穴水健.7

 午後の授業を終え、電車に乗り、家に帰るまでの間も、足元を見下ろすと煤がついていた。


 最寄駅に降りて、僕は無意識に足を早める。黒い足跡は獲物を付け狙う狼のように僕から離れない。

 アスファルトを踏むたび、地面にじわりと煤が滲む。


 僕は帰路を急ぐ会社員と遊び場に向かう学生を掻き分けながら走り出した。周囲から好奇の目が突き刺さる。今まで何度も受けた、未だに慣れない視線だ。ほんの少し晒されなかっただけで心臓が引き裂かれるようだった。


 信号が青に変わり、横断歩道に踏み出した瞬間、どんと誰かにぶつかった。避ける気など微塵も感じない硬さだった。


「す、すみません……」

 僕はずれた眼鏡を押し上げ、頭を下げる。毛羽だったマスクと、ケロイド状の火傷痕が視界に入った。

 ことりの家で見かけたあの男だ。


 男は落ち窪んだ目で僕を見返した。鋭い目つきに鋼線で胸を貫かれたような気持ちになる。

 何故こんなところにいるんだ。まさか、昨日僕が追い払ったのを根に持ってつけてきたのか。


 火傷の男は立ち止まって僕を見つめ続けている。サラリーマンにぶつかって怒鳴られても微動だにしない。



 時が止まったような緊張がクラクションの音で断ち切られた。信号が赤に変わり、トラックの運転手が何か叫んでいる。

 僕はその隙に踵を返し、一目散に駆け出した。


 僕が住む学生用の安アパートが見えてきた。

 枯れたアロエの鉢と放置自転車につまづきながら非常階段を駆け上がり、自室のドアに鍵を差し込む。


 僕は部屋に飛び込み、玄関に崩れ落ちた。

「何なんだよ、本当に……!」

 砂がジーンズの尻やリュックサックに噛みつく、ざりという音がする。投げ出した足先を眺めると、纏わりついていたはずの煤が消えていた。


 僕は恐る恐る扉を開け、元来た道を眺める。黒い足跡はない。火傷の男の姿もない。

 僕は再び扉を閉め、安堵の息を吐いた。



 疲れてるんだ、と理性が答えるが、本能が邪魔をした。僕が見た黒い指は、紛れもなくおまじないを始めた夜に見た悪夢と同じだった。

 もうやめてしまおうか。


 そう思ったとき、スマートフォンの通知が場違いなほど明るい音を立てた。実家の母からのメッセージだった。電気を消したままの玄関に鮮烈なブルーライトが光った。


「飲み会の写真ありがとう。楽しくやっているようで安心しました。遊びも大事だけど学業も忘れずにね」

 履歴には僕が昨夜送った、居酒屋でジョッキを掲げる腕や、ボランティアの子どもたちの笑顔が残っていた。


 僕は冷たい石床の上で膝を抱える。やっとまともになれたんだ。母も安心したし、明日は大鹿と出かける。おまじないをやめたら、昔に逆戻りだ。



 僕は洗面台で顔を洗い、鏡に映る自分を見つめる。

 おまじないを始めた翌朝は何故か自分の虚像に怯えた。今はもうそんなこともない。

 僕の顔は表情筋が引き締まって、何処となく大人びたような気がする。

 きっと大丈夫。全部が上手くいくはずだ。



 翌朝、黒い足跡は見えなくなっていた。

 胸に溜まっていた澱みが全て掃き清められたようだ。

 僕は軽くなった足で大学に向かった。もう一歩ずつ足取りに怯えることもない。


 三限までの授業を終え、大鹿との待ち合わせに向かう。

 現れた彼女は小花柄の丈の短いワンピースで、いつもより口紅の色も濃い気がした。「雰囲気が違うね」と聞くと、大鹿は嬉しそうにはにかんだ。


 神田に向かうまでの電車でお互いのゼミの教授の厳しさや最近読んだ本の話をした。

 古本市ではひとの多さに戸惑いながら、小柄な彼女が無遠慮な老人にぶつかる前に庇うことができた。

 大鹿は目当ての泉鏡花の全集と昭和に刊行されたレシピ本を買い、僕は江戸時代の怪談集を買った。

 その後は調べておいたカフェに向かい、大鹿はヨーロッパ風の内装や、マスターがブレンドしてくれる紅茶に目を輝かせた。

 全部が上手く行った。



 カフェを出る頃には、すっかり暗くなっていた。

 僕は駅まで送ると言って、大鹿が両手に提げた紙袋をひとつ持った。

「穴水くんって紳士だよね。今どき珍しいよ」

「別にそんなことないよ」

「本当だって。うちの弟なんか全然駄目。見習わせたいくらい」

 彼女はえくぼを作って笑う。


 僕は緊張を押し殺し、努めて自然な口調で切り出す。

「遅くまで付き合ってくれてありがとう。でも、彼氏が心配しない?」

「え、彼氏なんていないよ!」

「そうなんだ。モテそうだしいると思った」

「全然!」

 大鹿は紙袋をぶんぶん振って否定した。暗がりでもわかるほど赤くなった耳が可愛らしかった。


「穴水くんこそ彼女いないの?」

「今はいないよ」

「ってことは最近までいたんだ?」

「そういう訳じゃないけど……」

 大鹿が悪戯っぽく僕の顔を覗き込む。僕は「近いって」と笑いながら縮まった距離のまま歩いた。


 しばらく無言で進むと、川のせせらぎが鼓膜をくすぐった。

 飲み屋の換気扇が吐き出す脂っこい匂いの煙や高架線の隙間から、夜空の黒を反射して滔々と流れる河川が見えた。

 木々がざわめくたび、枝葉から月が覗き、水面の波がアルミホイルのように輝く。



 目下の川を隔てる緑のフェンスが一箇所傾いて途切れていた。黒い大蛇が波打っているような水面が見える。あそこなら簡単に事が済むと思った。


 大鹿は自分の爪先を見つめながら歩いている。

 遠い踏切の警報を聞きながら、僕は自然な動作で彼女に手を伸ばした。紙袋の重みが肘に伸し掛かる。


 フェンスが途切れる箇所はもうすぐだ。僕の指先が柔らかい髪に触れた。

 後もう少し。全身の力を込めて押すだけで、大鹿は真下の川に落下し、水晶が砕けるように飛沫が上がる。誰も見ていない。音は踏切の警報が掻き消してくれる。

 僕は黒く染まった手に力を込める。夜風が大鹿の細い肩を震わせた。


「穴水くん?」

 丸い瞳が僕を映した。


 我に返って、全身の血が引いた。僕は咄嗟に自分の手を見つめる。さっきまでの自分の手は、悪夢の中のものと同じ黒に染まっていた。

 僕は今、何をしようとしていた?


「どうしたの?」

 彼女は笑いと不安がないまぜになった表情で見上げていた。僕は必死で首を振り、何でもないと答える。


「大丈夫? 顔色悪いみたいだけど……」

「うん、平気、少し寒かったからかな」

 震えが止まらなかった。唇が上手く動かない。大鹿は心配そうに僕の肩に触れた。

 彼女の体温と、脳裏に浮かんだ映像が混じる。

 僕の両掌に温かく薄い腹を突き飛ばす感触が走ったような気がした。



 どうやって大鹿を見送り、電車に乗って、家まで辿り着いたのか覚えていない。

 おかしい。何もかもがおかしい。僕は大鹿を殺そうとしていた。それが当然のように。


 僕は買ったばかりの本を廊下に投げ捨て、洗面所に駆け込んだ。

 壁のスイッチを押すと、死にかけの蠅の羽音のような頼りない音が響いて、薄い明かりが灯る。怯え切った僕の顔が鏡に映るはずだった。


 悲鳴を上げたはずなのに、声が出なかった。

 僕の唇は閉じたまま両端を吊り上げていたからだ。

 鏡の中の僕は笑っていた。


 皮膚の下に糸を通して、無理やり表情筋を動かしているような、不気味な笑みだった。

 僕は必死で唇を押し下げようとする。意志に反して眦が上がり、鏡の中の僕は心底可笑そうに笑う。

 顔中が震えてバラバラになりそうなほどに。

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