籠原朝香.5

 鼓膜から温い水が侵入して脳内に溜まったように、電話を切ってからも音が離れない。


 商店街の個人商店が次々と店仕舞いを始める。目の前で本屋のシャッターがぴしゃりと下され、地面に振動が伝わった。店主の老人が奥から鉤針状の棒を伸ばし、少し浮いたシャッターを完全に閉ざす。

 世界から締め出されたような気がした。



 私は貸してもらったカーディガンの襟を掻き合わせ、ネオンの漏れる道を進む。辺りはすっかり暗くなっていた。家に帰りたくない。でも、他に行く場所がない。

 友人の家に駆け込めば一晩くらい泊めてくれるだろう。でも、その間に姉さんや家に何か起こったら? 全てが手遅れになるのも、今確かめに行くのも嫌だった。



 電話の主は確かに姉さんだった。誰かが進入した訳じゃない。安心していいはずだ。

 でも、別人のような口調だった。わざと問題を解けない生徒を指名して晒し上げる、嫌な教師のような含み笑い。


 姉さんは「何の音だと思う」と言った。聞こえたのはいびきだった。母さんのパートを終わったはずだし、今日は父さんが早く帰ってくる日だけど、まだふたりとも寝る時間じゃない。


 ふと、姉さんが昔観ていたホラー映画を思い出した。リビングのテレビを使うと家族が嫌がるから、皆が寝静まった後、ベッドに持ち込んだノートパソコンを半開きにして、明かりが漏れないように周りを覆って観ていた。

 夜中に起きると、仄かな青白い光の中に、目を光らせて画面を眺める亡霊のような姉さんがいて、ぎょっとしたのを思い出す。


 私はいつも見ないふりをしたけど、姉さんが私の学校でも話題だった映画を観ていた夜は、隣に並んで少しだけ一緒に観た。

 私が声をかけると、姉さんは戸惑いつつイヤホンを外してベッドを半分明けてくれたのを思い出す。


 昔の姉さんは変わり者だけど、あの頃も優しかった。姉さんの体温が残る布団の温もりを思い出して泣きそうになる。何故こんなことを今思い出したんだろう。

 あのとき観た映画で、同じ音を聞いたからだ。


 恐ろしい村で旅人が次々と殺される映画だった。

 暗闇で後ろから頭を殴られた男が、地面に昏倒したとき、半目を開けていびきをかいていたのだ。

 電話から聞こえたのは、あの音だった。


 思わず足が止まる。

 私たちが散らかした台所に倒れる両親と、笑いながら見下ろす姉さんを想像した。

 研ぎ澄まされた冷気が全身に襲いかかった。



 遠くでサイレンが聞こえる。

 深呼吸して辺りを見回すと、家の近くの公園に来ていた。

 囲いの木々は夜闇を吸収して深い森のように鬱蒼としていた。街灯の薄明かりに照らされる遊具は、昼間とは別物のように不気味だった。


 早く通り過ぎようと思ったとき、ブランコに誰かが腰掛けているのが見えた。私は誘き寄せられるように、公園に入っていた。



 座っているのは、ブランコで遊ぶような歳じゃない、学生服の男だった。

 疲れ果ててぐったりと座り込む男の口から、白い煙が漏れている。寒さで冷えた息かと思ったが、煙草を吸っているんだとわかった。

 長い黒髪に覆い隠された顔には、新しいガーゼが貼られ、足先は片方サンダルで包帯が巻かれている。

 姉さんに付き纏っていた、あの男だ。


 逃げようと思った瞬間、男が顔を上げた。

 生気のない瞳が私を捕らえる。走り出したいのに足が動かない。


「お前……籠原の妹か」

 男は大人のような暗い声で言った。私は縋るようにカーディガンの襟を握りしめ、震える足を突っ張った。考えるより早く言葉が出た。


「あんたのせいで、全部めちゃくちゃだ!」

 男が目を見張る。理性では怒らせたら危険だとわかっているのに、言葉が止まらなかった。

「あんたが来てから姉さんはおかしくなった! 家族のみんなが怖がってる。ふざけないでよ。何で付き纏ってるの。やっと、やっと、まともになれたと思ったのに!」


「籠原がおかしくなった?」

 男は煙草を地面に捨て、嘲るように口角を上げた。

「どうおかしくなった。急に性格が変わったか。鏡を怖がるようになったか。刃物を使わなくなったか」

 意図の取れない言葉が次々吐き出される。


 私が後退ると、男が腰を浮かせた。痩せているが、私よりずっと背が高く、伸びた影がすっぽりと私を包み込んだ。

 まずい。やっと冷静になった頭が逃げろと言う。



 男が立ち上がり、ポケットから小さなものがカラリと落ちた。月光に照らされたのは、折りたたみ式のナイフだった。


 私は踵を返し、全力で走り出した。

「待て!」

 男の声が背中に降りかかる。私を追ってきている。足を引き摺っているが、歩幅が大きくすぐに追いつかれそうだ。殺される。


 私は必死で公園を飛び出し、家へと向かった。

 もうあの電話に怯えている場合じゃない。今刺されるよりずっとマシだ。



 住宅街の路地に飛び出した私の視界を、真っ赤なものが塞いだ。

 消防車だ。車は私を跳ねかけたのにも気づかず、速度を上げて進んでいった。

 街灯の照り返しで赤く光る胴体に、家の前に置きっぱなしだった灯油のポリタンクを思い出す。考えたくないことが浮かんだ。



 住宅街が騒がしい。家から飛び出して来たひとたちが路地を埋め尽くす。彼らは囁き合いながら道の先を指していた。


 男の煙草と同じ匂いが漂ってくる。白い煙が霧のように流れ出した。道の先にあるのは私の家だ。

 遠ざかる消防車のサイレンがわんわんと頭を揺らす。

 どうか私の家じゃありませんように。祈りに反して、車は人混みを押し退け、どんどん進んでいく。見慣れた近所の風景が暗転した。


 男の声が響いた。

「籠原!」

 全身汗まみれで荒い息をしながら私の後を追っている。私は再び駆け出した。



「朝香ちゃん!」

 斜向かいに住むおばさんがエプロン姿で私を呼び止めた。助かった。私はおばさんに縋りつく。

「助けてください。私、追われて……」

 おばさんは私を抱きとめ、顔中に皺を寄せる。

「大丈夫、心配いらないからね。もう消防車が来てるから。絶対に助けてくれるから」

 私はおばさんの腕を押し退けて離れた。

「何の話ですか……」

 おばさんは首を横に振って視線を上げた。私は一緒に顔を上げる。

 目の前で、赤が膨れ上がった。



 何が燃えているのかわからなかった。

 全てが炎に包まれて、元が何なのか見えなかったからだ。

 右隣の赤い屋根の家と、左隣の黒い車のある家の間に、巨大な炎が聳え立っている。私の家だ。


 濛々と黒煙が空に伸びて、夜空の闇と合流する。

 父さんの車は熱で歪んで、車体を赤く染めていた。萎れた垣根が煤で暗く汚れ、ぱちぱちと音を立てて倒れかけている。空のポリタンクが庭先に転げていた。


 叫び声が聞こえた。耳が割れそうなほど近くで叫んでいる。喉が張り裂けそうだった。

 叫んでいるのは、私だ。


「父さん、母さん、姉さん!」

 飛び込もうとした私を、おばさんが押し止める。消防車から駆け降りた隊員がホースで水を噴射していた。二階の窓から飛び出した炎と煙が水を押し潰す。

 窓ガラスが砕け散り、破片が降り注いだ。



 燃え盛る部屋の中に、姉さんがいた。

 姉さんは笑っている。煤で顔を真っ黒に染め、縮れた髪に燃え移った炎が肩に迫っていた。

 それでも、笑っている。

 顔中の筋肉を引き攣らせ、中に通った糸で無理やり作ったような表情で。全身がバラバラになりそうなほど震えながら。


 爆発音が響き、押し寄せた炎が、姉さんを掻き消した。

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