籠原朝香.4

 湿気った靴下を貫通して、アスファルトの凹凸が足の裏に噛みつく。冷たい空気が覆いかぶさるように貼りついた。

 喉に風が流れ込んで、カッターの刃を飲んだように痛んだ。


 私は足を止める。

 見慣れた商店街が息切れで歪んで見えた。仕事帰りのサラリーマンや買い物を終えた主婦の声が遠く反響した。


 すれ違う会社員が怪訝な目で私を見た。

 店の自動ドアに私の姿が反射している。裸足で上着も羽織らず、目が真っ赤だった。変な子だと思われたんだろう。

 目を拭うと、街灯や店のネオンが細かい光の粒を垂らしたように滲んだ。



 私は手に提げていた運動靴を地面に叩きつけ、爪先をねじ込む。靴下についた湿り気が広がって底冷えした。

 これからどうしよう。姉さんはおかしかった。昔だってこんなことはなかったのに。



 夕暮れの商店街はとろりとした赤い光が満ちていた。

 肉屋のトラックが通り抜ける音が聞こえる。特売のトイレットペーパーが山積みのドラッグストア、ワゴンを並べた古本屋、流行りの曲が漏れてくるカラオケ店。その全部にひとがいる。


 それなのに、私は世界で独りになったような気がした。姉さんも泣きながら帰った日、こんな気分だったんだろうかと思った。


 私は俯き、周りの人々が見えないように歩いた。そんなことをしても周りから私が見えなくなる訳じゃないのに。罪人として晒し者になっている気分だった。

 今同級生に会ったらどうしよう。いつもは何でもない店々の出入り口が今は恐ろしい。



 ローマの神殿のような派手なカラオケ店の前を通りかかったとき、高い声が聞こえた。

「夕菜の妹ちゃんだよね?」


 心臓がぎゅっと縮む。嫌だと思いつつ顔を上げると、茶髪の女子高生が私に向かって来た。この間会った姉さんの同級生だ。

 後ろにはベージュのカーディガンを羽織った折内恵斗がいた。


 咄嗟に逃げようとした私の腕を、茶髪の女子が掴む。カラーコンタクトで赤みを帯びた目は心配そうに私を見ていた。

「ちょっと、どうしたの?」

「何でもないです」

「血がついてる」

 私はそう言われて、視界の端に赤茶けたものがこびりついているのに気づいた。姉さんの血だ。


 折内恵斗がカーディガンの袖で私の目蓋を拭った。

「怪我、じゃないか。よかった」

 茶髪の女子が慌てて鞄をひっくり返す。

「恵斗の服じゃ余計汚れるでしょ! 私ティッシュ持ってるから」

「ひでえ、おれの服汚れてないよ! なあ?」

 折内恵斗が真剣な顔で私を覗き込んだ。ゴワゴワしたウールの感触が目蓋に残って、思わず笑った。



 茶髪の女子は眉を下げて私を見た。

「言いづらかったらいいんだけど、何かあったの?」

 私は曖昧に首を振る。

「事件とかじゃないよね?」

「大丈夫です」

 寒さが薄い服を貫通して染み出した。震えていたら余計心配されると思って、私は自分の両腕を強く握りしめた。



 茶髪の女子がふっと溜息を吐く。

「最近、夕菜も落ち込んでるみたいだったから心配で」

「姉さんが、ですか?」

「うん。聞いても大丈夫だとしか言ってくれないし。お家で何かあったりした?」


 私は口を開きかけてやめる。何を伝えればいいのだろう。姉さんがストーカーに遭っていると言ったら、手を貸してくれるかもしれない。

 でも、さっきの姉さんのことはどう説明していいかわからない。もしも、変だと思われたら、まだ昔に逆戻りだ。



 私が足踏みしていると、折内恵斗が徐にカーディガンを脱いで差し出した。

「これ返すのいつでもいいからって籠原に言っといて」

 彼は少し笑って、

「あ、そっちも籠原か。姉ちゃんの方な」

 と、付け足す。

「……ありがとうございます」

「籠原って全部ひとりで頑張ろうとするとこあるからさ。おれたち、頼りないかもしれないけど、相談してくれれば力になるから」


 ふたりは何度も私を振り返りながら去っていった。

 私は折内恵斗からもらったくしゃくしゃのカーディガンに袖を通す。

 制汗剤の仄かな香りがして、体温が残って温かった。



 私は商店街を歩き出す。少しだけ気が楽になった。今の姉さんには家族以外にも心配してくれるひとがいる。

 そう思ったとき、脳裏に姉さんの声が反響した。こいつは私じゃない。

 温まった身体が冷水を浴びたように凍りつく。

 不安を振り払おうと、私は足を早めた。



 空は橙色が薄くなり、藍色に変わり始めた。

 もうすぐ夜だ。

 私はやっとスマートフォンの通知を見ていなかったことを思い出す。母さんがひどく心配しているだろう。


 案の定、画面をスライドするなり、メッセージアプリの通知と不在着信が膨れ上がった。

 私は慌てて母さんに電話をかける。


 甲高い声で叱り言葉が飛んでくるのが想像できた。何と言い訳をしよう。気が滅入りそうだけど、ようやく日常に戻って来られた安堵も感じた。



 五コール後に、電話が通じた。

「ごめん、母さん。ちょっと出られなくて……」


 聞こえたのは怒声でも泣き声でもない。ぶちっ、ぶちっ、と何かを千切るような音だった。

 耳を澄まさなければ聞き取れないほど小さい上に、雑音もひどい。ポケットにスマートフォンを入れたまま、偶然電話が通じてしまったようだ。


「母さん?」

 今度は波か車の走行音のような音が聞こえた。それから空気の漏れるような音。

 どちらもくぐもって、胸がざわつくような響きだ。


 音は近くなったり遠くなったりする。まるで、手が離せないひとの代わりに、誰か電話を持って話しているようだ。



 何の音だろう。そう思ったとき、音が近づいた。

 いびきだ。魘されながら細い息を吐いているようないびきだ。

「誰……」

 電話の向こうから笑い声がした。他人を馬鹿にして、試しているような嫌な含み笑い。


 唐突に声が聞こえた。

「これ、何の音だかわかる?」

 姉さんの声だった。

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