籠原朝香.2
それ以降、おまじないのことなんてすっかり忘れていたのに、今になって変な夢を見たのは何故だろう。
きっと二月なのにやけに暑くて、窓を少し開けて寝たせいだ。
泥の中で浮き沈みするような眠りと覚醒の間で、生温かく風を感じる。そよいだカーテンが私の鼻先をくすぐった。
払い除けようとして、手の甲に犬の鼻のような湿った空気が触れた。眠気が消えて、脳が急速に冷えていくのがわかった。
二段ベッドの上段で寝ている私に、カーテンの裾が触れるはずがない。
目を見開くと、藍色の闇を区切るように黒いものが垂れていた。姉さんが枕の下に入れていた不気味な絵の檻のようだった。
黒の中に、薄い光を反射するふたつの光がある。
姉さんが私を覗き込んでいた。
ベッドの枠に顎を乗せ、頭のてっぺんを天井につけ、僅かな隙間に顔を挟み込んで私を覗いている。
姉さんは笑っていた。
咄嗟に寝たふりをしようとして、目を瞑る前に姉さんと視線が合った。姉さんは暗闇を映した目を横に歪めて笑う。
私は寝ぼけて何もわかっていないふりをする。
「何、どうしたの……」
「魘されてたから、心配で」
台本を読み上げるような抑揚のない声だった。
心配している顔じゃない。姉さんはまだ笑っている。
私が「大丈夫」と答えると、姉さんは二段ベッドの梯子を降って消えた。まだ頰の辺りに姉さんの吐息が渦巻いているような気がした。
やけに響く時計の音と、騒がしい心臓の鼓動が布団の中で膨らんだ。
翌朝の姉さんは、ごく普通だった。
いつも通り、水垢で曇った洗面台の鏡に向かって、髪を梳かしていた。一番ひどい頃の姉さんは鏡を見ると、生まれたての仔猫のようにびくついて、警戒しながら暗い洗面所から逃げ出した。
今はそんなこともない。だからこそ、昨夜のことが不気味だった。
私はショッピングモールまでの道を並んで歩きながら、姉さんに尋ねた。
「本当に覚えてないの? すごい怖かったよ」
「全然。寝ぼけてたのかな」
「夢遊病とかじゃないよね。姉さん、ストレス溜めてるんじゃないの」
「まさか、そんなに勉強してる訳でもないし」
姉さんは微笑む。
「朝香こそ、そろそろ受験のことで悩まなきゃいけない時期でしょ」
「次の大会でいい成績取ればスポーツ枠で推薦取れるもん」
「バドミントンのことばっかり。春休みに塾の体験入学くらいしておきなよ」
マフラーに顔を埋めながら白い息を吐く姉さんは嘘を言っているようには見えなかった。
二月の街は空気が乾燥して、寂れた低いビルがより虚しかった。
やたらと駐車場が広くて入り口前で安物の鞄を売っているレンタルビデオ屋。客が入ってるのを見たことがない中華料理店。監獄のような学習塾。
都会とではないけど、田舎と呼べるほど豊かな自然もない街だ。
角を曲がると、ファストフード店から姉さんの高校と同じ制服の男女が出てきた。部活動の帰りに寄ったのだろう。皆、小さなピアスを開けたり、校則では禁止されているピンクや水色のベストを着ていた。
私は身構えた。昔の姉さんと絶対に合わないタイプだ。
集団の中で茶髪の女子がこちらを向いた。
「あれ、
侮蔑も嘲笑も込められていない笑顔だった。姉さんの下の名前を家族以外から聞くなんて。
姉さんは小走りで集団に駆け寄る。
「ちょっと買い物。みんなは陸上部の帰り?」
「そう。野球部が模擬試合やるからって体育館走らされたんだよ。しかも、副顧問まで来たの」
「じゃあ、また『張り切ってもう一周』ってやられたんだ?」
「思い出させないで、トラウマなんだから」
姉さんは私の知らない顔で、私の知らない教師の真似をして、私の知らない姉さんの友だちが一斉に笑う。
少し離れたところで見守っていると、姉さんと同世代の男の子が店から勢いよく飛び出してきた。
茶髪の女子が振り返る。
「
「あった。すげえ焦った。ソファとソファの間に挟まってて……」
彼は背が高く、二月だというのに日に焼けていた。首の筋がくっきりと浮いて、陸上部らしい体型だ。
髪はワックスで自然に纏めて、両耳に小さなリングのピアスをつけている。
私の学校にウヨウヨいる、お洒落とは無縁のスポーツしか知らない運動部とは大違いだ。
姉さんは彼を見ると、少し俯いて呟いた。
「あっ、
「籠原じゃん。何、姉妹で買い物?」
「よくわかるね」
「わかるよ、すげえ似てるから。小型の籠原がいるなって思った」
隣の女子が「失礼でしょ」と小突く。
私が慌てて会釈すると、彼は日焼けした顔で屈託なく笑い返した。
陸上部のみんなが手を振って去った後も、姉さんは制服の間で見え隠れする彼を目で追っていた。私は姉さんを揶揄う言葉を考える。
店を取り囲む違法駐輪の自転車が、陽射しを受けて燦然と輝いた。
夕飯の食卓で早速話をすると、母さんは筑前煮の鍋を持ったままテーブルに身を乗り出した。
「何々? お姉ちゃんとその子はどういう関係なの?」
姉さんは真っ赤になって、
「ただのクラスメイトだよ!」
と両手を振った。
「折内くんも昔、事故か何かで学校に行けなかった頃があったらしくて、いろいろと話聞いてくれたの」
「本当にそれだけ?」と、私が揶揄うと、姉さんは肘で小突いてきた。
午前で仕事を終えた父さんは缶ビール片手に目を細める。母さんは煮崩れた鶏肉を箸でつまみながら心底幸せそうな顔をした。
「お姉ちゃんにもそういう子ができるなんてね。何だか感慨深いなあ」
「お母さんってばお年寄りみたい」
私は呆れつつ、本当によかったと思う。去年の今頃、母さんが冷蔵庫にもたれかかって言った。
「お姉ちゃんと一緒に死んじゃおうかなと思ったんだけど、あんたがいるからそれもできなかった」
当時は無言の食卓に電球の傘に蝿がぶつかる音だけが響いていた。キッチンの奥の暗闇が冷たく濃く見えて、霊安室のようだった。
今じゃまるで別の家みたいだ。
父さんが茶碗にこびりついた米粒をこそぎ落としながら呟く。
「しかし、夕菜は変わったな」
「そう? 変?」
姉さんは口角を上げる。
「まさか、今の方がずっといいよ」
父さんの言葉に、姉さんは更に唇を吊り上げた。
「じゃあ、昔の私は要らない?」
一瞬、時が止まったような沈黙が訪れた。私たちは硬直し、器から漏れる湯気だけが動いている。
私はわざと明るい声を出した。
「怖いこと言わないでよ。今も昔も姉さんでしょう」
両親は喉から長い息を漏らしてから私に同調した。和やかな空気が戻った後も、私の心臓は冷たい手で握られたようだった。
姉さんの目は、昨夜私を覗き込んでいたときと同じだった。
眠る前、私は姉さんを問い正そうか迷った。本当は何か悩んでいるんじゃないだろうか。
そう思いつつ、寝室の扉を開けると、真っ暗な部屋に佇む姉さんの背が目に飛び込んできた。結露した白い窓ガラスに張り付く姉さんは、幽霊のようだった。髪の間から強張った横顔が覗く。
「何してるの……」
姉さんは振り返りもせずに言った。
「またいる」
近寄ると、姉さんはカーテンの影に隠すように私をしゃがませて、窓の外を指した。
街灯の光が刃のように細く伸びる暗い路地に、人影があった。
悲鳴を上げかけた私の口を姉さんが押さえる。姉さんの指で自分の呼気が跳ね返るのを感じながら、私は恐る恐る影を見つめた。
背格好で姉さんの同世代の男の子だとわかった。ひどく痩せていて、真っ黒な髪と制服が闇に溶け込んでいた。
彼が顔を上げると、ふたつの鋭い目が爛々と光る。視線が窓ガラスを突き抜けて、隠れているはずの私たちを射抜いた。
私は息を殺して姉さんに聞く。
「誰なの、姉さんの知ってるひと?」
「中学で一緒だった子」
姉さんは犬歯を覗かせ、忌々しげに言った。昔の過去が亡霊になって滲み出したような気がした。
彼が諦めたように去ってからも、私は冷たいフローリングに座り込んだまま立ち上がれなかった。
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