篠目雪魚.1
「マジかよ……」
朝香が何度も頷く。
「篠目さんは姉さんの同級生で、姉さんがおかしいってわかってからずっと助けようとしてくれてたんです。火傷も、火の中に飛び込んだときに……」
白いマスクの下からは赤い蝋を幾重にも重ねたような生々しい火傷が覗いていた。
「ストーカーみたいなことしてたってのは?」
篠目が舌打ちする。
「おたくの娘さんが取り憑かれてるんで除霊させてくださいって言って家にあげる馬鹿親がいるか? 何とかできる機会を伺ってたんだよ……間に合わなかったけどな」
俯く篠目の顔には、混じり気のない後悔が浮かんでいた。
「じゃあ、籠原は今みたいな化け物に取り憑かれてたっていうのかよ」
「まあな。お前らももう他人事じゃないか」
篠目はロビーを見渡し、溜息を吐いた。
「夜勤明けで飯も食ってない。ついてこい、向こうで話す」
連れて行かれたのは、院内のコンビニエンスストアの小さな飲食スペースだった。
隣の席ではジャージ姿の中学生が部活仲間の骨折を嘆いていた。篠目がマスクを外すと、少年たちが火傷痕に視線を注ぐ。おれは椅子を動かし、中学生たちの目を遮るように座った。
スツールの上で縮こまった朝香が呟く。
「篠目さん、あれは何なんですか。幽霊なんですか」
「ケガレだ」
篠目はギプスにカップ麺を乗せて器用に啜りながら、暗い声で話し出した。
人間を乗っ取り、別人のように明るく振る舞い、惹きつけた他人も自分も殺すケガレ。それに唯一対抗できるハガシ。ホラー映画の筋書きとしか思えない話が淡々と語られる。中学生たちの談笑が別世界のように思えた。
話が終わり、沈黙が安っぽい木目加工のテーブルを這った。籠原も健もケガレに人生を奪われた。ふたりだけじゃなく、周りのみんなまで。
乾いた唇を噛む朝香の横顔が見えて、おれは拳を握りしめた。
「……ケガレが人間の身体を操って他人を殺すなら、何でおれたちはさっき直接襲われたんだよ」
「思ってたより冷静だな」
篠目は火傷痕を歪めるように口角を上げた。
「ケガレはウィルスと同じだ。普通の人間の目に見えないだけで常にそこら中に彷徨いてる。一度ケガレや取り憑かれた人間と関わった奴は門を開けたようなものだ。存在を感じ取れるし、逆に向こうからも襲ってくる」
朝香が授業中の生徒のように小さく手を挙げる。
「今は取り憑かれてる穴水さんの意識がないのに、ケガレだけで動けるんですか」
「ケガレは個体じゃない。ウィルスと同じって言っただろ。風邪を治したところで世界から菌が消える訳じゃない。免疫が弱ってたらまた別の病気になる。そういう話だ」
椅子の足がカタカタと鳴り、朝香の震えが伝わった。不安がるのも当たり前だ。これからいつどこでもケガレに狙われると言われたようなものだ。
篠目はカップ麺の容器でテーブルを叩く。
「ケガレは寄生した宿主の記憶を学習する。憑かれて死んだ奴しか知らない情報を持ってることもある。惑わされるなよ」
ネットカフェで黒い人型が現れたとき、籠原の声が聞こえた。あの懐かしい声もケガレの仕業かと思うと、腹の底から怒りが迫り上がった。
おれは深呼吸して、ポケットの中の御守りを確かめる。
「ケガレに御守りやお祓いって効くのか」
「祓える訳ねえだろ。死人じゃないんだから。御守りも意味がない」
篠目は怪訝に眉を顰め、身を乗り出した。
「……お前、何か持ってるだろ」
おれは迷いつつ、健が落とした御守りを差し出す。篠目は左手で素早く引ったくると、壮絶な表情をした。
「誰からもらった」
「誰って、健が落としたんだけど」
篠目は手の平の上に仇がいるように御守りを睨みつけ、途端に立ち上がった。
「美鳥のところに行く」
怪我人とは思えない速さで歩き出した篠目を追いかけ、入院棟に踏み入った。濃厚な消毒液の匂いに息が詰まる。
篠目は最奥の部屋の扉を開け放った。朝香が喉を鳴らして呻いた。
ベッドに横たわる美鳥は、元気な頃が思い出せない姿だった。
顔は泥を塗ったような土気色で、全身に無数のチューブが繋がれている。酸素マスクの曇りで呼吸していることだけはわかる。虫に管を刺されて樹液を吸われ、枯れ果てようとしている樹木を連想した。
「馬鹿が、度量超えたことまで首突っ込みやがって……」
篠目は吐き捨てると、美鳥の腹の上に手を翳し、砂を掴んで放るような仕草をした。美鳥の青黒く変色した目蓋が僅かに開く。
「雪魚……?」
心電図を示す機械が高く鳴った。美鳥は白い絆創膏を貼った口元で微笑む。
「ごめんね、結局頼っちゃって……」
「いいから寝てろ。手だけ借りるぞ」
篠目は無造作に布団に手を突っ込み、美鳥の腕を引き出した。黄斑と注射痕が彩る痩せこけた腕だった。篠目はベッド横のスマートフォンを美鳥の指に押しつけ、ロックを解除する。
美鳥が再び眠りに落ちたのを確かめてから、篠目は病室を出て、スマートフォンを耳に押し当てた。
通話音が響き出す。何をしようとしているのか。
おれと朝香の視線に気づいたのか、篠目は舌打ちしてスピーカーフォンに切り替えた。
電話の向こうから、関西訛りのあるしゃがれた声が聞こえた。
「美鳥さん、起きはったんか。ニュースで見て……」
「まだ起きてない」
篠目が短く答えると、電話の向こうの相手は息を呑んだ。
「雪魚くん……そうか、もう君しか太刀打ちできへんか。美鳥さんは君を巻き込まんように必死だったんやけど」
「悪いが、世間話してる時間はないんだ。
日出という男はしばし黙り込んでから答えた。
「ああ、受けた。あんとき私が行ってればよかったんやけど」
「別のハガシを派遣しただろ。誰だ?」
「
篠目は沈鬱に首を振り、電話に何かを囁いた。日出の裏返った声が反響する。
「そないなはずないやろ!」
「現にそうなってる。碓氷は今どこにいる?」
通話が途切れたかと思うほどの沈黙の後、日出が言った。
「責任感じてもう一度対処するいうて、今東京に来てるはずや」
日出はまだ詫びを告げていたが、話が終わる前に篠目が電話を切った。
篠目はスマートフォンをジーンズのポケットにしまい、代わりに御守りを取り出す。
「やりやがったな……」
「やりやがったって、誰が何を?」
「碓氷ってハガシが祓うふりして穴水に呪いをかけやがった」
「何で……」
「自覚できないままケガレに取り憑かれてたんだろうな」
「嘘だろ!」
篠目は詰め寄るおれの目の前で御守りの袋を破り、中身を突きつけた。くしゃくしゃに折り畳まれた和紙だった。
紙面には濃い墨で呪文じみた筆文字と、檻に囚われた鼠のような禍々しい絵が描かれていた。
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