穴水健.8
気がつくと、硬い床の感触が頰と背骨を押した。
洗面所に倒れたまま眠っていたらしい。
僕はひりつく目蓋を擦る。電気も点けっぱなしだったのに何故か辺りが暗い。
眼球に火事の煙が染み込んだように、黒い靄が視界を覆っていた。
僕は痛む頭を振って洗面台に手をつく。冷たい陶器の感触がゴム手袋越しのように遠く感じた。
黒く濁る鏡にやつれた僕の顔が映っている。
ふらつきそうになって両手に力を込めたはずなのに、僕の腕は意志に反して持ち上がった。
自分で自分が信じられなかった。中学生の頃、りかの授業で観た、死んだ蛙に電極を刺して飛び跳ねさせる実験のビデオが頭に浮かんだ。
呆然とする間もなく、僕の手が髪を整え、薄く生えた髭をなぞる。僕は手を動かそうとしていない。カメラの映像を眺めているみたいだ。
僕は後ろから押さえつけられるように鏡に吸い寄せられた。傷だらけの鏡面に映る僕が口角を上げる。
僕は笑っていた。
皮膚の下に糸を通されて表情筋を無理やり動かしているような顔だ。肌ががつっぱり痛みが走った。剥き出しの歯茎から唾液が滴る。
僕は必死に笑みを打ち消そうとする。耳と顔の境目の皮膚が痛い。毛細血管がチリチリと悲鳴を上げ、顔が熱くなる。
耳のすぐ真横で不快な音が響いた。んわあ、と猫にもカラスにも似た、くぐもった声。赤ん坊の泣き声だ。
気が遠くなるのを感じた。
全てに靄がかかったようだった。
視界には絶えず黒いものがこびりついて、耳元では僕が何か言おうとするたび赤ん坊の泣き声がする。
それなのに、電車の窓に映る僕は教科書を片手に平然と佇んでいる。
近代日本文学の流れを告げる細かい文字はまるで頭に入ってこない。手の力を抜いて本を落とそうとしても、指先はしっかりと背表紙を掴んで離さない。
車窓の中の僕が、また笑った。
ごった返すホームに降り、ひとの体温と肩の感触が押し寄せる。頭の中に甲高い泣き声が響いた。
スーツ姿の老人が器用に僕を避け、セーラー服の少女の鞄が僕の背を打つ。行き交う人々の腕を掴んで叫びたかった。
今貴方が見ている僕は僕じゃない。僕の中に何かがいる。喉に手を突っ込んでもいいからここから出してくれ。
声は固く閉ざされた歯の間から出てこなかった。
暴走する車の助手席に括り付けられて、運転手の横顔を眺めるしかないように、僕の脚は大学へと向かっていた。
一限と二限が終わるまでの間、自分が何をしていたのか全くわからない。
少し前までの極力目立たないよう、変なことをしでかさないか怯えていたというのに、今はどんな目で見られてもいいから違和感に気づいてほしいと思った。
身体の内側で叫ぶ僕に反して、僕の身体は隣の席に座った知らない学生と授業内容について雑談を交わし、先生からの質問に手を挙げて答えた。
赤ん坊の泣き声に、チャイムの音が重なった。
僕は鞄を抱きかかえ、自動的に動く脚に突き動かされながら講堂を出た。
色を失い始めた植え込みの葉が揺れ、キッチンカーから流れる油の匂いと、煙草の煙の匂いを届けた。
僕の爪先はアスファルトを踏んで部室棟の脇の喫煙スペースへ進んでいく。
緑の衝立とゴミ箱の向こうから、日陰に身を隠して煙を纏った学生たちの姿が見えた。人の輪の隅に折内と小島がいる。
彼らなら気づいてくれるかもしれない。僕は自分がそうしたいのか、操られているのかもわからずに早足で向かった。
折内がこちらに気づき、煙草を挟んだ左手を振る。
「健じゃん。煙草吸うんだっけ?」
助けてくださいと叫んだつもりだった。
「いや、ふたりが見えたから」
僕の唇が意志と全く違う言葉を吐く。崖から突き落とされる瞬間のような絶望が襲い掛かった。
小島は駆け寄ると、僕の頭を抱え込むように腕を回した。
「お前、大鹿とデートの約束取り付けたんだって?」
また脳の奥に揺れるような衝撃が走る。記憶にない。
「恵斗、知ってる?土曜日ふたりきりで映画観に行くらしいよ」
「何それ? 聞いてないぞ」
混乱する僕をよそに、僕の顔は独りでに苦笑を作った。
「デートとかじゃないよ。たまたま話の流れでそうなっただけだし」
「モテる男は余裕ですねえ」
折内は目尻に皺を寄せた。
「次の日のボランティア忘れんなよ」
「忘れないって!」
僕が大袈裟に手を振るとふたりが声を上げて笑う。談笑の声が響き、流れる煙が日差しを屈折させて、仄暗いはずの喫煙所を輝かせた。
周りにひとがたくさんのいて、笑顔で満ちているのに、僕は誰にも気づかれず独りきりだ。
小島は何度も頷いて言った。
「穴水って変わったよなあ」
僕の唇が「そうかな」と答える。
「前より話しやすくなったっていうか。前はグループワークでも全然発言しなかったし」
「小島が率先してみんなをまとめてくれるから甘えちゃってたところあると思う。迷惑かけちゃってごめん」
「そういう意味で言ったんじゃねえって」
「ううん。僕も二十歳だし、他人に頼ってばっかりじゃ駄目だなと思ってさ。最近はちょっと気をつけてる」
「真面目かよ!」
小島が僕の背を小突く。折内は長く煙を吐いて頷いた。
「健、今の方が全然いいよ」
目の前の靄が濃くなった。部屋の電気を消したみたいだ。
笑顔も、賞賛も、僕に向けられたものじゃない。
この肉の檻から出してくれと願っている本当の僕を求めているひとは誰もいない。
鼓膜の裏できゅるると喉を鳴らす音がする。赤ん坊が嗤った。
それからは時間の間隔も徐々に遠のいていった。
何か考えようと思う前に、意識を繋ぎ止める手綱が指の間からすり抜けていくようだ。
今自分がどこにいて、誰と話しているのかわからない。口内の飴玉が溶けていくように、自分が埋没して消えていくのがわかる。
それでいいのかもしれない。今僕の身体を乗っ取っいる何かは、本物の僕より全部上手くやれる。
そう思いかけたとき、隠れていた恐怖が爆発する。
消えたくない。誰にも気づかれずにこのまま終わりたくない。
僕が泣いても、口から声は出ないし、目から涙は出ない。身体の内側に叫びが反響するだけだ。
いつしか泣いているのが赤ん坊か、自分かわからなくなった。
ビニールの膜で遮られていたような身体の感覚が急に戻り、冷たい風と煙の匂いを感じた。
気がつくと、僕は汚れた灰皿が置かれた非常階段の踊り場に立っていた。読み聞かせボランティアことりの家の会場だ。
肌が泡立つ感覚も、ヤニが溶けた火消しの水の匂いも久しぶりだった。
視界が晴れて、階段に伸びる薄茶色がかった影が鮮明に見えた。植込みの向こうの道路から、ファンベルトが緩んだ乗用車が駆ける音がする。
階段を蹴りつけるような重い足音がした。
真下に視線をやると、腕を吊る白いギプスとマスクが見えた。下段から火傷痕の男が僕を睨みつけている。
男は困惑する僕を眺めると、舌打ちを残して階段を下っていった。
足音が消えてから、僕は自分の掌を見つめる。
指先が炭を触ったように黒ずんでいた。また視界に靄が戻った。
僕は追い払おうと何度も目を擦る。指先の黒が眼球を染めて余計に暗くなる。
もうやめてくれ。
ひとりで踠いていると、廊下に通じるガラス扉が開く音がした。
僕の身体は急に動きを止め、自然な動作で振り返る。真後ろに美鳥が立っていた。
ガラスに反射する僕がありきたりな笑みを浮かべる。
「すみません、今戻りますね」
またこれだ。身体の主導権を奪われた。きっとまた気づいてもらえない。
美鳥は複雑な表情で薄いタートルネックのセーターの裾を揉んだ。
「穴水くん……」
「何ですか?」
「ごめんね」
美鳥はそう言うと、裾から出した何かを僕に突き出した。
手の甲にさっと一筋の熱が走り、鋭い痛みに変わる。美鳥が工作用のカッターナイフを構えていた。赤ん坊の泣き声が脳内で炸裂した。
うわあ、と叫んだのは紛れもなく僕だった。
自分の喉から悲鳴が出る。手の甲の赤い線から血の玉が噴く。僕の身体だ。
美鳥は叫ぶ僕の首を抱え込んだ。
「ごめんね。もう大丈夫。大丈夫だから」
毛羽だったウールの生地の温かさが頰に触れた。僕は子どものように美鳥に縋りついた。
「違うんです。僕は、僕じゃない……」
「知ってる」
美鳥は僕の肩を押し、正面から僕の目の奥を見つめた。
「この子はお前の好きにさせないからね」
黒い視界が美鳥を映す。憎悪で歪んだ歯軋りの音が身体の中で響いた。
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