暁山美鳥.5

 最寄駅で降りず、無人の電車にひたすら揺られ、見覚えのあるホームで降車した。

 僕の足はことりの家のボランティア会場へ向かっていた。


 暗い路面に赤信号だけが反射して、横断歩道が血の海のように見える。住宅街は既に寝静まり、誰ともすれ違わなかった。

 二階建てのレンタルビデオ店は真っ暗な直方体と化し、普段は賑わっているスーパーマーケットの飲食コーナーも、今は机に上げられた椅子が非常灯に照らされる無機質な空間だった。

 人類が滅亡した世界で取り残されたような気分だ。



 やっと見慣れた建物が暗がりに浮かび上がり、足が早まる。入り口は閉ざされていた。

 僕は施錠された非常階段の前にへたり込む。ジーンズの尻に湿気った砂利が噛みつき、肌に冷たさが伝わった。


 膝を抱えて座り込む。何処にいてもケガレから逃げる術はない。それでも、独りで家にいるのは耐えられなかった。

 車の走行音とハイヒールの足音が少しだけ自分を安堵させる。きっと大丈夫だ。

 朝になれば巽が来て、ハガシの元に連れて行ってくれて、ケガレを倒してくれる。恐ろしい夜は今だけで終わりだ。



 いつの間にか眠り込んでいたらしい。

 膝に乗せた顎が落ちて目が覚めるのと、誰かの気配を感じた。

 巽かと思って顔を上げる。薄藍色の空を背に、マスク姿の痩せたあの男が立っていた。


「何してんだ」

 僕は羞恥で熱くなった顔を隠す。

「何でもいいでしょう……」

「よくねえよ。掃除の邪魔だ」

 男はひとつに結んだ髪を払って嫌そうに言う。僕は節々が痛む身体を無理に立ち上がらせた。


「僕のこと尾行してましたよね」

 男がマスクの下の火傷痕が引き攣らせ、嘲笑を浮かべる。

「見たことか。どうせろくでもないことやってろくでもない目に遭ってるんだろ」

「貴方に何がわかるんですか」

 徹夜明けのようにぼやけて熱を持った頭が怒りを増幅させる。


「僕だってこんなことになるなんてわかってたらやりませんよ。ただ居場所が欲しかっただけで、そんなに責められることですか」

 男は骨張った肩を竦めた。

「居場所ならあるだろ。今そこに座ってた。他人なんか気にせずにそうしていりゃいいんだよ」


 僕は男を見上げる。マスクで隠しきれない火傷を顔に負っていても堂々としていた。こんな風になれたら楽だろうと思うと同時に、彼のように全てを諦めることはできないと思った。


「貴方には関係ないですよ。何もしてくれないなら放っておいてください」

「言われなくても放っておく。お前がどんな目に遭おうが関係ない。泣けば誰でも助けてくれると思うなよ。お前のママじゃないからな」

 男はずり下がったマスクを再び上げて去って行った。



 男の姿が消え、幕が上がるように徐々に陽が昇った。

 会館の前に緑色の車が滑り込んだ。運転席から降りた巽が、僕を見て目を見張る。

「こんなに早く来ているとは……お待たせしました」

 夜通し座り込んでいたとは言えず、僕は曖昧に頷いた。

「いえ、大丈夫です……巽さんこそ仕事は大丈夫ですか?」

「時間が自由になる職場ですから。どうぞ乗ってください」

 巽は落ち着いた微笑を浮かべた。



 促されるまま助手席に乗ると、冷え切った身体を暖房の温風が包んだ。綺麗に手入れされたシートカバーを汚さないように座る。昨日から来たままの自分の服が匂わないか急に不安になった。


 巽はハンドルを握り、車を発進させる。ラジオから女子大生の水死体が見つかったニュースが流れてきて、巽は音量を絞った。

「美鳥さんから聞きました。大変でしたね」

「巽さんは美鳥さんの職業のこと知ってるんですか」

「ええ。正直、最初は信じられませんでしたが、今は私の考えの及ばない世界で他人を救っているのだと理解しています」

 僕はジーンズについた砂を取り、車内に捨てる訳にもいかず握りしめた。


 巽は正面を見据えながら言った。

「穴水くん、私が来る前に誰かと会いましたか?」

 僕は少し考えたからあの男を思い出す。

「よく出入りしてる清掃員の、火傷のあるひとに……」

「彼ですか……」

 巽は僅かに眉を顰める。

「あのひとのこと何か知ってるんですか」

「少々問題のある方です。前からボランティアの子どもや学生に近づいて怖がらせたとか。あまり近付かない方がいいかもしれません」


 確かに、あの男は僕がケガレに取り憑かれる直前に現れ、僕を監視していた。何か関わりがあるんだろう。もしかして、読み聞かせにの子どもたちにおまじないを教えたのもあの男じゃないか。

 火傷の男が澱んだ目で子どもたちに禍々しい図と呪詛を吹き込む姿を想像して、背筋が寒くなった。



 窓外を流れる光景は徐々にビルより街路樹の割合が多くなり、広い道路も舗装されたアスファルトから土色の路面に変わった。

 枯れた田畑が左右を流れ、案山子や無人販売所が垣間見える。


 不安になった頃、巽が一軒家の前で車を停めた。

「着きました」

 神社か寺を想像していたが、助手席から見えるのは椿の生垣に囲まれた古風な家屋だった。玄関にはとぐろを巻いた水色のホースと、牛乳配達のケースが置いてある。老夫婦が住んでいそうな家だと思った。


 磨りガラスの引戸が開き、中からセーターを纏った二十代後半の男性が現れた。

 昨日テレビ通話で見た日出と何処か似ている。柔和で優しげだが、引き締めた唇が意志が強そうに思えた。


 巽が慇懃に頭を下げた。

「お久しぶりです。こちらがご紹介のあった穴水くんです」

「お久しぶりです、巽さん。穴水くんもよく来たね」

 男は柔らかく微笑んで続けた。

「ハガシの碓氷うすいと申します。日出から話は聞いています。ご不安でしょうから早速始めましょうか」


 案内された玄関は樟脳の香りが満ちていた。廊下には家族写真や小学校の絵画コンクールの表彰状が飾られている。

 これから祓いを始めるとは思えない、生活感に満ちていた。


 考えを見透かしたように、前を歩く碓氷が言う。

「両親が遺した家でね。今は独りで住んでるんだ。お祓いをする場所には見えないだろうけど、安心して」

 巽が僕の顔を覗いて口角を上げた。

「私も以前、碓氷さんの祓いに立ち会ったことがあります。ハガシは場所を選ばないそうで」


 僕は延々と続く廊下を見回した。こんな広い家にひとりで暮らしているのか。

「碓氷さんのご両親は……」

「先立ちました」

 短い答えにそれ以上何も聞けなかった。ケガレの起こした事件に巻き込まれたのかもしれない。美鳥と同じく、彼も命懸けで他人を守っているんだろう。



 ススキ模様の襖を開けると、広々とした居間があった。部屋をぐるりと囲うように先祖代々の遺影が置かれている。死者たちの視線が降り注ぐようで、僕は目を背けた。

 庭は雑草が伸び、錆びた物干し竿と、犬小屋の残骸らしきものがあった。


「じゃあ、穴水くんはそこに座って。巽さんは少し離れててください」

 碓氷は正座した僕の顔を覗き込み、静かに唸った。

「これはすごいね」

「すごいって……?」

「最近取り憑かれたって聞いたけど、このケガレは十年来の力を溜めてる」

 思わず身を逸らした僕の肩を碓氷が押さえ込んだ。


「でも、見分けられる段階でよかった。完全にケガレに乗っ取られるとハガシでもわからないんだよ。そうなったら、元の人格は完全に消え失せる」

 僕が慄く間もなく碓氷は続ける。

「その段階でも見分けられるハガシもいるらしいけど、私はそうじゃない」

「……もしかして、美鳥さんの従兄弟のことですか」

 彼は少し驚いてから目を伏せた。

「知ってるのか。そうだよ、彼がいればよかったんだが……とにかく、まだ私の手に負える状況でよかった」



 碓氷は仏壇の前に進むと、一本の線香を立てた。重厚な香りの煙が畳を這い、部屋中に満ちる。

「師匠からの受け売りだけど、ハガシは霊媒師や僧侶と違うと言っても、古来の祓いには学ぶべきところがあると思うんだ。かつて悪霊とされたもののの中にはケガレも混じっていただろうからね」


 僕は煙を掻き分けるようにこちらへ戻ってくる碓氷の所作を見守る。奥で正座する巽の姿が霞んで見えた。


 碓氷は僕の顔に手を翳す。

「穴水くん、ここに来る前にひとが死んだ場所や動物の死体とか触らなかったね?」

「はい……」

「じゃあ、やるよ」

 彼が僕の前に膝をつく。煤けたレースのカーテンの向こうを鳥の影が横切った。

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