穴水健.6

「霊媒師、か……」

 僕は講堂に反射するプロジェクターの薄明かりを眺めながら呟いた。


 以前なら、酔っ払った美鳥の言葉を本気にして、前のめりで仕事や幽霊話を聞こうとしただろう。幸い、あの夜の僕は「だいぶ酔ってますね」と受け流し、と店員に酔い覚ましの水を頼むことまでできた。

 そういえば、おまじないを行ってから怪談のラジオを聞いていない。幽霊話への興味も前より薄くなった気がする。来週までに子ども向けのものを仕入れなければと思った。



 とにかく、僕はまともになれていると確信した。

 今だって先々週までは後ろの席でスマートフォンを弄りながら聞いていた児童精神医学の授業を、最前列で受けている。隣には同じ教職課程のゼミ生なのに一度も話したことがなかった男女がいる。



 左隣の大鹿おおしかが僕の脇腹をボールペンの先で突いた。

「穴水くん。さっきの先生の話、教科書のどこに載ってる?」

 真っ直ぐに揃えた前髪の下からら丸い目が僕を見上げる。名前に反して、小柄でいつもワンピースを着ている大人しい女子だ。


 僕は自然な動作で彼女に身を寄せて、クリアファイルから資料を取り出す。自分の体臭が不安になったり、大鹿の顔に拒絶の色を探して怯えることもなくなった。

「教科書じゃなくて前回のレジュメの方だね。十九世紀英国の育児に関する部分」

「どこ?」

「このコラムだよ。産業革命期の英国では夜泣きにはアヘンとモルヒネが効くと思われてたって話」

「さすが。ありがとう」

 大鹿はえくぼを浮かべて微笑む。


「プリントどこかやっちゃったかも。後でコピー取らせて」

「この前も失くしてなかった?」

「お願い! コーヒー奢るから」

 僕は眉を吊り上げて見せる。


 いつの間にか嫌われることを恐れずに軽口を叩けるようになった。

 もちろんです、話しかけてくれてありがとうございますと下僕のように身を竦めていたときよりずっと横柄なのに、前よりずっと上手くいく。


 大鹿が僕に頭を擦り付けるように資料を覗き込んだので、近いよと仰け反る。右隣の小島こじまが「お前はいちゃつくなよ」と苦笑した。

 僕は咳払いして姿勢を正した。



 モザイク画のように粗い映像が映し出されるスクリーンを前に、准教授が言った。

「ここで一度脱線して、現代の子どもを取り巻く環境について考えますけど。今はSNSでも簡単に麻薬を取引できる時代になって、信じられない話で、未成年も友だち欲しさに買ったりする訳です。君たちの未来の生徒を守るために、頭に入れておいてほしい話があります」


 准教授は「これは反論も多くて信憑性は疑問があるけど、一例としてね」と前置きし、白髪混じりの頭を掻く。


「七十年代にサイモン・フレイザー大学のブルース・アレクサンダー博士が麻薬の依存性と常用者を取り巻く環境の相関を調べた、ラットパーク実験というものがあります」

 スクリーンに檻に入れられたネズミの写真が映る。

「仲間と交流できるラットに適した環境に置かれた楽園ネズミと、檻の中で孤立させた植民地ネズミを用意する。それぞれにただの砂糖水とモルヒネ入りの水を置いておくと、植民地ネズミは苦かろうとモルヒネを選ぶのに対して、楽園ネズミは甘い水を選ぶんですね」


 僕はペンを動かしつつ、大鹿の横顔を盗み見た。青白い光が輪郭を縁取り、真剣にネズミを憐れむ眼差しを輝かせた。


「面白いことに、植民地ネズミをラットに適した環境に移すと、モルヒネに興味を示さなくなり、仲間との交流や砂糖水を選ぶようになるんです。楽園ネズミがモルヒネを選ぶ確率は植民地ネズミの二十分の一です」


 准教授はプロジェクタの電源を切り、暗くした講堂の明かりをつけた。

「何が言いたいかというと、麻薬への依存症には孤立やストレスが関係しているかもしれないので、充分に子どもを見守ってあげることが大切という訳ですね」


 隣の小島が「本当かよ」と呟いたが、僕には納得できた。

 おまじないを始めてから、僕は怪談を聞かなくなった。最初から「普通」を求められない、家が燃えても、罪のないひとが死んでも楽しんでいい世界を求めなくなった。

 怖い話は僕にとってモルヒネと同じだったのだろう。周りにひとがいて、居心地のいい場所がある今は必要ない。僕は植民地ネズミから楽園ネズミに変わったのだ。


 僅かに肩を揺らして笑う大鹿の肌と産毛が明かりに透けて、真っ白なラットを想像させた。



 授業が終わり、僕は立ち上がる。

 示し合わせたように大鹿と小島も腰を上げた。

「健は昼飯どうする?」

「ふたりは?」

「私は学食行こうかな。今日はパスタ割引の日だし」

「じゃあ、そうしようか」

 当然のように僕たちは並んで教室を後にする。振り返ってくれない二人組の後ろを距離を取りつつ歩くこともうない。


 ふと、背後でビニール製のもので床を叩くぺたんという音がした。振り返ると、僕がリュックサックにつけていた定期券入れが落ちていた。


 ふたりに「ちょっと待って」と声をかけて元来た道を戻る。

 拾おうと手を伸ばした瞬間、床から滲み出た黒いものが、指の隙間を埋め尽くすように僕に絡みついた。黒い指だ。燃え尽きて炭化したような指が僕の手を握る。ボロリと乾燥した炭が剥がれ落ちて、手の甲を打った。


 僕は悲鳴をあげて飛び退く。

 見開いた目に点々と散らばる黒い跡が映った。煤をつけた裸足で歩いたような足跡が講堂から続いている。煤の道は僕の踵に収束していた。


 何だこれは。

 僕は慌てて靴底を見る。昨日洗ったばかりのスニーカーは汚れひとつない。



 大鹿と小島が寄ってきて不思議そうに僕を眺める。

「どうしたの?」

「いや、その、靴に何かついてて……」


 僕は震える声で答え、廊下を指したが、黒い足跡は消えていた。リノリウムの床には微かな傷と、いつかの雨の日の汚れた靴跡が残るだけだ。


 小島が歯を見せる。

「犬のうんこ踏んだ?」

「やだ、汚い」

 大鹿が笑って小島を小突く。僕も引き攣る頰で無理やり笑みを作った。



 脳裏におまじないを始めた夜の悪夢が蘇る。黒い指が僕の口をこじ開けて中に入ってくる夢を。

 僕はかぶりを振って、考えを押し退けた。


 ただの見間違いだ。昨日慣れない酒を飲んだからまだ頭がぼやけているんだ。


 おまじないを始めてからいいことばかりじゃないか。あれは霊的なものなんて何もない、気持ちを切り替えるためのルーティンだ。

 人生が少し前向きになるだけの小さな支えだ。

 僕は三人で並んで歩きながら自分に言い聞かせた。



 昼食を食べ終えて、小島がサークルの集金のために去っても、まだ気持ちがざわついていた。


 大鹿は空になったナポリタンの皿を隅に押しやり、僕にスマートフォンを見せる。

「明日から神田で古本市があるんだって」

 僕は平静を装って答える。

「大鹿さんそういうの好きだったよね」

「うん。三年から卒論の演習が始まるから泉鏡花の全集が欲しいんだ。穴水くんはもう題材決まった?」

「まだ迷ってるけど僕は雨月物語かな」

「よかったら、明日の三限の後一緒に行かない?」


 大鹿は上目遣いで僕を見上げた。

 まんまるの瞳に映る僕はごく自然な笑みを浮かべることができていた。

「いいね。その後時間あったらお茶でもどう?」

「嬉しい。私紅茶好きなの」

「じゃあ、美味しいところ探しておくね」


 僕は頷き、怪しく思われないように視線を上げた。

 床を視界に入れるのが怖かった。

 大鹿は気づいていないようだが、僕が辿ってきた道には依然黒い煤が残っていた。

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