第一部
籠原朝香.1
姉さんはホラー小説を捨ててから綺麗になった。
正直言って、前の姉さんと一緒にいるところを同級生に見られるのが嫌だった。
二年前、中学校に入る直前の春休みにショッピングモールで友だちのお姉さんに会ったとき、言われたことを今でも覚えている。
「
彼女は馬鹿にするというより、心底可哀想だという顔をした。
「
私は姉さんの犯した罪で一緒に罰を受けたような気持ちになった。
彼女の言い分もわかる。
前の姉さんは誰が見てもちゃんとしてなかった。
重たい髪は伸ばし放題で、毛先が触れる制服の肩にはいつも雪のようなフケが散っていた。せめて髪を結べばいいのに、癖っ毛だから跡がつくのが嫌だと言って聞かなかった。
私だって癖っ毛だけど、ストレートパーマをかけているし、毎日アイロンで整えている。母さんに頼めばどちらのお金も出してくれただろうに。
小学六年生の頃、同級生の男子に言われた。
「籠原の姉ちゃんって、貞子が好きだからコスプレしてんの?」
私が何と答えたのかは覚えていない。
姉さんがニキビもささくれも直さず、私服の黒いワンピースに不似合いな汚れたスニーカーも買い換えずに貯めたお金は、ホラー映画のパンフレットとホラー小説に消えた。
小学校の図書室で見かけるたび、黒い表紙の本で顔を覆い隠す姿は、クラスメイトを呪うための呪文を探す魔女のように見えた。
私は目が合わないように廊下を走り、司書の先生が叱る声を背に浴びた。
家でも私と姉さんはほとんど話さなかった。
でも、年に三回も上履きを買い替えたり、体育祭の後、姉さんのクラスメイトがカラオケから出てきた日、ひとりだけ早く帰って冷凍ピラフを黙々と食べていたのを見ていたから、だいたい何があったかは知っていた。
ある日、姉さんはニキビで赤い顔をもっと赤くして帰ってきた。紺色のセーラー服の袖は濡れて一段濃い色になって、鼻水で光っていた。
姉さんはスクールバッグを放り投げるなり、上ずった声で「あいつらは何もわかってない!」と叫んだ。
私は二段ベッドの上から、蹲って泣く姉さんを見ながら嵐が過ぎ去るのを待った。
鳥のような泣き声が徐々に鎮まったのを確かめてから、ベッドを降りて話しかけると、姉さんはしゃくりあげながら言った。
姉さんは図書委員で、夏休み前におすすめの本のポップを作る係だったらしい。勇気を出してホラー小説を特集しようと言ったら皆、賛同してくれたという。
私は最近の姉さんが少しだけ楽しそうだったのを思い出した。
画用紙を切り貼りしてポップを作って、あとは司書の先生に渡して、飾ってもらうだけだった。
翌日、姉さんが教室に入ると、図書準備室に置いていったはずの手書きポップが黒板に貼り出されていた。漫画に出てくる魔術師が悪魔を呼び出すような、チョークで描かれた魔法陣と、姉さんに似せた幽霊の絵と一緒に。
姉さんが三回も上履きを買い替える原因になった旧友たちは、含み笑いで言ったらしい。
「籠原さんって、この本に出てくる呪いの村に私たちを連れて行くために読んでるの?」
姉さんの机上には禍々しい森と血のような赤いタイトルが描かれた本があった。
私はまたしゃくり上げる姉さんを見て、哀しいと思った。姉がいじめられていたことが、じゃない。
姉さんは自分のことには何も構わないのに、こんなに気持ち悪い本のために真剣に泣けるのだと思ったとことが、だ。
姉さんはそれから中学に行かなくなった。
仕事で帰りが遅い父さんは何もしてなかった。ひとりで抱え込む母さんは、昼間に怒りの刃を研ぎ澄まし、夜、父が帰るなり怒声で投げつけた。
私は去年、姉が行かなくなった中学校に入った。両親はお祝いにハンバーグの店に連れていってくれたけど、同じ制服の子を店で見かけるたび遠い目をした。
私はナイフをポテトに突き立てながら、姉さんが消えてほしいと思った。
そのせいだろうか。
姉さんは別人になった。
姉さんは、話題に出すのも恐ろしかった高校受験をしたいと言い出した。母は目に涙を滲ませて喜び、介護施設のパートで稼いだお金で姉さんを通信教育の塾に通わせた。
姉さんの本棚からホラー小説が一掃され、参考書と共に、ファッション誌やヘアスタイリングの本が並んだ。
寝る前に目に入るたび嫌な気持ちになったゾンビ映画のポスターは、猫の絵のカレンダーに変わった。
机の上にはニキビ用のスキンケアセットと、爪の甘皮ケア用品と、前髪を止めるヘアマスカラを入れた小物入れが置かれた。
受験が成功して、高校の制服に袖を通した姉さんは、妹の目から見ても綺麗だと思った。
シースルーの前髪と韓国コスメの赤いリップ、ニキビの消えた白い肌に笑みを浮かべて、姉さんは言った。
「今まで迷惑かけてごめんね。もう大丈夫だから」
姉さんは私に話しかけるようになった。
中学で好きな男の子はいるのか。この服にこの鞄を合わせたら変じゃないか。絶対焼けないと話題の日焼け止めは本当に効くのか。
私がずっとしたかった普通の姉妹の会話だった。
前は学校の連絡事項ひとつでも姉さんを刺激しないように気をつけた。姉さんを揶揄うなんてもってのほかだった。重い前髪の下から睨みつけるような責めるような目を覚えている。
でも、今は違う。
美容院から帰って、ストレートパーマが強すぎてぺったりと髪を貼り付けた姉さんは、自分から私に笑いかけた。
「ねえ、見てよこれ」
私は実の姉にする気遣いではないと思いだから、平静を装って笑い返す。
「泳いで来たみたい」
姉さんは一瞬黙りこくって俯いた。また、あの陰鬱な眼差しが返ってくる。身構えた瞬間、姉さんは私に飛びかかって抱きしめた。子猫がじゃれつくような軽さだった。
「ひどい、朝香もちょっと前までコケシだったくせに!」
「バトミントン部の顧問がおかっぱじゃなきゃ駄目って言ったんだもん!」
「それなのに伸ばしてるんだ? 先生に言いつけちゃおう」
「うるさいな!」
振り解こうとする私に姉さんの腕が絡みつく。私たちはもつれあいながら二段ベッドの下段に倒れ込んだ。枕からはネロリとピオニーのボディミストの香りがした。
姉さんが私の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。こんな日が来るなんて、想像もしてなかった。
私は寝転びながら、まだ笑っている姉さんを見あげる。
「姉さんは、もうホラー小説とか読まないの?」
姉さんは長い睫毛を瞬かせ、うーんと考え込んだ。
「もういらないかなあ。朝香は読みたかったの?」
「そんな訳ないでしょ。本当は部屋にあるのも嫌だったよ。でも、姉さんはあんなに好きだったのに」
姉さんはふっと笑った。
「もう怖い話に頼る気にならないの」
「頼る?」
「そう。あの頃は映画や小説の中で自分より酷い目にあってるひとを見て安心したかったんだ。それに、ホラーで死ぬのって嫌な奴ばっかりでしょ? いつかクラスメイトもこうなるんだって思いたかったの。馬鹿だよね」
姉さんは起き上がってはにかんだ。
「私、大人になったでしょ」
「自分でそう言っちゃううちはガキだよ」
「言ったな。私よりチビのくせに」
姉さんはまた私をもみくちゃにする。しばらくじゃれていると、枕の下からかさりと音がして、紙切れがはみ出した。
「何これ?」
姉さんは決まり悪そうな顔をする。私は皺くちゃの紙を広げ、思わず呻いた。
切り取ったノートの紙面が黒く塗り潰されていた。
違う。塗り潰したんじゃなく、大量の線が引かれていた。
罫線を無視した何重もの縦線の間に、歪んだ楕円の塊が描かれている。墨の檻に囚われた鼠のようだ。
不気味な画の横には判読できない文章が連ねられている。姉さんの字だと思った。
背筋が寒くなり、窄まった毛穴から汗が滲んだ。
姉さんはもう怖いものなんて興味がないと思っていたのに。
やっと普通になったような顔をして、こんなに得体の知れないものを隠し持っていたなんて。
姉さんは慌てて私から紙を取り上げた。
「違うの、変なものじゃないから」
「これのどこが変じゃないの?」
私は裏返った声で尋ねる。昔の姉さんならそれだけで小動物のように縮み上がったけど、今は落ち着き払って私の肩に手を置いた。
「おまじないみたいなものなの」
「おまじない? まだスピリチュアルとかオカルトとかやってるの?」
「そういうのが好きだった頃に知っただけ。何て言うのかな。これを置いて寝るとね、ひとと話すとき緊張しなかったり、変なこと言っちゃわなかったり、ちょっと違う自分になれるの」
姉さんは照れたように手を振った。
「勿論、信じてる訳じゃないよ。気持ちを切り替えられるだけ。受験するって決めたときから続けてるからルーティンみたいなものなの」
そう言うと、姉さんは紙を折り畳んで枕の下に隠した。
私は納得したふりをする。本気で信じている訳でもなさそうだし、姉さんがおまじないのお陰で変われたならそれでいい。
紙の裏側まで黒く滲んだ絵が虫のようで不気味だったけど、枕の下から出てこないなら、ゾンビ映画のポスターよりずっとマシだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます