籠原朝香.3
姉さんが最近少しおかかったのは、あの男のせいだ。
夜中に私を覗き込んでいたのも、夕食のとき妙なことを口走ったのも、きっとあの男に付き纏われて参っていたからだ。
私は朝早く目覚めて、洗面台の鏡に向かう姉さんに詰め寄る。姉さんはヘアアイロン片手に目を丸くした。
「今日は早いね。日曜日は朝練ないのに」
「昨日の奴、誰なの。何でうちの前にいたの」
姉さんは拷問器具のように熱くなったヘアアイロンの電源を切って、洗面台の脇に置いた。
「……中学の頃、同じ図書委員だったの。ちょっと変わった子だけど、本の趣味は合ったし、みんなと違っていろいろ言ってこないから仲良くしてたの」
確かに、昔の姉さんはああいう人間としか付き合えなかっただろう。今の姉さんと昨日の昼間に会った陸上部の子たちは違う。
私の喉から自分で驚くほど意地の悪い嘲笑が出た。
「それで今も姉さんに未練タラタラで付き纏ってるんだ」
「別に付き合ってた訳じゃないよ」
「だったら、はっきり言えば? もう関係ないでしょって」
姉さんは眉を下げ、憂いを帯びた表情を浮かべた。その仕草がやけに芝居がかって見えた。
「ちょっと怖いから」
「どうして?」
「あの子転校生なんだけど、昔を知ってるひとたちの間で噂があったの。同級生をナイフで刺したって」
「人殺しなの?」
私が思わず叫ぶと、姉さんは首を横に振った。
「死んではいないみたい。どこまで本当かわからないけど。逆恨みされたら嫌でしょ?」
「そんなのストーカーだよ。警察に相談した方がいいよ」
「朝香は大袈裟なんだから。見てるだけで何ともないよ」
姉さんは呑気に髪の毛を巻き直す。私が焦ったくなって姉さんの肩を掴んだとき、廊下の向こうから母さんの悲鳴が聞こえた。
私たちはリビングへ駆けつける。
父と母は昨日の姉さんのように、カーテンを開け放った窓に向かっていた。
「何があったの?」
真っ青な顔で唇を震わせる母さんの代わりに、父さんが言った。
「家の前にずっといるんだ。何だよあいつは」
窓の向こう、小さな庭と道路を隔てるブロック塀の影に昨日の男が立っている。雨垂れで汚れたブロックの隙間から艶のない黒髪が見える。彼はガレージの前に置いた灯油の赤いポリタンクに足をかけて、ときどきこちらを覗いていた。
「あいつ、姉さんに付き纏ってる同級生!」
私が叫ぶと父さんが目を剥いた。
「何?」
「朝香、余計なこと言わないでよ」
父さんは私と姉さんを見比べ、溜息をついた。
「追い払ってくる」
いつもの頼りない父さんからは想像できない力強い声だった。姉さんの話が頭を過ぎる。彼が同級生を刺したナイフをまだ持っていたら。
「父さん、危ないよ!」
私は父を追って玄関を飛び出す。ちょうど、父が男の腕を捩じり上げたところだった。私は鈍く光る刃が父の脇腹を貫くのを想像する。
目を背けかけたが、予想に反して男は無抵抗だった。
よく見ると、彼は頬に血が滲んだガーゼが貼っている。足も骨折しているのか、片方は運動靴なのに、もう片方はサンダル履きで分厚い包帯を覗かせていた。
血管が透けるほど生気のない肌と、目の下の黒いクマも相まって不気味だった。
父さんは一瞬鼻白み、男の腕を離して突き飛ばした。
「うちの娘に何の用だ!」
声は裏返っていた。男は父よりもずっと年上のよう見える表情で睥睨した。乾いた唇が動く。
「あれ、もうすぐ娘じゃなくなるぞ」
男はそう言い捨てて、片脚を引き摺りながら去っていった。
私と父さんはその場に立ち尽くす。
向かいの通りを駆け抜ける大型トラックが冷たい空気をかき混ぜまる音だけが響いた。隣家の垣根の山茶花がぽとりと落ちる。
「何なんだ、薄気味悪い……」
父さんが吐き捨てた。私は家の方へ向き直り、また叫びそうになった。
窓ガラスに映る姉さんは見たことがない表情で全身を震わせていた。
怒りでも恐怖でもない。顔の下の皮膚に針金を通して何者かが揺らしているようだ。歯の間から垂れた一雫の唾液が窓ガラスに溢れ、結露と共に伝い落ちた。
また我が家に暗い翳りが訪れた。
母さんは取り乱して、姉さんにあの男のことを問い詰めた。父さんはさっきで一生分の勇気を使い果たしたのか、ソファで縮こまってテレビを観始めた。
父さんは「子どもだから大それたことはしないはずだ」と、自分に言い聞かせるように言った。
母さんは「悩みがなくなったと思ったらまたこんなことになるんだから」と、叫んで蹲った。
まるで昔のようだ。違うのは姉さんだけだ。両親の間を行き来しながら私のせいでごめんねと囁くなんて、昔の姉さんには絶対にできなかった。
彼の言葉が脳内で反響した。
あれ、もうすぐ娘じゃなくなるぞ。
あの日から母さんはパートの時間を短縮して、私と姉さんの帰りには必ず迎えに来るようになった。
幸い男の姿を見かけることはなくなったけど、同じ背格好の学生がいると身構えてしまう。
帰り道、同級生と買い食いしたり、コンビニに雑誌を立ち読みしに行くこともままならなくなった。
家の空気は常にどこか張り詰めていて、恐怖より苛立ちが勝ってくる。全部あの男のせいだ。
唯一幸運なのは、家から出辛くなったお陰で勉強が捗ることくらいだ。私は読みたくもない国語便覧を広げる。宿題は古文の現代語訳だった。今誰も使わない文章が読めるようになって、何に役立つというのだろう。
黒い蚯蚓のような筆文字の写真を眺めていると、ある一点に目が留まった。初めて開く頁なのにどこかで見覚えがある。大昔の祭りで巫女が神様を迎えるために詠んだ、祝詞というらしい。
少し考えてから、姉さんのおまじないだと思い出した。あの禍々しい墨の塊の横にあった文字だ。あれは今も姉さんの枕の下にあるのだろうか。
ちょうど姉さんが私を呼ぶ声がした。私は国語便覧を閉じてキッチンに向かう。
姉さんはエプロンをつけて、テーブルにボウルや泡立て器を並べていた。
「今日帰りに母さんとチョコの材料買ったの。家にいても暇だし、一緒にやらない?」
私は明日がバレンタインデーということも忘れていた。自分でも知らないうちに気持ちが塞いでいたようだ。
「やる!」
「はいはい、ちゃんと手洗ってよ」
私が飛びつくと、姉さんは声をあげて笑った。いつもと全く変わらない笑顔だった。
ビニールのテーブルクロスに業務用のチョコレートブロックやカラースプレー、アラザン、ギンガムチェックの袋が並ぶ。玩具箱をひっくり返したような色彩を見ていると、悩んでいたのが馬鹿らしくなった。
「朝香は誰にあげるの?」
「クラスの子と部活の子と、進路相談乗ってくれた
「じゃあ、たくさん作らなきゃね」
「姉さんは?」
「私も友だちと図書委員の皆に配らなきゃ」
「折内恵斗はいいの?」
姉さんは目を吊り上げたが、口元は緩んでいた。
「もう、揶揄わないでよ」
「いいじゃん、待ってるかもよ」
「そんなことないよ」
泡立て器の柄でチョコレートを砕こうと悪戦苦闘していた姉さんは息を吐いた。
「これじゃ駄目だ。朝香、包丁取って」
私は言われた通りに包丁を手渡す。汗だくの姉さんの手が滑って、刃の先端が指を引っ掻いた。一筋の赤い線が刻まれ、玉のような血がぽつりと滲み出した。
「ごめん、大丈夫?」
姉さんは真っ青な顔で滴る血を見つめていた。そんなに深い傷ではないけど、どんどん血が出ている。
「引っ張って」
姉さんは震える唇で言った。
「えっ、引っ張っちゃ駄目だよ。押さえて止血しないと……」
姉さんは歯を食い縛り、全身がバラバラに砕け散りそうなほど震えていた。強張った顔に血管の筋が浮いている。あの男が来たときと同じ表情だった。
姉さんは血塗れの指を私に突き出した。
「出して、引っ張って、出して!」
「何言ってるの、どうしちゃったの……」
「早く出して! こいつは私じゃない!」
前髪の下から睨む、怯えたような、責めるような瞳は、昔の姉さんそのものだった。
姉さんが指を伸ばす。私の目蓋に生温かい雫が飛んで、目の前が赤いもので霞んだ。
ぬるりとナメクジのような血が睫毛に貼り付く。
姉さんが身を乗り出した瞬間、私は無意識に姉さんを突き飛ばして駆け出した。
キッチンから響く甲高い叫び声が、私の背を追いかける。
私は運動靴の踵を踏んで突っ掛け、玄関から飛び出した。灯油のポリタンクにぶつかって転びかける。
脱げた靴を掴み、私は姉さんの叫びが反響する家から裸足で逃げ出した。
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