穴水健.5
おまじないの効果は絶大だった。
科学的に考えるなら、毎晩のルーティンと自分を変えようという意識が潜在的に働いて、行動に影響を及ぼしているんだろう。だが、心のどこかで現実離れしたものを感じてしまう。
授業のグループワークでは押し付けられたリーダー役を難なくこなして、教授から太鼓判を押された。ゼミの発表の帰りに夕飯に誘われ、同級生の女子からレポートの手伝いを頼まれたときも、嫌味にならないようアドバイスできた。
まるで魔法だ。
優秀な運転手に身体の操作を預けて、自分は助手席でふん反り返っているだけでいい。そんな風に思えてしまう。
憂鬱だったボランティアも待ち遠しくなった。早く変わった自分を見せたいと思った。
自死遺児支援"ことりの家"の読み聞かせ会場に着くと、奥から静かな話し声が聞こえた。
主催のふたりと長い黒髪の少女が向き合っている。前回僕が怪談を披露したとき絶叫した、火事で家族を亡くしたという少女だ。
折内がすっかり気安くなった仕草で僕の肩を叩く。
「健、頑張れよ」
僕は力強く頷き、扉を押した。
「失礼します!」
僕の声に巽と美鳥がこちらを向く。少女も俯きがちに顔を上げた。彼女の顔が恐怖や忌避で塗り潰される前に、僕は素早く歩み寄った。
「この間はごめん!」
少女は困惑気味に目を瞬かせる。僕は子ども相手にはやりすぎなほど深く身を折って言った。
「軽率にあんな話をして配慮が足りなかったと思ってる。嫌な思いをさせて本当にごめん。傷つけるつもりはなかった。皆に楽しんでほしかっただけなんだ。無理強いはしないけど、よかったら、今日も参加してほしい」
少女は暫く視線を泳がせた。驚いてはいるが嫌がっている様子はない。やがて、彼女は痙攣するように頷いた。
「こっちこそ、ごめんなさい……よろしくお願いします……」
僕は安堵の溜息を吐く。
後ろからやってきた折内がよくやったと背中を叩いた。巽は静かに微笑んでいた。美鳥が八重歯を見せるように口角を上げる。
「かっこいいじゃん」
子どもたちが次々と部屋に入ってきた。
今日も半袖のTシャツを着た少年が僕の太腿に縋りつく。
「怖い話は? 今日もする?」
皆、期待と不安の入り混じった目を向けた。子どもたちの向こうで例の少女が小さく頷く。僕は大人らしく鷹揚に答えた。
「していいならするよ」
「やった!」
僕は車座に並んだ子どもたちに怪談を披露した。
今度は題材を注意深く選び、図書室の本棚に紛れ込む呪いの本や、深夜の理科室で動く人体模型など、当たり障りのないものを語った。
子どもたちは身を乗り出して耳を傾け、逐一悲鳴や歓声を上げた。
折内は怪談には参加しなかったが、少年向けの冒険譚の絵本をアレンジを加えて読み聞かせた。
前回の失敗を塗り替える、大成功だった。
子どもたちは和気藹々とお菓子とジュースに群がる。僕たちは汚れたテーブルや彼らの口を拭きながら談笑に参加した。
ふと、弛んだ紐をぴんと張ったように、和やかな空気がひりついたのがわかった。
視線を感じる。窓の外を見ると、非常階段に人影があった。
折り紙の紅葉やイチョウを貼ったガラスの向こうから、白いマスクの男がこちらを睨んでいる。痩せぎすで腕にギプスを嵌めた鋭い目つきのあの男だ。
子どもたちも異変に気づいてざわめき始めた。
折内は自分の背に隠れる少女を宥めながら、横目で僕を見た。
「前喫煙所にいたひとだよな」
「注意してくるよ」
僕は折内が止めるのも聞かず、颯爽と部屋を出た。
非常階段の扉を開けると、温かな部屋の名残りを払い除けるように冷たい風が絡みついた。
マスクの男が僕に気づいた。以前なら怯んだが、今は違う。
僕は胸を張って息を吸った。
「あの、子どもたちが怯えてるのでやめてもらえますか。用があるなら直接言ってください」
男は澱んだ瞳で僕を眺めた。遠慮のない視線に檻に閉じ込められた実験動物のような気分になる。
男はマスクを下ろし、生々しい火傷痕を見せつけた。
「ろくでもないことしやがって」
僕は意図が取れずに聞き返す。男は再びマスクを上げると、踵を返して去っていった。
後には、違和感と煙草の匂いだけが残った。男の無遠慮な視線が蘇る。少し前の自分なら、他人にどう思われようが気にしない素振りを羨ましく思っただろう。だが、今の僕にそんな必要はない。
以降は何事もなく、読み聞かせ会は無事に終わった。それで充分だ。
僕と折内は主催のふたりに誘われて、歓迎と打ち上げを兼ねた飲み会に向かった。今までの僕ならレポートがあるとか理由をつけて断っていただろう。
汚れた藍色の暖簾をくぐって居酒屋に入ると、酔客の汗と熱気で温くなった空気と、騒がしい笑い声が押し寄せた。
僕と折内は奥の席に通され、椅子の木材の感触が痛いほど伝わる薄い座布団に腰を下ろす。向かいの美鳥が生ビールを四つ頼み、巽が苦笑した。
「美鳥さん、皆の希望を聞かないと。若い子に嫌われますよ」
「すぐそういうこと言うんだから。私と一歳しか変わらないくせに!」
すぐに結露したジョッキが運ばれてきた。乾杯を終えて、僕は苦い酒を一気に煽る。後頭部を殴られたような振動が響き、隣のサラリーマンの笑い声が頭蓋の奥で膨れ上がった。
店内の赤いライトとポスターが歪む。ビール瓶を掲げる昭和のアイドルの笑顔が化け物のように見えた。
美鳥は空にしたジョッキの底でテーブルを叩いた。
「いやー、みんな本当にありがとうね! 読み聞かせで子どもたちに楽しんでもらって、その後の飲み会で私たちが楽しむ。私はこの瞬間のために生きてるの。ね、巽さん?」
「一緒にしないでください」
巽は苦笑いを浮かべて煙草の箱を取り出した。折内がすかさず灰皿を押しやる。美鳥が豪快に笑った。
「気が効くね。居酒屋のバイトとかしてるの?」
「ちょっと前までやってました。今は塾講師やってます」
「じゃあ、忙しいでしょ。私たちと遊んでて大丈夫?」
「大丈夫です。おれこういう場所好きなんで」
美鳥は何度も頷き、僕の方を見た。
「穴水くんも来てくれてありがとうね。真面目そうだったから飲み会とか嫌がるかと思ってたよ」
「そんなことないですよ。最初はちょっと緊張しましたけど」
「本当? こんなおばさんと呑んでも楽しくないんじゃない?」
僕は大げさに手を振ってみせた。
「まだお若いし美人じゃないですか。いつでも誘ってください」
「やだ、本気にしちゃうよ」
美鳥が赤い頰に手を当てる。折内は笑いながら僕の肩を組んだ。
「健は意外とノリいいすよ。な?」
酔いで頭が回らないが、ちゃんと言葉を返せている。
この年になって真面目は決して褒め言葉じゃないとわかっていた。真剣に考えて何も言えないよりは、適当に相手が喜ぶ言葉を作業のように返すだけでいい。譜面に合わせてボタンを押すリズムゲームと一緒だ。
折内は巽と一緒に煙草を燻らせて言った。
「おふたりは何でこのボランティア始めたとか、聞いてもいいっすか」
巽は少しも酔った様子を見せずに微笑んだ。
「暗い話で恐縮ですが、私も弟を自殺で亡くしたんです。大きな怪我をして、後遺症に悩んで、まだ小学生だったのに自ら命を絶ちました。同じ境遇の子を救えたらと思ったんです」
「私も似たような感じかな。叔母さんが夫婦揃って心中しちゃって、うちで従兄弟を引き取って暮らしてたの」
美鳥は二杯目のジョッキに声を反響させながら続ける。
「そいつがもう暗いし、性格悪いし、可愛くなくってねえ。意地になって笑わせてやるぞと思って躍起になって、気づいたらこんな感じ」
「大変だったんすね……」
折内は煙草を揉み消すと目を伏せた。僕は明るい声を繕って空気を変える。
「おふたりとも普段はどんな仕事してるんですか?」
巽が煙を吐いた。
「私はWEBサイトのデザイナーのようなものです。ホームページの制作や管理もやっていますよ」
「美鳥さんは?」
「私はねえ、霊媒師!」
「冗談ですよね? 呑みすぎですよ」
僕が噴き出すと、美鳥は油でベタついたメニューを掲げながらニヤリと笑った。
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