、聞くな!」

 篠目の顎から冷汗が伝い落ちる。


 碓氷は喉を鳴らした。

「折内くん、君の周りで不審死が多かっただろう」

「何でそれを……」

「当然だ。ケガレは君を追っていたんだから。十年前、君は殺されるはずだったのに逃げ延びてしまった。ずっと君を付け入る隙ができるのを探してたんだ。でも、君はなかなか不幸にならなかった」

 心臓が膨れ上がった。鼓動が騒がしく、血管を突き破って破裂しそうだった。

「君が死んでいれば他のみんなは無事だったのに。図太いんだな。自分のせいでひとが死んでもお構いなしか」

 意識が遠のく。十年前、おれがケガレに狙われていた。たぶん記憶を失ったときのことだ。おれが死んでいれば、籠原も健も美鳥も無事だった。


「黙れ!」

 篠目の声が手放しかけた意識を引き戻した。篠目は地を蹴って、左手を碓氷の額に伸ばす。碓氷は身を捩り、篠目のギプスを蹴り上げた。

 篠目が蹲った隙に、碓氷が駆け出す。


「待て!」

 碓氷は笑いながら路地から飛び出した。クラクションと、タイヤが骨肉を磨り潰す、凄まじい音が響き渡った。路地の向こうから悲鳴が聞こえる。

 硬い音がいやに柔らかく湿った音に変わるまで、碓氷はずっと笑っていた。


 路地裏にビー玉のような丸いものが転がり込んだ。ガラスと違って跳ねることはなく、熟れたトマトのようにぺしゃりと地面に張りついて止まる。

 白濁した眼球だった。



 無意識に叫び出したおれの両目を篠目の左手が覆う。指の震えが伝わってきた。

 何もかも、全部おれのせいだ。

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