暁山美鳥.3

 美鳥の瞳孔が弓を引き絞るように細くなった。

 緊張で僕の声が上ずる。

「あの、今からお祓いするんですか? 神社とかお寺とか行ったり、お神酒とか榊とか用意するものじゃ……」

「しないよ」


 美鳥は短く答えた。

「そういう除霊は敵の出処を探って、それに応じた祓いを行うもの。大抵悪霊が憑いてるっていうのは、信仰による思い込みが殆どだからね。悪魔が憑いてると思ってるキリスト教信者に日本のお寺でお祓いしても効かなさそうでしょう?」

「はい……」

「でも、ハガシは違う。文字通りケガレを引っ剥がすの」

「どういうことですか?」

「例えば、霊媒師がクレーマーの話を聞いて納得して帰ってもらうものなら、ハガシはプロレスラーを呼んでクレーマーをぶん殴って帰らせるようなものかな」

 美鳥は冗談のように笑う。



「じゃあ、やるね」

 彼女は不意に手を伸ばすと、僕の額に指先をつけた。

 グラスの水滴で冷えた指が、皮膚の下の頭蓋の凹凸を確かめるように滑る。そのとき、ずぶりとぬかるんだ泥を踏み抜いたような感触が額に走った。


 水面に手を差し入れるように、美鳥の指が、皮膚も骨も貫いて僕の頭の中に侵入してくる。

 うわ、あ、と、思わず漏れた声が頭蓋に反響して、指先が揺れた。

「穴水くん、動かないで」


 美鳥は鋭く言った。

 痛みは感じない。ただ、体内に白い指がずぶずぶと挿し込まれていく感触だけが響く。

 目を見開くと、美鳥の指の第二関節までが僕の額の前で消失していた。有り得ない。人間の身体にこんなことが起こるはずはない。


 意識が遠のいた。

 目蓋を閉じると、僕の頭の中で白い花が開くように五本の指が拡がる映像が浮かぶ。甲高い泣き声が響いた。

 水に一滴の墨汁を垂らしたように、脳内に黒いものが浮かび上がる。焼け焦げた胎児に似た塊がいた。


 鼓膜にこびりついた、あの泣き声が蘇った。

「美鳥さん、何かいる、今、手、どうなって……!」

 もがいても僕の身体は微動だにしない。

 赤ん坊は顔を皺だらけにして絶叫する。芋虫のように短く膨れた手足が動くたびに、僕の頭に鋭い痛みが走った。


「そこか」

 美鳥の声が響き、指が赤ん坊を鷲掴みにする。赤ん坊が切れ目を入れたような唇を開いた。未熟なのにぬらりとした肉感の口腔内に小さな黒い歯がある。

 金属片を擦り合わせるような不快な音が、脳内にこだました。



 美鳥が呻きを上げて飛び退いた。

 座椅子が軋む音で我に返る。額の違和感も、頭の中の黒い赤ん坊も消えていた。

 僕は震える手で自分の頭を擦る。何の傷もなく、骨の凹凸があるだけだ。


「今のは、何だったんですか……」

 向かいの席の彼女は、右手を押さえて呻いていた。手の甲の骨をなぞるように半月型の赤い傷ができて、血が流れていた。歯型だ。


「美鳥さん、それ……!」

 慌てておしぼりを渡そうとしたが、近くにあった水のグラスに肘がぶつかった。がしゃんと音がして、氷と冷水が朱色の卓に広がる。


 手当が先か、水を拭くべきか、戸惑っていると、美鳥は眉を下げて笑った。

「いやあ、びっくりしたでしょ」

 彼女は礼を言って、水浸しのおしぼりを受け取る。手の傷に押し当てると、白い布地に薄い赤が滲んだ。



 先程の音を聞きつけた店員が駆けつけ、素早く氷水を片付ける。テーブルに残った線上の透明な跡が乾き、新しい水が運ばれてくるまで、僕はまた何もできなかった。


 美鳥は傷口を抑えながら苦笑した。気丈に構えているが、痛みか恐怖か、真っ白な指先が震えていた。

「穴水くん、どう感じた?」

 僕は未だ混乱する頭を必死に回す。


「美鳥さんの手が僕の頭の中に入ってきて、中にいる黒い赤ん坊みたいなものを掴もうとした……ような気がしました」

「これがハガシのやり方なの。実際に頭に指を突っ込んだりはしてないよ。そう見えるだけ。体内のケガレを掴んで引き剥がすんだ」

「じゃあ、美鳥さんが赤ん坊に手を噛まれたように見えたのは」

「ケガレの奴、反抗してきた。想像以上にしぶといね」



 美鳥は左手で梅酒のロックを煽り、澱んだ瞳で卓を見下ろした。

「そういう訳で、上手くいかなかった。ごめんね。私の見立てが甘かったせい」

「いや、そんな、怪我までして……」

 本当は、まだあれが体内にいるのかと思うと恐怖で叫び出したかったけれど、美鳥の悲痛な笑顔を見ていたらそうもできなかった。



 美鳥は酒を飲み干し、グラスに溜まった蜜色の雫を睨むと、深く息を吐いた。

「悪いけど、私の手には負えないみたい」

「そんな……」

「心配しないで。知り合いのハガシにどうにかできないか聞いてみるから」

 彼女はおしぼりを手に縛り付け、スマートフォンを取り出した。


 真剣な顔で液晶に指を走らせる彼女を見つつ、僕は烏龍茶で唇を湿らせる。

「ハガシって、美鳥さん以外にもたくさんいるんですか」

「たくさんはいないよ。寧ろジリ貧」

 美鳥はスマートフォンを耳に押し当て、しばらく待ってから舌打ちした。まとめた髪の後れ毛から冷や汗が一滴伝い落ちた。


「ハガシは家族でも力が遺伝しないことがほとんどなの。だから、漫画に出てくる陰陽師の一族みたいに集結することもできないし、お互いの存在すら確認できないこともある。北海道でケガレが誰かを襲っても、沖縄で生まれたハガシは知る由もないってこと」

「じゃあ、どうやってハガシどうしで繋がってるんですか?」

「ケガレを見つけて駆けつけたとき顔を合わせる偶然に賭けるしかないのが殆ど。後は、霊媒師の中からハガシらしいひとを見つけてコンタクトを取るとかね」


 僕はジーンズの裾で汗ばむ手を拭いた。

「ハガシと霊媒師は違うんですよね?」

「そう。私たちに霊魂とか幽霊の存在はわからない。いるのかもしれないけどね。私たちに認知できるのはケガレだけ」

「でも、今霊媒師として、って……」

「ケガレが呼び起こす事態は俗に言う霊障とよく似てるから、敢えて神職に就いたり、霊媒師を自称して、ケガレに纏わる事件を探してるハガシもいるの。今連絡してるひともそう……繋がった!」



 美鳥は人差し指を唇に押し当てる。僕は固く口を結んだ。

 静まり返った個室の空気を、真上のスピーカーから流れる和楽器のような音楽が掻き混ぜる。


 スマートフォンの向こうから男の声が答えた。

「美鳥さん、また厄介なもん引き当てはったな」

 訛りのある響きは老人のように掠れていた。

「お久しぶりです。早速ですが、件の穴水くんが目の前にいるんです。画面越しに見てもらえますか」

「ええよ。ビデオにして」

 美鳥はスマートフォンを僕に向ける。


 狭い画面に白い和服を着た、三十代の長髪の男性が映った。背後には御守りのようなものを吊るした木造の壁がある。美鳥と違って、今からお祓いを始めるような神聖な装いだった。


日出ひでと申します。京都の神社で禰宜をやらしてもらってます」

 彼が頭を下げたとき、黒髪の隙間から首筋が覗いた。喉の中央にガラス片で引き裂いたような傷がある。

 日出は苦笑して喉元を摩った。

「ハガシならよくある話や。ようこの歳まで生きとりますわ」

「すみません……」


 日出は画面越しに僕を眺め、眉根を寄せた。

「だいぶ根っこに深く挿しとるね。穴水くん、自分でケガレを手放したくないと思ってるんと違いますか」

 僕は虚をつかれて呆然とした。

「そんな訳……」

「責めてる訳じゃないですよ。ケガレは人間を取り込むために好人物を装うもんやから、いてくれたらええもんだと思ってしまうのもわかります」


 美鳥が身を乗り出して割り込んだ。

「私じゃどうにもできなかったんです。日出さん、何とかなりませんか」

「残念やけど、今こっちの仕事の真っ最中で、放り出す訳にもいかへんのです。私じゃなくても従兄弟さんがおるやろ」


 僕は目を瞬かせる。

「どういうことですか?」

「聞いとらん? 美鳥さんの従兄弟は今いるハガシの中で一番強いんですよ。あの子ならどうにかなるやろ」


 だったら、何故最初に教えてくれなかったのだろう。僕が見つめると、美鳥は沈鬱に首を振った。

「……あの子はもうケガレと関わることをやめました。強いからって傷つかない訳じゃない。ハガシとして生き続けたら私より早く死んじゃうと思う」


 画面の向こうの日出はしばし黙り込んでから言った。

「神奈川に私の弟子がおります。話つけておきましょう。美鳥さん、それでええかな」

「ありがとうございます」

「穴水くん、それまで漬け込まれんようにな」


 ざらついたノイズの後、ビデオ通話が途絶えた。美鳥は空のガラスの底を眺め続けていた。

「ごめんね、本当はあの子が協力してくれたら一番いいんだけど」

「大丈夫です。本人が望んでないのに巻き込む訳にはいきませんから」


 僕はガラスに反射する自分が上手く笑えているか確かめる。その一番強いハガシに頼んで今すぐ助けてくれと言いたいのを必死で堪えた。

 茶色の酒に映る僕の笑顔は歪んでいた。

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