穴水健.2

 自死遺児支援団体"ことりの家"の読み聞かせ会は、郊外の公営施設で開かれるらしい。


 折内は駅で待ち合わせようと言ったが、路線が違うと嘘をついて現地集合にした。道中何を話せばいいかわからなかったからだ。


 初秋だというのに、幹線道路の両端は青々とした木々で満ちている。

 店先で千円の鞄や財布を売るスーパーマーケット、ぬいぐるみを積んだ車が並ぶファストフード店ののドライブスルー、やたらと駐車場が広い家電量販店。

 普通の人々の生活と人生が押し寄せてくるようだ。


 僕はイヤフォンを耳に押し込んだ。週末を楽しむ人々の声が遮断され、怪談のラジオが流れ出す。

 怖い話は好きだ。最初から「普通」を求められないから。

 罪のないひとが死のうと、悍ましいものに惹かれようと、ホラーという名目があれば許される。



 辿り着いたのは、巻貝のような形の三階建ての建物だった。

 足を止めると同時に肩を叩かれた。驚いて振り返ると、折内が背後に立っていた。僕は慌ててイヤフォンを外す。

「すみません、気づかなくて……」

「いいよ、おれも今着いたとこだから」

 折内は屈託なく笑う。


 彼の背に隠れるように建物に入ると、微かな冷房の風が吐息のように吹きつけた。

 読み聞かせ会が行われる貸し会議室は三階にあるらしい。

 節電のためか、やたらと暗い階段を登り切ると、半開きの扉から男女の声が漏れてきた。

 僕が尻込みしている間に、折内は自分の家のように扉を押し開けた。


 入り口で椅子を並べていた女性が顔を上げる。

 トレーナーにジーンズを合わせた、二十代後半ほどの女性だった。緩く編んだ黒髪が簾のように垂れてどこか物憂げに見えた。


 折内が元気よく一礼する。

「失礼します、ボランティアで来ました!」

「おっ、元気だね」

 女性は髪を肩に払い除けて笑う。先ほどの印象とはまるで違う、豪快な笑顔だった。


 彼女はパイプ椅子片手に声を上げた。

たつみさん、大学生の子たちが来たよ」

 巽と呼ばれた男性が、抱えていた絵本を机の隅に置いて振り返る。

 髪を真ん中で分け、真っ黒なタートルネックのセーターを纏った彼は、ラフな格好の女性とは対照的で神父のように見えた。


 ふたりの男女が僕たちに向かい合う。

「ことりの家を運営している、巽 来児らいじと申します。今回はご参加ありがとうございます」

「巽さん、固いよ。学生さんが畏まっちゃうでしょ」

 女性が巽の肩を小突いた。

「同じく運営の暁山ぎょうやま美鳥みどりです。美鳥って呼んでね。最初は緊張するかもしれないけど、全然難しいことないから!」


 折内が先に名乗り、僕もそれに続く。美鳥が満足げに頷くと、腕にかけたままのパイプ椅子が軋んだ。折内が素早く駆け寄った。

「おれやりますよ」

「いいのに、ありがとう」

 美鳥は照れたように笑う。

「力仕事なら任せてください。頭は使えないけど身体は使えるんで」

「そんなこと言って有名大学でしょ? プロフィール見たよ」

 ふたりは談笑しながらパイプ椅子の山へ向かっていった。


 早速置いて行かれたような、子どもじみた気分になる。巽は僕を気遣ってくれたのか、静かな声で笑いかけた。

「穴水くんには絵本を選ぶのを手伝ってもらえますか?」

「ああ、はい。どういうのが……」

「それが悩みどころです。ここには小学二年生から高校生の子まで来ますから」

「じゃあ、選ぶのが難しいですね」

「気丈に見えてもトラウマを抱えている子もいます。死や事故を連想させる物語は極力排除しているんですが……」


 巽は含みありげに口角を上げた

「とは言え、何よりの目的は同じ境遇の子との交流です。子どもでも普段の生活で身内に不幸があったことは打ち明けづらいですからね」

「貴重な場ですよね」

「はい。読み聞かせよりも後でみんなでお菓子を食べるという子も沢山いますよ」


 パイプ椅子の間から美鳥が手を挙げる。

「私も終わった後の飲み会が楽しみ!」

 巽は眉を下げて苦笑した。

「我々がこの調子なので穴水さんも気負わずに」

 僕は曖昧に頷き、テーブルに積まれた児童書に視線を落とした。



 本を選び終え、折り紙の飾りを窓に貼ったり、紙コップと皿を並べているうちに、休憩時間が訪れた。読み聞かせの会は午後二時からだ。


 運営のふたりが買い出しのために去ると、折内が汗を拭いながら僕の方へ寄ってきた。

「お疲れ、昼飯買いに行く?」

「うん……すみません、力仕事押し付けちゃって」

「おれずっと運動部だったし、これくらい余裕だよ。そうだ、コンビニ行く前にちょっと寄っていい?」

 折内はジーンズのポケットから煙草の箱を取り出し、指で弾いた。



 彼に誘われるがまま非常階段に出ると、冷たい風が吹きつけた。

 落ち葉と茶色の水が溜まった踊り場に、銀のスタンド式灰皿が置かれている。


 折内は煙草に火をつけ、空の雲に吹きかけるように煙を吐いた。僕と同い年だから吸い始めて間もないはずなのに、ひどく慣れた仕草だった。


 風が紫煙を運んで目に刺さる。眼鏡をずらして涙を拭くと、折内が慌てて身を退いた。

「ごめん、煙草駄目なひとだった?」

「いや、大丈夫です。僕は吸わないけど父親は吸うから」

「本当?」


 そう言いつつ、折内は煙を吐くたび律儀に顔を背ける。

 僕は彼の手首に浮いた青筋を眺めつつ、手持ち無沙汰で尋ねた。

「折内くんは何でボランティア参加しようと思ったんですか。やっぱり教職課程のため?」

「ああ、それもあるけど……」


 折内は煙を払うようにかぶりを振った。

「高校のとき仲良かった子が自殺しちゃってさ。何て言うか、そうなる前におれにできることなかったのかなって、心にずっと引っかかってて。だからかな」

 僕が黙り込んでいると、彼は大きく手を張って笑った。

「ごめんね、重い話しちゃって」

「いや……」


 折内は僕の沈黙を気遣いと解釈したのだろう。本当は違った。一見何の悩みもなさそうな彼が、暗いものを秘めていたことに感じたのは劣等感だった。


 辛い思いを抱えているのに明るく振る舞えて、自死遺児支援に相応しい過去を持っているなんて、僕の立つ背がまるでない。

 利己的で最低な感情だと自分でもわかって死にたくなった。



 僕は何も言えず、折内が息と煙を吐く音だけを聞いていた。

 煙草が短くなった頃、非常階段の上からガンガンと殴りつけるような足音が聞こえた。攻撃的な響きに怯んだのは僕だけでないらしい。折内も怪訝な表情で真上を仰いだ。


 鉄板の隙間から汚れたスニーカーが覗く。一段一段蹴りつけるように降りてきたのは、ひどく痩せた、傷だらけの若い男だった。


 けばたったマスクをつけ、骨折しているのか、ギプスをはめた右腕を白布で吊っている。色褪せたシャツから覗くもう片方の腕も生傷だらけだ。あの足音、脚も怪我しているのだろう。

 病人のように色が白く、目の下のクマが濃い。男性にしては長い黒髪をひとつに纏めていた。



 彼は僕たちが存在しないかのように目の前に陣取ると、取り出した煙草の箱をギプスに乗せ、一本取り出した。

 男がマスクをずり下ろしたとき、僕は思わず息を呑んだ。彼の左頬から口元にかけて、ケロイド状のひどい火傷痕があったからだ。


 僕は俯いて見ないふりをする。男は無言で煙草を咥え、ライターを出した。何度もカチカチと音がする。風が強いせいで片手では火がつかないらしい。僕は折内が戻ろうと言ってくれるのを待った。


 願いに反して、折内は男に歩み寄る。彼は火傷の男にライターを差し出した。細い火が煙草の先端に灯る。

「風強いっすね」

 折内は衒いなく微笑んだ。男は唖然としてしばらく折内を眺めていたが、やがて根負けしたように会釈した。



 男が煙草をふかすのを横目に、折内がようやく「行こうか」と言ってくれた。

 僕が廊下に通じる扉を押したとき、背後から男が言った。

「おい」

 掠れた低い声だった。無条件で身がすくむ。男は澱んだ目で僕たちを睨みつけた。

「読み聞かせ会だろ」

 折内が困惑気味に頷く。

「そうですけど……」

「あんまりあそこのガキどもと関わるなよ」


 男はそう言い捨てると、背を向けて煙草を吸い出した。細い煙が、閉まった扉に遮られた。

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