第二部
穴水健.1
またやってしまった。
少女の甲高い泣き声に耳を塞ぎたくなる。そんなことをしてもやってしまったことは消えないし、逃げたら余計に責められるだけだとわかっているのに。
僕はそんなに悪いことをしただろうか。
ただひとつ自分にできる特技とも呼べないようなこと、怪談を求められて応えただけだ。
確かに「自死遺児支援団体」とついた場所で行うには不適切だったかもしれない。でも、求めたのはその子どもたち本人じゃないか。
何でいつもこうなるんだろう。こっちまで泣きたくなる。
僕は涙が落ちないように、天井に垂れ下がる「"ことりの家"主催読み聞かせボランティア」の垂れ幕を見上げた。
似つかわしくもなければ望んでもいないこの場所に訪れたきっかけは、僕の人生に何度も投げつけられた言葉だった。
「君、このままじゃまずいよ」
非行に走ってまでしたいことがないだけの僕を真面目だと勘違いしていた教師との面談で。
僕が未だに母親が買った服を着ていると知った同級生が修学旅行のバスの中で。
卒業まで一度も部誌に寄稿しなかった漫画研究部で。同じ言葉を何度も聞いた。
今言ったのは、大学の学生支援窓口のカウンターから首を伸ばす女性事務員だった。
ここには学生を支援する気など欠片もないが、修士にも博士にもなれないまま学問に携わるにはここしかなかったという雰囲気の事務員が山ほどいる。
彼女はひとつに縛った黒髪を払い、僕が生協のコピー機で印刷したばかりの書類を見下ろした。
「
「すみません、期限を間違えていて……」
「そんなの友だちに確認すればわかるでしょ。母校に教育実習の依頼もしてないのはどうして?」
僕が俯くと同時に眼鏡がずり落ちて、僕の代わりに謝っているようだった。
電話が苦手だからできませんでした。友だちがいないから聞けませんでした。なんて、言えるはずもない。
入学するまでは、大学に入れば変わるんだと思っていた。偶々同じクラスになっただけの他人との馴れ合いがものを言う社会じゃなく、同じ勉学を志す者しかいない実力社会になる。そう思っていた。
実際は違った。
真面目に全部の授業に出るより、サボってもノートを借りられる友人を作った方がいい成績を収める。対人能力も実力のうちだと思い知らされた。
「怠け者なら友だちを作れ。友だちがいなければ怠けるな」と言ったのはサミュエル・ジョンソンだったか。
事務員は深く溜息を吐いた。
「せめて努力を見せてくれないと、こっちも助けようがないんだよね。本当に教師になりたいの? 親に『つぶしが効かない文学部に入るならせめて教員免許くらい取れ』って言われただけじゃない?」
認める訳にもいかず、僕は押し黙る。次にくる言葉は黙っていれば何とかしてもらえると思っているんだろうとか、きっとその類だ。
予想に反して、事務員は踵を返すと、奥の棚の書類を漁り始めた。
暫くして戻ってきた彼女は一枚の紙をカウンターに叩きつけた。一目で素人が作ったとわかる、虹色の明朝体とフリー素材のイラストが踊るチラシだった。
「自死遺児支援団体・ことりの家:読み聞かせイベントですか……」
書類の文面を読み上げた僕に彼女が首肯を返す。
「要は自殺で家族を失った子どもたちのケアをする会ね。ボランティアに参加してレポートを書いたら救済措置になるって話。そんな気持ちで臨んでほしくないけど、毎年君みたいな学生がいるから」
僕は渡されたチラシを握りしめ、窓口を後にした。
暗い館内を出ると、射抜くような陽光が襲いかかった。
都会の一角に建てられたキャンパスは目が痛くなるほど白く輝いている。講堂や食堂の小窓に切り取られた談笑する学生たちの姿が見えて、青春ものの漫画の一コマを見ているようだった。
窓に映る僕はワックスもつけていない黒髪と指紋のついた眼鏡、高校生の頃から着ているギンガムチェックのシャツ。度々未成年と間違えられるのも仕方ないと思った。自分の変え方はわからない。
早めに次の講義の教室に入り、スマートフォンを開くと、珍しくトークアプリの通知が来ていた。落語研究部の集まりの報せだ。
人脈を作るためだと推されて入ったはいいが、結局新入生歓迎会以来顔を出してない。
部員は皆、飲み会しか頭にない馬鹿な学生とは違うんだという顔をして、ネットで調べればすぐに出てくる落語の知識をひけらかし合う、垢抜けない人々だった。側から見れば僕も同じなのだろうと思い知らされ、自然と足が遠のいた。
僕に人前で落語を語る度胸はない。それに、僕が好きなのは落語の中では興味を持つひとが少ない怪談だけだった。
読み聞かせボランティアのことを考えると今から憂鬱だ。
僕はトークアプリを閉じて、動画サイトを開く。毎週土曜日に配信される怪談ラジオの切り抜きがアップロードされていた。参考になるかと思いつつ、動画を再生する。DJは勿体ぶった口調ではなく、居酒屋で話しているような親しみやすい語り口だった。聞けば聞くほど僕には真似できないと思った。
関連動画のサムネイルを眺めていると、初めて目にするチャンネルがあった。「ごく普通の幸せな家族に襲い掛かる呪い」というタイトルの動画を開くと、合成の機械音声が流れ出す。
「これは閑静な住宅街で起こった、痛ましい無理心中事件の話です。ごく普通の幸せな家族の長女は何故両親を撲殺し、自ら炎に包まれたのか……」
機械独特の不自然な抑揚が禍々しさを増幅させた。表示された写真はぼかしてあるものの、全焼した家屋だとわかった。
真っ黒な骨組みが剥き出しの家は焼死体を想像させる。
全身の毛穴に熱いものが詰まってキュッと絞まるような感覚。ゾッとすると同時に、気持ちが高揚した。
割れた窓は唇が裂けて剥き出しの歯茎に、煤が混じった滴る水は爛れた皮膚と膿に。
黒い手が視界の隅から伸びて、僕の肩を叩いた。
僕の悲鳴が講堂に響き渡った。
目の前にいたのは、黒焦げの亡霊ではなく、よく日焼けした男子学生だった。
「ごめん。何度か声かけたんだけど、イヤホンしてたからさ」
僕は慌ててワイヤレスイヤホンを耳から外す。
彼は白い歯を見せて申し訳なさそうに笑った。髪を自然な茶色に染めて、両耳にふたつずつピアスを付けた、授業より飲み会に出た回数のが多そうな学生だ。一目で僕に声をかける謂れは全くない類の人間だとわかる。
「穴水くんだよね?」
「はい、ええっと、すみません……」
「敬語じゃなくていいよ。同級生だから。ほら、一年の古典文学概説で一緒だったじゃん」
思い返そうとしたが、今時の若者らしい髪型と服装の人々は皆同じに見える。言えるはずもない。
僕は曖昧に頷いた。
「はい……」
「穴水くん、読み聞かせボランティア行くんだよね? さっき学生支援窓口で聞いてさ」
「それで……?」
「おれも行くんだよ。同じ学部で教職課程取ってる奴全然いなくてさ。穴水くんがいてマジで助かった」
彼は屈託なく笑って言った。
「おれ、教職ゼミの
折内は僕のスマートフォンに視線を下ろす。
「何見てんの?」
「いや、何でもないです」
僕は咄嗟に画面を覆い隠し、電源を落とした。
後ろめたいことを一度も考えたことがない人間特有の図々しさは苦手だ。昼間からひとりで無理心中の現場を見ていたなんて想像もしないんだろう。
僕は必死で頭を巡らせ、別の話題を探す。
「ボランティアって今週の土曜でしたよね?」
「うん、一緒に行こうぜ。おれ場所わかんねえ。穴水くんは?」
「僕も知らないです」
「じゃあ、一緒に迷うか」
折内は歯を見せる。何の曇りもない笑顔のはずだ。それなのに、窓から差す逆光のせいだろうか、
彼の背に黒く焦げたような影が覆いかぶさっている気がした。
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