穴水健.9
線香の匂いが鼻腔を刺し、脳を重く満たす。碓氷は僕を見下ろし、静かに唇を動かした。
「あはりや、あそばすと申さぬ……」
僕は畳に手をついて後退る。ささくれたいぐさが掌に刺さった。それはおまじないの言葉じゃないか。
碓氷は先程とは違う鋭い視線で僕を牽制しつつ、唇を動かすのをやめなかった。巽は揺蕩う煙に巻かれながら変わらぬ微笑を浮かべている。
おまじないの這うような音階が低く高く響き、碓氷は口元を引き締めた。
「今唱えたのは昇祝詞というんだ。穴水くんに取り憑いたケガレは、降祝詞を改変したおまじないを媒介にしていたからね。その逆で、穴水くんの身体から出て行ってくれるようお願いしたんだ」
「もうケガレは出て行ったんですか?」
「いや、まだだ」
碓氷は再び僕の肩に置いた。両肩に重みがかかり、身体が畳に沈み込む錯覚を覚える。彼は子どもに言い聞かせるように囁いた。
「穴水くんの中は居心地がよかっただろ。君らは優しいひとが好きだからな」
僕は碓氷を見返す。彼の瞳には引き攣った僕の顔が映っていたが、視線は僕を透かして身体の奥底の何かを見据えていた。
「寂しかったな。誰にも見つけてもらえなくて。やっと見てくれるひとに会えたんだもんな」
う、く、と喉から絞り出すような声がひとりでに漏れた。頭の中で赤ん坊の泣き声が響いた。
金属を擦り合わせるような甲高い、厭な声じゃない。寂しくて泣き出した、ただの子どもの嗚咽だった。
「穴水くんの身体で動けて楽しかったか。たくさんのひとと話せて嬉しかったか。それができなくなって悔しかっただろ。彼も同じ気持ちだったんだぞ」
僕の頰を生温かい指がなぞったような気がした。いつの間にか自分が泣いていることに気づく。僕の中のケガレが泣いているんだ。
真っ黒な赤ん坊が身を捩って啜り泣いているのがわかる。恐ろしく、憎かったケガレが初めて可哀想に思えた。
こいつは僕と同じだ。誰かと触れ合って生きてみたかった。だから、僕に取り憑いたんだ。
碓氷は諭すように続ける。
「返してやりなさい。そこは君のいていい場所じゃない」
碓氷の手がぬかるむ土に触れたように、僕の肩にずぶりと押し込まれる。不思議と不快感はない。手の平の温かさが身体の奥まで染み渡るようだ。
碓氷の腕が肘まで僕の身体に沈み込む。僕の心臓の下で彼がそっと手を広げたのがわかった。
汚泥を掬うように翻った手の平には、黒い赤ん坊が乗っていた。
赤ん坊が碓氷の手に縋りつき、碓氷は優しく抱き止める。もう泣き声は聞こえない。
碓氷の手は上を目指し、僕の両肩から徐々に引き出された。僕の胸から黒い半円が覗いた。あの赤ん坊の頭だ。怖いとも、有り得ないとも思わなかった。
シャツの胸を突いて現れた赤ん坊の顔に皺が寄る。きゅるると笑ったような気がした。
身体がすうっと軽くなった。
我に返ると、線香は燃え尽き、仏壇の板に蛆虫のような灰が乗っていた。煙は空調の風に押し流され、微かな香りだけが残っていた、
碓氷が疲労困憊の表情で畳に手をついた。巽が彼に駆け寄って支える。
碓氷は頭から水をかぶったように汗だくで、息を切らせていた。
「穴水くん、どうかな……」
僕は涙で濡れた顔を擦り、自分の胸に手を当てる。何の違和感もない。
「大丈夫、みたいです……」
「それはよかった」
遅れて、助かったのだと実感が湧いた。もう何も怯えなくていい。自分の身体と人生が自分のものになったのだ。自然と笑みが漏れたのは何日ぶりだろう。無理やり筋肉を吊られたような笑いじゃない。自分の笑顔だ。
僕は屈み込んでいる碓氷よりも深く身を折り、畳に額をつけた。
「碓氷さん、巽さん、本当にありがとうございました」
碓氷は疲れ果てた顔で微笑んだ。
帰り際、碓氷は僕に小さな小豆色の御守りを手渡した。
「気休め程度のものだけど持っていってほしい。ケガレは一度逃した者に執着するからね。あれはまだ未熟で、素直に出ていってくれたから大丈夫だとは思うが」
また恐怖で胸が締めつけられた。まだ完全に終わった訳ではないのだ。それでも、真剣な眼差しで僕を見送る碓氷の方がずっと怖い思いをしてきたのだと思うと、折れてはいけないと思えた。
僕は何度も礼を言ってから巽の車に乗り込んだ。
夕焼けの空が古風な家や赤く染まった生垣を押し潰すように垂れていた。
巽は車を走らせながら言った。
「とにかく、間に合ってよかったです」
「巽さんもありがとうございました」
「いえ、私にも責任の一端はありますから。子どもたちの間に流行っているおまじないでこんなことになるなんて……」
そうだ、あのおまじないは巽が連れてきた少女から教わったのだ。子どもたちにもケガレが訪れる危険はないのだろうか。
「巽さんのせいじゃないですよ。それより、あの子たちの周りでも変なことは起こっていませんか?」
「はい、今のところは。美鳥さんからも何も聞いていません」
巽は目尻に皺を寄せた。
「穴水くんは優しいですね。私を責めもせず、真っ先に他人を気遣うなんて」
「そんなことないですよ……」
巽は赤信号で車を止め、ハンドルにもたれかかった。
「碓氷さんの祓いには以前立ち会ったことがありましてね。彼なら穴水くんを任せられると思ったんです。彼も優しい方だから」
車窓を埋め尽くす茜色の雲海を見ながら、僕も優しく強くなりたいと思った。自分を守るためのごまかしじゃなく、今度こそまともに生きようと。
巽に送られて家に帰ると、事実のドアの前に白いビニール袋がかかっていた。
不審に思いつつ手をかけると、中からおにぎりや経口保水飲料、ゼリー、レトルトのお粥が零れ落ちた。たくさんの食材の中にノートの切れ端が入っている。ボールペンの走り書きが残されていた。
「健へ
ごめん、美鳥さんに聞いて家教えてもらった。落ち着いたら連絡して
恵斗」
折内だ。僕はあんな突っぱね方をしたのに、あれから心配して訪ねてくれたんだ。また泣きたくなった。
僕は袋を抱えて玄関に飛び込み、冷たい石の上に座って、折内がくれたものを片っ端から頬張った。生きていていいと言われたような気がした。
米粒やゼリーでベトベトになった手を洗いに洗面台に向かう。鏡に映る僕は、本物の僕だ。
僕は丁寧に手を洗い流してから、スマートフォンを開いた。母や美鳥からのメッセージや大学のゼミの知らせも大量に溜まっている。
だが、まずは折内に詫びと礼を伝えたかった。僕は緊張を堪えつつ電話を鳴らす。もう夜遅い。出てくれるだろうか。
三コールで折内が出た。
「健? もう大丈夫かよ!」
いつもと変わらない明るい声だった。
「大丈夫。心配かけてごめん。ありがとう」
「あれから美鳥さんとかに片っ端から連絡してさ、詳しく言えないけど大変なことに巻き込まれてるっていうからさ」
「うん、ちょっといろいろあって……」
折内は軽い口調で続ける。
「あのさ、きもいことしてごめんな。勝手に家行くとかストーカーかよって感じだよな」
「全然そんなことないよ。助かった。僕の方こそごめん」
折内が唇を舐める音が聞こえ、少し間を開けてバツが悪そうな声が響いた。
「……更にきもいこと話していい?」
「きもくないよ」
僕が苦笑すると、折内もつられて笑う。
「前、高校の同級生が自殺したって話したじゃん。おれその子と仲良くてさ、ていうか、好きだったんだよね」
「彼女だった?」
「いや全然! 頭いいし可愛いし、おれとか相手にされないって」
折内はひとしりき笑ってから静かな声を出した。
「その子、昔いじめられてたり、変な奴に付き纏われてるとかで相当参ってたらしくて。結局新聞にも載るような酷い死に方しちゃったんだよ。おれ全然気づけなくてさ」
僕は何も声をかけていいかわからなかった。折内は独り言のように呟いた。
「だから、二度と同じこと繰り返したくねえんだ。勝手だし、頼りないかもしれないけど、健も悩んでるなら言ってほしい」
「ありがとう……今度はちゃんと連絡するよ」
「絶対だからな!」
折内はそう言って電話を切った。
夜の闇が部屋を満たす。もう怖くはなかった。明日への希望があった。朝になったら大学に行って、みんなとちゃんとやり直して、美鳥にも礼を言おう。
悪夢に怯えずに寝られることがこんなに嬉しいとは思わなかった。
チャイムの音で目が覚めた。
開けっぱなしのカーテンから光の矢が射してくる。既に日は高く登っていた。
勧誘か何かだと思って放っておいたが、チャイムは等間隔で鳴り続けている。折内かもしれない。
僕は眠い目を擦って玄関に向かい、ドアを開けた。
目の前にいたのは見たことのない男女だった。ドアの前に立ちはだかる男性は大柄でよく日焼けしていた。鋭い視線と服の下からでもわかる筋肉に威圧される。彼の後ろにいるのは髪をひとつにまとめた、冷たい印象の女性だった。
「どちら様でしょうか……」
手前の男性は戸惑う僕に一礼し、かっちりと着込んだスーツから黒い手帳を取り出す。
「警視庁から参りました。捜査一課の
ドラマでしか見たことのない警察手帳だった。
「穴水さん、大鹿
目の前が真っ暗になった。
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