暁山美鳥.2

 美鳥の家を出てすぐ、忘れていた恐怖が押し寄せた。

 僕の身体にはまだケガレが巣食っている。一歩踏み出す間にも眼球に黒い靄が染み出して、赤ん坊の声が聞こえるかもしれない。

 僕は追われるように錆びた階段を駆け下り、帰路へと走った。



 幸い家に着くまで異変は起こらなかった。

 玄関に飛び込むと、窓から差し込む夕陽の温かな橙が廊下に伸びていた。


 スニーカーを脱ごうと腰を下ろすと、靴箱の上にある、覚えのない小さな紙箱が目に入った。

 青と白の花模様の蓋を開くと、使い捨てのアイマスクと入浴剤が入っていた。誰かからもらったのだろう。


 僕は手の震えを堪えてスマートフォンを開く。

 メッセージアプリには知らないアイコンや名前が大量に並んでいた。

 通知欄の一番上には電車の遅延で待ち合わせに五分遅れるという大鹿からの謝罪があった。母からのメッセージもある。

 昨日のことも、母と何を話したかも、全く記憶がない。

 僕の家も、人生も、これほど侵食されていたのだ。



 僕はスニーカーを脱ぎ捨て、寝室の枕の下に入れたままのおまじないの紙を引き摺り出した。枕カバーの皺に合わせてぐしゃぐしゃになった、不気味なインクの塊が僕を見上げている。

 僕は力のまま紙を引き千切ろうとしたが、指に力が入らなかった。


 大鹿や見知らぬ友人からのメッセージも、花柄の紙箱も、僕に贈られたものじゃない。僕を乗っ取った何かか築き上げたものだ。

 この身体から本当に出ていくべきなのはどちらなのだろう。僕はおまじないの紙を握りしめて床にへたり込んだ。



 眠ろうとしても、目蓋の裏に滲んだ闇が五つに分かれてあの黒い指に変わり、僕を内側からこじ開けるような気がした。

 眼球と唇が乾いていく。身体が冷えているのに、脳の芯が焼けた鉄のように熱く、ろくに眠れないまま朝が来た。


 午前五時四十分、トークアプリの通知音が響いて届いて心臓が跳ねる。画面を開くと、美鳥からのメッセージだった。

「眠れた? 心身が弱ってると余計に危険だから、難しいとは思うけどちゃんと休むこと。学生の本分も忘れずにね。午前の授業が終わったら迎えに行くから」


 スタンプも絵文字もない簡潔な文だが、端々に温かみを感じた。まだ夜明け前だ。美鳥もほとんど寝ていないのだろう。僕を取り巻く関係が僕じゃない何かが築いたものだとしても、本当の僕を心配してくれるひとがひとりいる。


 窓に映る家々の隙間から、朝日が夜空の裾を濁った白で汚し、部屋のフローリングに明かりが滲み出す。希望が見えた気がした。



 大学を訪れると、長い間海外に行って今しがた戻ってきたような錯覚を覚えた。


 黒い靄に覆われていない視界で眺めるキャンパスはひどく眩しく、居心地が悪い。

 すれ違う知らない面々が、僕に軽く手を挙げて挨拶する。僕は指名手配犯のように鞄を抱えて早足で歩いた。

 重い教科書の間には、おまじないの紙が入っている。



 俯きながら進んでいると、覚えのある声が聞こえた

「健?」

 廊下の向こうから折内が駆けてきて、僕の肩を掴む。

「お前、大丈夫かよ!昨日急にいなくなったと思ったら、具合悪くて美鳥さんに送ってもらったって聞いて……」


 大丈夫、と答えようとしたが何も言えなかった。たった一言だ。それなのに、喉の奥が乾燥して張りついたように声が出ない。

 窓ガラスに引き攣った僕の顔が映る。これが本当の僕だ。自分が変われたなんて馬鹿な思い込みだった。


 折内が僕を覗き込む。身が竦んだ。彼の顔の中に失望や軽蔑が現れるのを予感してしまう。

 折内は僕の肩から手を離して言った。

「顔色やばいじゃん。無理しないで今日は休めって。ノート取って後で内容送るからさ」


 彼はごく普通の友人に向ける笑顔だった。数日前に同じ顔で言われた言葉が脳裏を過ぎる。

「今の方が全然いいよ」

 折内の気遣いは僕に向けられたものじゃない。僕は薄い膜を通したように遠く響くチャイムを聴きながら廊下に立ち尽くした。



 僕は自習スペースの不安定な椅子に座り、午前が終わるのを待った。

 握りしめたスマートフォンに、動画サイトでフォローしていた怪談ラジオの新作の通知が届く。聞く気になれなかった。


 社会から逸れた者を許容してくれるホラーが好きだったのに、本物の孤独を味わった今では、死を連想させる言葉が目に入るだけで恐ろしい。

 僕は何もかも中途半端だ。



 永遠にも思える時間が過ぎて、美鳥からの着信が届いた。僕はキャンパスを飛び出し、昼食へと向かう学生たちの群れを掻き分ける。

 部室棟に面した通りに質素なトレーナー姿の美鳥が立っていた。


 彼女は僕に気づくと、片手に提げた缶チューハイを揺らして合図した。

「調子はどう?」

「今のところ大丈夫です……大学の前で呑んでたんですか?」

「いいの、お清めみたいなものだから! これからケガレに立ち向かうんだし、気合い入れないとね」


 美鳥はあっけらかんと笑ってチューハイの残りを喉に流し込んだ。世間では彼女のことをろくでもない大人というんだろう。僕にはそれが心底安心できた。



 美鳥が向かった先は、上野アメ横だった。

 コンコースを降りてすぐに雑多な飲み屋街の看板と、外国語の混じった声が押し寄せる。僕の知る洗練された東京とはまるで違った。


 雨垂れで汚れた高架下に焼き鳥の煙が満ち、店頭に並ぶポルノ雑誌をコラージュしたシャツや外国の菓子が曇る。昼間だというのに、屋台にはビールグラスを並べた人々が座っていた。


「すごいところですね」

「いいでしょ? いつも活気があってさ」

 美鳥は唖然とする僕の肩を叩く。

「ケガレは気持ちが弱ってるひとに入り込むの。だから、元気をもらえるところで戦おう」


 彼女に導かれた先は、ビルとビルの間に無理やりねじ込んだような狭い居酒屋だった。

 促されるまま個室の座席に座り、自分が何をしに来たのか不安になったところで、美鳥が手を差し出した。


「おまじないの紙持ってきた?」

「はい……」

 僕は慌ててくしゃくしゃになった紙をリュックサックから引き摺り出す。

 美鳥は表情を打ち消し、滲んだ墨の塊を睨んだ。

「これ、誰から教わったの」

 先程の様子とは違う、張り詰めた声に、僕は思わず萎縮する。

「読み聞かせ会の子からです。ネットでも出回ってて、学校でも流行ってるみたいです」

「危ういね。後で出処をちゃんと調べなきゃ」

「そんなにまずいものなんですか」



 美鳥は墨で書かれた文字を見下ろし、眉間に手をやった。

「読みからおはりや、書く遊ばせたまえ、降りおりて、語りかたりましませ……これ元は伊勢の神宮なんかで使われる祝詞を意図的に改変してるんだよ」


 僕は息を呑む。おまじないを行ったときに感じた、不似合いなほどの荘厳さと忌避感は間違っていなかった。


「降祝詞っていう神事で神様をお招きするときに奏上する言葉なんだけど知ってる?」

「少しだけ……『遊ばす』は『あそばす』なんじゃないかとは思ってました」

「そう。神聖な儀式以外ではみだりに唱えちゃいけないものだよ。それに、このおまじないは悪意を持って改変されてる」

「悪意、ですか……」

「『読み』は『黄泉』とのダブルミーニングだね。日本神話で穢れが訪れるとされる黄泉の国。しかも、本来は神様にお帰りいただく昇祝詞とセットなのに、おまじないにはそれがない。ケガレを取り憑かれて居座らせるための降霊術だよ」

 個室居酒屋のとろりとした照明が暗く伸びたような気がして、悪寒を覚えた。



 美鳥はおまじないの紙を灰皿に押し付け、ライターで火をつけた。あっという間に紙が縮み上がり、小さな炎を纏って灰に変わる。


「これで大丈夫なんですか……?」

 美鳥は沈鬱に首を振った。

「まだだよ。感染源を経っても既に病気になったひとを治せないのと同じ」

「そんな、じゃあ、僕には一生ケガレが取り憑いたままってことですか?」

 彼女は取り乱した僕を冷静に見つめた。

「大丈夫、そのために私たちハガシがいるんだから」

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