穴水健.3

 コンビニで買ったサンドイッチを会議室で頬張りつつ、僕と折内はお互いに顔を見合わせた。


「あのひと、何だったんですかね」

「ヤバい奴だったら子どもに何かする前に美鳥さんたちに伝えないとな」

 折内は意外なほど険しい表情をする。


 ちょうど巽と美鳥が大きなペットボトルとスナック菓子を抱えて戻ってきた。

 折内がすかさず荷物を代わりに持ちながら、先ほどの男のことを伝えると、美鳥は大きく溜息を吐いた。

「あいつまたやったの」

「よく来るんすか」

「ここの清掃スタッフ。ごめんね、変な奴だけど悪さはしないから気にしないで。会ったら締め上げておくから」

 彼女は快活に両の拳を握ってみせた。



 廊下の向こうからパタパタと軽い足音がたくさん聞こえた。勢いよく扉が開くと、小学生くらいの子どもたちが一斉に雪崩れ込んできた。


「みどりさん、たつみさん、こんにちは!」

 ふたりが笑顔で子どもたちを出迎える。肌寒いというのに半袖の少年が僕と折内を指さした。

「知らないひとがいる!」

 巽が諌めるような苦笑を浮かべる。

「今日からお手伝いに来てくれたんですよ。ちゃんと挨拶しないと」

 僕は努めて笑顔を浮かべたが上手くできたかはわからなかった。折内は屈んで彼らと視線を合わせる。


「おれは恵斗。大学二年生。よろしくね」

 半袖の少年が舌を出す。

「大学生ってジジイじゃん」

「そういうこと悪いこと言う奴は……こうだ!」

 折内は両腕で少年を高く抱き上げた。少年は身を捩ってもがいたが、顔中に笑顔が滲み出していた。他の子どもたちも折内に群がる。


 僕の周りには透明な膜があるように誰も寄り付かない。僕は遠巻きに眺めつつ、折内が子どもの相手を一手に受けてくれたことに安堵した。



 部屋中が騒がしくなり、美鳥に抱きつく少女や、挨拶もそこそこに机上の絵本を物色する少年でごった返した。皆、どこにでもいる元気な子どもたちで、近しい人々の死を経験しているようには見えない。


 そのとき、ぎぃと陰鬱な音を立てて扉が開いた。部屋の空気が急に冷たくなった気がした。

 現れたのは紺のブレザーを着た少女だった。高校生だろうか。真っ暗な髪をだらりと伸ばし、視線を避けるように俯いている。

 先に来た子たちよりずっと年上で、彼らと同種の明るさは微塵もない。僕が同じ高校にいたら、自分にも話しかけやすいと判断だろうと思った。


 子どもたちも少女に対しては気後れするのか、あからさまに目を背けた。美鳥は入り口に立ったままの少女に微笑みかける。

「来てくれてありがとうね。もうすぐ始まるから座って」

 少女は細い声で答え、一番隅の椅子に腰を下ろした。



 巽は澱んだ空気を切り替えるように手を叩いた。

「皆揃ったことだし、始めましょうか」

 折内の背にぶら下がっていた少年が素早く駆けつけ、絵本を取り上げる。

「こんなの読むの? つまんねー」

 彼は机に身を乗り出した。

「怖い話がいい!」


 美鳥が眉を下げた。

「もう、怖い話は読み聞かせが終わってからでいいでしょ」

 子どもたちが一斉に騒ぎ出す。

「いいじゃん、前はトイレの花子さんの話読んでくれたよね」

「もう学級文庫のやつは全部読んじゃったもん」

「お願い。クラスのみんなに新しい話するって言っちゃったの」


 僕は巽の言葉を思い出した。

 死を連想させる物語を避けるスタッフに反して、彼らの中では怪談が流行っているようだ。

 僕の胸の底が小さくざわめいた。


 半袖の少年が折内の腕を引く。

「ねえ、怖い話好き?」

「おれ? おれはあんまり……」

「怖いんだ?」

 折内は頰を引き攣らせた。意外な弱点だ。少年はひとしきり彼を揶揄った後、僕に視線を向けた。


「そっちは?」

 何の遠慮もないふたつの瞳が僕を見上げる。僕は唾を飲み込んで言った。

「……好きだよ」

 子どもたちが歓声を上げた。


「聞きたい、聞きたい!」

「何か喋ってよ」

 僕の周りに少年少女が押し寄せる。言ったことを後悔しかけたが、これは好機だ。折内に任せきりで終わるよりずっといい。

 僕は頭を高速で回転させる。子どもでもわかりやすく、適度に怖がってもらえる話はあるだろうか。


 僕は乾いた唇を舐め、言った。

「じゃあ……とあるホテルで起こった話です」

 子どもたちが期待の眼差しを向ける。先程の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 僕は勿体を付けた抑揚で語り出す。

 あるホテルに泊まった男が、真夜中ノックの音で目を覚ます。ドアスコープを覗くが誰もいない。空耳かと思って眠りにつくと再び音がする。不気味に思いながら一夜を過ごす。そんな怪談だ。

 いつかの深夜番組で聞いた話だが、バレないだろう。


 子どもたちは耳を半分塞ぎ、所々で悲鳴を上げた。巽と美鳥も真剣に聞いてくれている。折内だけは青い顔で彼らの輪から離れていた。本当に怪談が苦手なのだろう。


 僕は優越感を覚えながら、ゆっくりとオチを語る。

「後からわかったことですが、このホテルでは昔火事があり、閉じ込められて亡くなった方が夜通しドアを叩き続けていたそうです。つまり、彼は一晩幽霊のいる部屋で……」

 耳をつん裂くような悲鳴が僕の声を掻き消した。



 部屋中に響き渡るサイレンのようだった。子どもが遊び半分で上げる声じゃない。殺されかけているような悲鳴だった。


 僕は呆然と部屋を見回す。子どもたちの視線が一点に注がれていた。隅の席に座る女子高生だ。

 彼女は伸び放題の髪を掻き毟り、眼球が飛び出しそうなほど目を剥いて叫び続けていた。

 怪談に真剣に怖がるような年でもない。それを差し引いても、怯え方が異常だった。


 離れた場所にいた折内が彼女へと一歩踏み出す。

籠原かごはらの……」

 折内の声に少女が弾かれたように顔を上げた。彼女は恥辱に全身を震わせ、椅子を蹴り飛ばして駆け出した。

朝香あさかちゃん!」

 美鳥が慌てて追いかける。部屋は息が詰まりそうな沈黙で満ちた。


 僕は冷え切った空気の中心に立ち尽くした。

 罪悪感と疎外感が一度に押し寄せる。またやってしまった。

 廊下から響く、少女の甲高い泣き声に耳を塞ぎたくなる。そんなことをしてもやってしまったことは消えないし、逃げたら余計に責められるだけだとわかっているのに。


 天井に垂れ下がる「"ことりの家"主催読み聞かせボランティア」の垂れ幕が小刻みに震えていた。

 僕は無意識に子どもたちを押し退け、会議室の外へと向かっていた。



 暗い廊下を進み、非常階段に出ると、冷えた刃のような風が全身に吹きつけた。

 何でいつもこうなるんだろう。僕はそんなに悪いことをしただろうか。ただひとつ自分にできる特技とも呼べないようなこと、怪談を求められて応えただけだ。

 確かにここで行うには不適切だったかもしれない。でも、求めたのはその子どもたち本人じゃないか。



 冷え切った灰皿にもたれて蹲ったとき、ガラス扉が開いた。


 巽と最前列で僕の話を聞いていた二つ結びの少女が、気遣わしげに僕を見つめていた。僕は顔を拭って表情を繕う。

「すみません……」

 二つ結びの少女が僕の肩に触れた。

「お話面白かったよ」

 幼い子どもにまで気を遣われていることにまた情けなくなった。


 巽は聖職者じみた笑みを浮かべて僕の隣に座る。

「こちらこそ申し訳ない。私の配慮が足りませんでしたね。彼女はご家族を火事で亡くしているんです。お姉さんの放火の末の無理心中だったとか」

 僕は息を呑んだ。この前見た動画が脳裏に蘇った。焼死体のような無残な家。まさか、あれが彼女の家だろうか。


 僕は唇を震わせた。

「ごめんなさい。僕、いつもこうなんです。言うべきことは言えないのに、ろくでもないことばっかり言って、他人を傷つけて……」


 巽は静かに何度も頷く。二つ結びの少女が僕の袖を引いた。

「じゃあ、おまじない教えてあげよっか」

「おまじない?」

「上手く喋れるようになるおまじない。わたしもやってるの」


 困惑する僕に、巽が囁く。

「学校で流行っているそうです。大人として勧めるのは憚られますが、気持ちを切り替えるために必要かもしれませんね」

 少女の瞳に僕の顔が反射する。巽の言う通り、こんなのは子ども騙しだ。

「……教えてくれる?」


 それでも、僕は趣味の怪談すらも上手に喋れない自分を変えたかった。

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