暁山美鳥.4

 居酒屋を出てすぐ、僕は美鳥を引き留め、近くのドラッグストアで絆創膏を買った。


「大した怪我じゃないのに」

 美鳥はシャッターが降りた古着屋の前に座り込んで微笑んだ。手の甲に貼った絆創膏から滲む血が痛々しかった。


「明日朝イチで京都に行って、日出さんに都合がつかないか聞いてくるよ。何かあったら、ことりの家の巽さんに連絡して。彼は私の仕事を知ってるから力になってくれるはず」


 当たり前のように告げる彼女に、僕は思わず問いかけた。

「美鳥さんは、いつもこうやって他のひとを助けてるんですか」

「まあね」

「怖くないんですか」

「ケガレを放っておく方が怖いよ。奴らはすぐそばにいて、人間を脅かしてるのに、私たちにしか見えないから」

「でも、怪我までして、死ぬかもしれないのに」

「だからだよ。殺人鬼が隣に住んでたらそいつが逮捕されるまで安心して眠れないでしょ。私の自己満足だよ」

「美鳥さんは強いんですね」

 彼女は照れたようにはにかんだ。


「穴水くんは優しいね」

「そんなことないですよ。いつだって自分のことばっかりで、全然上手く喋れなくて、空回って……」

「絆創膏買ってくれたでしょ」


 僕は口を噤む。

 酔客の声が冷たい空気に滲み、赤提灯の中の電球が薄い和紙を炙る音がじりりと響く。シミのある地面に直接腰を下ろした美鳥は、早くも酔っ払った学生に溶け込んでいた。


「穴水くんが喋るのが苦手なのは、相手がどう思うかじっくり考えるからじゃないかな。適当にその場凌ぎでいいやって思わないんだよね」

「僕は、自分がどう思われるか気にしてるだけですよ」

「本当に自分本位な奴はそんなこと言わないよ」

 美鳥は歯を見せる。


「穴水くんを初めて見たとき、いい子だろうなって思ったんだ。でも、二回目で印象が違うなと思った。前よりずっと話やすいけど、何か違う、心がないって」

 頰が熱くなった。ケガレに乗っ取られていたときのことだ。自分で全部上手くやっているつもりでも、わかるひとには見抜かれていたんだ。



「あのとき、私にいつでも呑みに誘ってくださいって言ったよね。あれは本心?」

 黒い双眸が僕を射抜くように見つめる。僕は必死で頷いた。

「本心、だと思います。僕はでよければですけど。美鳥さんが嫌じゃなかったら……」

「じゃあ、今度はちゃんと穴水くん自身から聞きたいな」

 風が赤提灯を揺らし、照り返しを受けた美鳥の頰が緋で染まった。



 美鳥と分かれて電車に乗った頃には二十二時半になっていた。

 家に近づくほど乗客は減り、二十三時を回るときには僕以外誰もいなくなってきた。無人の車内の静けさと無機質な灯りは病院に似ている。



 スマートフォンを開くと、トークアプリの通知が溜まっていた。ほとんど折内からだ。

 律儀にノートの写真やレポートの参考文献のリストを送ってくれている。


 こんな時間まで忘れていたのを申し訳なく思ったとき、ちょうどメッセージが届いた。


「生きてる?」

 身体の血が逆流するような火照りを覚えた。折内はほんの冗談のつもりだろう。ノートを送って、心配もしてくれて、何の悪意もない。

 でも、今この瞬間にも自分が自分じゃなくなる恐怖と戦っている僕にとっては、とどめのような言葉だった。


 スマートフォンを握る手に力が入り、液晶が軋む。

 落ち着け、と自分に言い聞かせ、アプリを落とそうとすると着信音が鳴った。

 折内からだ。僕はざわつく気持ちを押し殺して通話に出る。


「……何?」

「健? 何って、全然既読つかなかったからさ。そんなに具合悪いの?」

 折内は少し酔っているのかいつもより声が大きい。それが余計に神経を逆撫でした。


「大したことないよ。家で寝てた」

「本当かよ。小島が健と女のひとが一緒に大学出ていくの見たって言っててさ。彼女?」

「美鳥さんだよ。昨日の流れで気を遣ってくれただけだから。変な勘違いするなよ」

 自分の言葉の端々に棘があるのがわかる。これじゃ駄目だ。ノートの礼も言っていないのに。


 折内は声量を抑えて言った。

「お前、ちゃんと病院行った方がいいって。今日も何か様子おかしかったし……」

「うるさいな!」


 自分の声が車内に反響した。土石流が堤防を破ったように言葉が溢れ出す。

「おかしくならないように今必死でやってるんだよ! やっと普通になれたと思ったのにこんなことになって、何も悩まずにまともでいられる折内くんにはわからないよ!」


 自分を止められなかった。まるでケガレに操られているようだったが、これは嫌になるほど自分自身の怒りだとわかっていた。


 僕の吐いた荒い息が、電車の揺れる音に重なる。冷蔵庫の中のような冷たい光が車内に満ちていた。

 折内は黙り込んでいた。我に返って全身が震える。

 ごめん、と言おうとしたのに、先程で肺の中の空気を全て絞り出したように声が出なかった。


「健、あのさ……」

 折内が静かに息を吸った。

「迷惑かもしれないけど、心配だから今からそっち行くわ」

 酔いの覚めた真剣な声だった。僕は見えるはずもないのに必死で首を振る。僕はそんなことを言ってもらえる人間じゃない。


「ごめん、本当に大丈夫だから、ちゃんと寝て休むから……」

「そんな状態で放っておけないだろ。今どこにいんの?」

「家だよ……」

「お前さ、わかりやすい嘘吐くなよ」

 折内が微かに苛立った声で言う。ホームのアナウンスでも聞こえたのだろうか。


「健って一人暮らしだよな? さっきから後ろでずっと赤ちゃんが泣いてんのに家な訳ないだろ」



 僕は咄嗟に通話を切った。

 心臓が耳に張りついたように心音が大きく聞こえる。車両には僕の他に誰もいない。何も聞こえない。

 きゅるる、と赤ん坊が笑う声が響いたような気がした。


 僕は頭を抱え、膝の間に押し込むように蹲った。

 ケガレがまだ僕の中にいる。今にも僕を乗っ取ろうとしている。

 聞こえないはずの声を脳内から追い出すために僕は声を上げた。くぐもった唸りが両膝に響く。



 電車が停まり、自動ドアを抜けた若い女性が僕を見て足早に別の車両へ逃げた。僕は汗と呼気の湿気でぐしゃぐしゃになった顔を拭う。


 スマートフォンの通知が鳴り続けていた。折内が何度も電話をかけている。

 彼も、美鳥も、僕がいるせいで誰かが傷つき続ける。でも、呆れるほどに僕は他人に頼る以外何もできなかった。



 僕は折内からの通知が鳴り止んだのを確かめてから、美鳥に電話をかけた。

「ちゃんと帰れた?」

 温かな声に涙が滲む。僕はしゃくり上げながら今あったことを話した。


「……僕はどうすればいいですか」

「悪いけど、もう私は京都に行くための夜行バス乗り場に来ちゃってるんだ」

 美鳥は眠気を堪えるような声で応えた。夜中だというのに眠りもせずに僕のために駆け回ってくれているのだ。


「幸い日出さんの弟子に連絡が取れたよ。巽さんに伝えたら、明日車を出してくれるって。ことりの家の前で待ち合わせできそう?」

「はい……」

「よかった。穴水くん、気を確かにね。ケガレは弱ってるひとに漬け込むの。それから、死人が出た場所や殺生に関わらないように」

 美鳥は少しの逡巡の後、付け加える。

「絶対に大丈夫だから」


 電話が切れた。美鳥にも赤ん坊の泣き声が聞こえているんだろうか。

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