暁山美鳥.1
美鳥は「こんなものしかなくて悪いけど」と、僕の手の甲にティッシュペーパーを押し当て、工作用のガムテープで巻いた。
産毛が粘着面に貼りついてひりつく感触と、錆びた刃の鈍い痛みすら今は嬉しかった。自分の感覚が戻ってきた。
美鳥は僕を引き摺って非常階段を降りた。
エントランスから顔を覗かせた巽が目を見張る。
「どうしたんですか? もうすぐ読み聞かせが始まりますよ」
「穴水くんが急に体調悪くなったからタクシーで送り届けてくる。後はよろしく!」
美鳥は声を張り上げ、戸惑う巽をよそに会場を出た。
僕が呆然としている間に、美鳥は大通りでタクシーを呼び止め、僕を後部座席に押し込んだ。
シートの化学合皮と運転手の整髪料の匂いが車内に静かに満ちる。車が滑るように走り出した。
「美鳥さん、あの……」
「話は後で。私の家に行くよ」
美鳥は両手で僕の傷口を抑え、フロントガラスを睨みつけていた。長閑な幹線道路の風景が左右を流れる。安売りの幟を立てた靴屋や個人経営の蕎麦屋が次々と消え、タクシーは家々の影で仄暗い住宅街へ進んで行った。
美鳥の冷たい指の感触だけが、僕を現実に繋ぎ止めていた。
タクシーが停まったのは、女性の一人暮らしとは思えないほど古びたアパートの前だった。
錆びた非常階段に、伸び切ったアロエの鉢植えと子ども用の自転車がもたれかかっている。カーテンの代わりに段ボールを貼った窓や、室外機に大量のゴミ袋を載せたベランダが見えた。
美鳥は僕を連れて階段を上がり、奥の部屋の塗装が剥げた扉に鍵を挿した。
室内は僕の部屋より散らかっていた。
玄関を遮る色褪せた暖簾を潜ると、畳に直に置いた本の山や、畳まれていない洗濯物が目についた。
ニスで赤茶色に塗られたテーブル、花柄のポット。まるで田舎の老夫婦の家だ。
美鳥は椅子にかけたままだったコートを床に投げ捨て、僕を座らせる。運ばれてきた湯呑みは寿司屋で見かけるような魚編の漢字が羅列されたものだった。
僕が凝視しているのに気づいたのか、美鳥が苦笑する。
「やっぱり変?」
「いや……」
「元々ここ私のお祖母ちゃんの家だからこういうものばっかりあるんだよね。従兄弟と一緒に暮らしてた頃、学校に持って行かせるマグカップがなくてこれを渡したら散々文句言われたよ」
「これを学校に?」
「そう。寿司屋じゃないんだぞ、ってね。私は『いい話のネタになるでしょ。友だちと漢字クイズでもしなさい』って言ったら怒ってさ。あいつ友だちいないから」
僕が思わず噴き出す。
「穴水くん、やっと笑ったね」
「すいません……」
美鳥はテーブルに身を乗り出して僕を覗き込んだ。
「やっぱり初めて会ったときの君だ」
背筋を死人の指が這ったような、ぞくりとした感触が伝わった。美鳥の瞳に強張った僕の顔が映る。
彼女は僕の向かいに座って両手の指を組んだ。
「穴水くん、私もそっち側だから何を聞いても馬鹿にしない。正直に言って。何かに乗っ取られてたでしょう」
僕の喉に詰まっていた息と言葉が溢れ出した。
「自分の身体なのに言うことを聞かなくて。僕の顔と口で勝手に喋って、勝手に動いて。ずっと視界に黒い靄がかかって、喋るたびに頭の中で赤ん坊の泣き声がするんです。美鳥さんは知ってるんですか? これ、何なんですか?」
「落ち着いて」
美鳥は短く言い放ち、湯呑みの茶を啜った。
「穴水くんは怪談が好きだよね。人間が悪霊に憑依される話なんかに馴染みはある?」
「はい……」
「だったら、話が早い。この世にはね、怖い話に出てくる幽霊みたいに人間の身体を乗っ取って成り代わろうとするものが存在するの」
僕は乾き切った唇を舐めた。飲んだばかりの緩い緑茶が一瞬で蒸発したようだった。
「悪霊が僕に憑いたってことですか」
「そう思うのがわかりやすいけど、実際は少し違う。幽霊と違って、基本的に憑かれたひと以外には見えないし、感じられない。だから、穴水くんも気づいてもらえなかった」
「霊じゃないなら何なんですか」
美鳥は慎重に言葉を選びながら言った。
「私たちはケガレって呼んでる」
僕は言葉を反芻する。
「ケガレ……大昔、身内に不幸があったり死体に触ったらよくないものがつくと思われてた、あの穢れですか」
「詳しいね。さすが文学部」
美鳥は歯を見せて笑った。
「じゃあ、ケガレって死んだひとの魂なんですか」
「わからない。私に言えるのは、ケガレは見えないだけで私たちのそばにずっといるってことくらい。奴らには身体がないから人間に入り込んで主導権を奪おうとするの」
「奪ってどうするんですか」
「ケガレはその名前の通り周りに不幸を起こすの。まず周りの人間たちを殺して、最後は乗っ取った人間も殺す。インフルエンザのようなウィルスに近いかもね」
「じゃあ、このまま乗っ取られてたら……」
身体が震えるのがわかった。身体の制御の効かない感覚に、顔の皮膚を無理やり引っ張られて笑みを作らされる痛みが蘇る。
美鳥は真っ直ぐに僕を見つめた。
「大丈夫。そのために私たちがいるんだから」
「私たちって?」
「ウィルスにはワクチンがあるように、ケガレを見て、対抗できる力を持つ人間もいるんだよ。それが私たち、ハガシって呼ばれる存在」
耳馴染みのない言葉に戸惑っていると、美鳥が肩を竦めた。
「こっちは聞いたことないよね。由来も単純で、ケガレを引っぺがすことができるから『剥がし』って言うの。馬鹿みたいでしょ」
「いえ……」
僕は何度も自分の膝を摩った。
「霊媒師って、冗談じゃなかったんですね」
「その顔。疑ってたでしょ」
美鳥は悪戯がバレた子どものようにはにかんだ。
「と言っても、私には大した力がないんだ。ちょっとくらい対抗手段がわかるくらいでね。それがこれ」
彼女はポケットから先程僕を斬りつけたカッターナイフを取り出した。
「悪霊は鏡と刃物を恐れるって聞いたことある?」
「お祓いとかでも使いますよね」
「ケガレに対する数少ない手段がこれなんだ。穴水くんは乗っ取られた瞬間、鏡を見て怖くなったりしなかった?」
暗い洗面台で僕は自分の虚像に怯えた。自分の顔なのにそうじゃないように思えた。
「やっぱりね。ケガレは人体を乗っ取った時点では生後一日の赤ちゃんみたいなものなの。人間の身体で生きるのは初めてだから当然か。だから、自分が映る鏡に怯える。その段階を超えてしまったら、次」
カッターの刃をカチカチと押し出す音が鳴った。
「ケガレは実態を持たないから、生身の人間の感覚には慣れてない。大人は転んでも平気だけど、子どもはちょっとの擦り傷で大泣きするように、奴らは痛みに弱いの」
「だから、僕を斬りつけたんですか」
「本当にごめんね。でも、この段階で済んでよかった。痛みにすらも慣れたら引き剥がすのは不可能だから」
「不可能って……」
「飴玉が口の中で溶けるみたいに、君の存在はどんどん消えてなくなって、ケガレだけが残る」
僕は震える口元を必死に押さえた。
「もう、ケガレはいなくなったんですか」
「まだだよ。大人しくしてるだけで穴水くんの中にいる」
目の前が暗くなる。美鳥は僕に怯える間も与えずにじり寄った。
「ケガレは弱ってる人間を乗っ取るものだけど、それにはきっかけが必要。門を開いて招き入れるようにね。君、何かした?」
真っ黒な瞳が僕を歪めて映す。墨で塗り潰した紙のようだ。わかってる。あのおまじないだ。
あれをやってから僕の中に何かが入り込み、全てを染め上げた。
今でも怖いし、一刻も早くケガレを追い出したい。そう思っているのに、本当に僕は馬鹿だ。
おまじないを始めてから、僕は変われたんだ。
美鳥は全てを見透かしたように身を引いた。柔軟剤と微かな日本酒の匂いが漂った。
「……ケガレはね、犠牲者を増やすために魅力的な人間を装って他人を惹きつけるの。それが奴らの狩りの方法。穴水くんはケガレに乗っ取られてから少し変わったんじゃない?」
「僕は……」
「それは命より大事なことじゃない。教えてくれないと手遅れになっちゃう」
僕は頷き、おまじないのことを全て吐き出した。美鳥は責めることも嘲笑うこともなく、静かに聞いてくれた。
話し終えると、美鳥は真剣な顔で呟いた。
「おまじないの出処は後で探るとして、その紙は破棄しなきゃね。明日私のところに持ってきて」
僕はまだ何処かであれを手放したくないと思っている。最低だと思った。
「僕が変われたのは全部、そんな化け物のお陰だったんですね……」
情けなくて涙が出て、それもまた惨めだった。
美鳥は静かに口角を上げた。
「穴水くん、自分の人生でもう一度やり直そうよ。そのために頑張ろう」
僕は大きく頷いた。膝に落ちた涙の雫がジーンズに黒い円を作って、顔を上げられなかった。
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