穴水健.4
おまじないの工程は子どもが教えてくれたとは思えないほど手が込んでいた。
まずペンと紙を用意する。ペンは何でもいいが、後で線を引くから、紙は罫線ノートが適しているらしい。紙の中央に黒い楕円を描き、その上から何重もの線を引く。
僕は小学生の頃から使っている学習机で、指の付け根を真っ黒にしながら筆を走らせた。
自分でも馬鹿げているとは思う。霊的な効果があると思っている訳じゃない。オカルトを楽しむのと信じるのは別だ。
科学的に解釈するなら、この行為自体が写経のように心を落ち着ける効果があるのだろう。今はそれで充分だ。
線を引き終えたら、周りを囲うように文を書く。
少女曰く、「本当はもっと長くて難しいけれど真剣におまじないをすれば大丈夫」らしい。如何にも子どもに流行りそうな適当さと真面目さが混在したやり方だ。
僕はスマートフォンを開き、少女が見せてくれた紙を撮影したものを出す。
「読みからおはりや、書く遊ばせたまえ、降りおりて、語りかたりましませ」
判読は難しいが、おそらくそう書いてある。
僕は首を捻った。
小学生のおまじないとは思えない。まるで神主が地鎮祭で相乗する祝詞のようだ。
「読む」と「書く」はおまじないのやり方を表しているのだろう。きっと本来なら「遊ばせ」は遊びではなく神への敬意を表す「あそばせ」だ。
荘厳な響きに、こんなに気軽にやっていいのかと疑問が湧き起こる。
僕はスマートフォンにおまじないの言葉を打ち込んだ。いくつか検索にヒットしたが、星占いやキューピット様のような遊戯と一緒に安易なおまじないとして紹介されているだけだ。
別段危険性はないように見える。
僕は筆を置き、何を真剣になっているんだと自嘲した。後は今書いた文をそのまま唱え、紙を枕の下に入れて眠るだけ。
いざ口にしようと思うと、誰に見られている訳でもないのに気恥ずかしくなる。気持ちの切り替え、ただのルーティンだ。
僕はそう言い聞かせて唇を開いた。
「読みからおはりや、書く遊ばせたまえ、降りおりて、語りかたりましませ」
脳の芯が何かに殴られたように揺れた感覚が響いた。
その夜、夢を見た。
僕は歯科検診のように顎を持ち上げられ、頰を掴まれる。
上を向いて大きく口を開けた僕の両唇を、乾いた手が更に開けろと上下に揺する。唇がひび割れ、顎の筋肉が引き攣る。土塊のように乾燥した指が口腔を弄り、唾液が脇から滴った。
痛みはないが、ぷちぷちと両の頰の筋が裂ける嫌な音がする。
僕は顔を左右に振って拒むが、乾いた手の力が強く、離れない。
嫌だと思う間もなく、十本の指が喉へと押し入った。気道と食道を塞がれる。えづいて迫り上がった胃液が指に阻まれて逆流した。息が喉の奥で詰まって声も出ない。涙と唾液と鼻水で曇った視界に黒い靄が映った。
指はどんどん奥へと押し入ったかと思うと、急に捻れて上を目指した。頚椎をまさぐられる感触。有り得るはずがないのに、指は肉を押し広げて、頭蓋を貫通し、脳に直接滑り込んでくる。
やめてくれと叫ぶこともできない。乾燥した指が脳漿を吸って膨れながら、柔らかい脳をかき混ぜた。
頭蓋骨の内側をざらりとなぞられる感触が走った。次の瞬間、脳の奥で黒い花弁が開き、炸裂した。
僕は叫びながらベッドの上で飛び起きた。
汗で湿ったシーツが絡みつき、悪夢の中の感触を蘇らせる。
最悪な夢だった。不気味なおまじないなんてしたからだろうか。喉を摩ると、まだ乾いた指が詰まっているような違和感を覚える。
僕はふらつきながら洗面台へ向かった。
蛇口を捻って、冷水で顔を洗い、喉の違和感がなくなるまでうがいをする。
びしょ濡れの顔を上げ、思わず飛び退いた。
鏡に映っているのは、僕自身だ。幽霊が映り込んだ訳でもない。それなのに、何故か恐ろしかった。
これは本当に僕の顔だろうか。
僕から目を背けつつ、ゆっくりと額から顎までなぞる。
目蓋の肉、短い睫毛、鼻の骨の凹凸、頬骨の硬さ。唇に触れると、乾燥で裂けた部分が指先に引っかかって鈍い痛みを覚えた。紛れもなく僕の顔だ。
腕を上げると、鏡の中の僕も同じ動作をする。それが何故か不気味だった。
僕はなるべく鏡面を見ないように髭を剃り、髪を梳かして、眼鏡をかけた。
電車に乗っている間もあの夢がちらついて落ち着かなかった。窓ガラスに反射する自分が怖い。
おまじないの効果なんてあったもんじゃない。毒つきたくなるのを何とか堪えた。
きっと、悪夢を見たのは昨日のボランティアで嫌な思いをしたからだ。自分で思う以上にストレスがかかっていた。
冷静になると、昨日挨拶もそこそこに読み聞かせ会から逃げ帰ったことを思い出した。運営のふたりはどう思っただろう。折内だってそうだ。でも、単位のためには途中で辞めることもできない。
向き合わなければと思うほど逃げ出したくなる。こういうときは座席の前に立つ人々の脚も、地下鉄のホームの柱も、自分を現実に閉じ込める檻に見える。
僕は憂鬱な思いで大学に向かった。
講堂に入るなり、前から二番目の席に折内の姿を見つけた。同じ授業を選択していたことすら知らなかった。会いたくないと思うほど引き寄せるものだ。
僕は咄嗟に顔を背け、目を瞑る。そんなことをしても世界が消えてくれる訳ではないとわかっているのに。
気づかなかったふりをして奥の席に座り、やり過ごしてしまおうと思った。いつもの僕ならそうしている。
だが、僕は目を開いて顔を上げ、真っ直ぐに折内の方へ進んでいた。
自分の身体が自分じゃなくなったみたいだ。
スマートフォンをいじっていた折内が僕に気づいて視線を上げる。彼は一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに笑顔を繕った。
「穴水くん、お疲れ。昨日大変だったな」
「折内くんこそ大変だったでしょ。いろいろ押し付けちゃってごめん」
一瞬誰が言ったのかわからなかった。僕は呆然と自分の唇の動きを確かめる。
考えるより早く言葉が堰を切って口から溢れた。
「僕のせいで迷惑かけちゃったのに、ちゃんと責任を取らずに逃げて申し訳なかった。次のボランティアでちゃんと謝ってやり直したいんだ。烏滸がましいとは思うけど、折内くんさえよければまた一緒に行ってくれないかな」
僕は自分が信じられなかった。こんな風に相手の目を見て正面から謝罪するなんてできた試しがない。一体どうしてしまったんだろう。
折内は目を丸くし、満面の笑みを浮かべた。
「全然いいよ! いや、よかったわ。穴水くん凹んでるのかと思って正直話かけ辛かったからさ」
「みんなに迷惑かけてあの子も傷つけたのに僕が落ち込むなんて筋違いだよ」
「そっか。何ていうか、穴水くんすげえ大人だね」
彼は僕を見上げて頷いた。対等な相手を認めた仕草だと思った。心の内に喜びが湧き上がる。
「穴水くん、次回の作戦会議しようぜ」
「作戦会議って何?」
「ちゃんと謝って受け入れてもらうための作戦だよ。とりあえず隣座れって」
折内の砕けた口調に笑みが漏れる。僕は促されるままに隣に腰を下ろそうとした。
木製の椅子にただ腰を下ろすだけなのに、目測を誤って僕は危うくずり落ちかけた。折内が肩を小突く。
「おい、大丈夫かよ」
内心羞恥と劣等感で顔が赤くなりそうだったが、ごく自然に照れ笑いを浮かべることができた。
「大丈夫、ちょっと滑っただけ」
「お爺ちゃんかよ」
「眼鏡の度があってないんだって! こういうことたまにあるんだよ」
「眼鏡買い換えろよ!」
折内は声を上げて笑う。僕もつられて笑った。
本当は眼鏡の度は合っているし、こんなことが頻繁にある訳でもない。
僕は眼鏡を外して、シャツの裾でレンズを拭きながら言った。
「そういえば、名字じゃなくて健でいいよ。同い年だし」
「おう、おれのことも恵斗でいいから」
ごく自然な会話だ。ずっとやりたかったことだ。
僕は眼鏡のツルを握りしめる。これはきっとおまじないのお陰だ。
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